ディナージャ編 9
つまり、もう怒っていないということだ。でもさっきまであれほど怒っていたのに、突然もういいと言われても、あたしに納得できるわけがない。
ミルダはその気持ちがわかっている。リジオさんと目を合わせて、二人で示し合わせるように笑った。
「魔術師同士だと、たまにこうやってためされることがあるんだ。珍しいことじゃないし、自分の力量を知らせることにもなる。ためされるってことは、それだけの魔力があると見られたってことだ。怒ることじゃない」
「でも怒ってた……」
「それはターニャにも金の苺を出したからだ。お前だったら死んでもこの苺のことわからないし、この人だってそれをわかってて出したんだ」
「悪ふざけがすぎた。あやまるから機嫌直してくれ、ターニャ」
ごめんねと言われても、あたしはまだ納得できない。いや、納得はしてるのだけど、あれだけハラハラさせられて、損した気分なのだ。
「……ミルダは、本当に身体大丈夫なの?」
いっそとことんすねてしまおうかと思ったけど、師匠の身体を気にしてしまうのが弟子というもの。いまだに空咳を繰り返す彼は、不機嫌そうに訊くあたしに肩をすくめてみせた。
「俺の身体が丈夫なのはお前が一番よく知ってるだろう」
「それは、そうだけど……」
ミルダは細い体つきをしているけど、それは皮下脂肪のかわりに筋肉があるだけで、体力や抵抗力といったものが他の人より優れている。だからその体力を消耗してしまうほどの魔術はとても強いものであり、でも彼は回復力も高いので、あたしはミルダの弱った姿というものを見ることがあまりなかった。
「でも、辛そうだよ?」
「大丈夫だ。すぐ良くなるから」
たとえば、手持ちの食料が残り少なくて、でもまわりには安全な植物がない時。ミルダはあたしに食料を渡して、自分は致死量には至らないものの毒性のある木の実を平気で食べた。いたみかけている食料があったら、あたしに新しいものを買って、自分は古いものを食べる。それで彼がお腹をこわしたということはほとんどない。
だからこそ、一瞬とはいえ肩で息をした彼を、心配せずにはいられない。
あたしの心配が通じたのだろうか、リジオさんも眉をひそめた。
「身体に影響が出るほど入れてはいないが……」
「だから大丈夫だって。ターニャが心配しすぎるんだ」
でも、と食い下がるあたしに痺れを切らし、ミルダはあたしのローブとカバンを乱暴に手渡した。
「でもじゃない。お前、外に出て周りの様子見てこい。きっと水辺に金の苺があるはずだから、それ見て感動してこい」
そして目で、師匠のいうことが聞けないのか、と言う。それをされたら、あたしには逆らうことができないのだ。
それでも顔をしかめてしまうと、ミルダはあたしの服を引っ張って引き寄せる。そしてよろめいて抵抗できないのをいいことに、緑の香をまとわせ、耳たぶに唇をつけた。
それも一瞬のことで、彼はあたしの驚いた顔を見てニヤリと笑う。
「まぁ、その驚いた表情が一番マシな顔かな」
「は?」
言葉の意味がよくわからず、あたしはキョトンとしてしまう。そしてあとから効く打撲傷のように、じわじわとその言葉の意味に対する怒りがこみ上げてきた。
「行けばいいんでしょ、行けば!」
苦笑とも失笑ともつかない笑い声を、あたしはテントから出る瞬間、確かに聞いていた。
「――なによ!」
あてずっぽうもなく森の中に入って、あたしはそう吐き出した。
人が心配しているというのに、あの言い方は何なのか。そしてあの行動は何なのか。唇の感触が残る耳に、あたしは手をやってしまう。
ミルダがあたしにじゃれてくるのはいつものこと。そうわかっていても、なれることはできない。彼はいつまでもあたしを子供扱いするのだ。
早く感触を消したくて、あたしは耳をかきむしる。複雑な形をしているぶん、耳は感触がなかなか消えず、ただ爪の痛みを感じるだけ。
あたしのジレンマをよそに森の空気は実に穏やかで、背の高い木々から漏れる光は、あの階段で照りつけてくるのとは違い、肌を撫でる心地よい日差しだ。ひんやりとした風がふけば、梢がやさしく囁いている。
『――ターニャ』
声が聞こえたのは、その囁きがやんだころだった。
『聞いてほしい』
周りには誰もいない。動物も、魔獣もいない。森の中、ぽつんと一人たたずんでいるはずなのに、たしかに耳に声が届く。
『これから、俺の言うことをやってほしいんだ』
もう一度、あたりを見回す。でも、誰もいない。
「……ミルダ?」
でもその声は、耳になじんだ、彼の声だ。