ディナージャ編 5
「きっと家はあると思うけど。魔術師なんだし、金稼ぎぐらいどうだってできるだろ」
つま先で男性の身体を小突いて、ミルダは彼を魔術師だと断言した。あたしもその判断に間違いはないと思う。男性は今まさに、魔術を使っている最中なのだから。
「でも、術使って何してるんだろうね?」
「それは俺にもわからない」
いつも自信満々なミルダは、わからないことはうやむやにせずわからないとはっきり言う。勝手に男性の身体をあさりはじめたと思うと、汚れたベストの中から一冊の手帳を取り出した。
「中、見るの? 失礼じゃない?」
「いつまでもここにいるの嫌だろ、身元わって家に運ぶ」
引き止めるあたしにかまわず、ミルダは手帳を開く。魔術師のほとんどは常に紙とペンを持ち歩き、新しく開発した術などを記すため、無断で中を見るのは禁じられている場合が多い。術を開発していなくても、プライバシーに関わるものだ、あたしだって自分の日記は勝手に見られたくないと思う。
「……リジオ・マーチン」
「その人の名前?」
訊いてもミルダは答えない。それが肯定だとわかっているので、あたしは膝を抱えて待つことにする。
どうやらミルダはこの名前に聞き覚えがあるらしく、手帳を持ったままなにか一人ごちはじめたのだ。
「リジオ・マーチン。リジオ・マーチン……リジオ……なんだったっけ。恋人だっけ変人だっけ……」
「変人?」
あいかわらず、返事はない。
「リジオ・マーチンさん……」
とりあえずあたしは、男性をそう呼ぶことにした。そしてどうにか起きないものかと、肩をゆすってみる。あたしたちが彼を発見してずいぶん時間がたつけれど、顔色が土気色に変わり、呼吸の回数も減ってきているのだ。
このままでは本当に危ないかもしれない。
「リジオさん、リジオ・マーチンさん」
呼びかけても、反応がない。むしろ、触った身体は体温が低く、かたい。不安になって、あたしは呼ぶ声をさらに大きくした。
「リジオさん、リジオさん、聞こえますか?」
身体を揺らしすぎて、眼鏡がずれた。この人童顔かも、と一瞬思ったけど、今はそんなこと気にしている場合ではない。
「リジオさん、起きてください! このままだと死んじゃいますよ!」
「誰だっけ……ぜったい噂になってたのに……」
ミルダはミルダでマイペースだ。一人で考えて、悩み、しまいにはあたしに「うるさいな」と怒る始末。
「中身がいないんだから呼びようがないだろ」
「だからって、このままじゃ……」
「死んだら死んだだ。生物の生き死にに、俺たちが手を出しちゃいけない」
ふいに、ミルダの声のトーンが下がる。射るような瞳に、あたしは声が出なくなった。
普段は大空のようなオリエンタルブルーの瞳が、今にも落ちてきそうな鋭い氷柱を思わせる。もしこれが刺さってきたら、あたしはひとたまりもないだろう。
ミルダは、生と死に敏感になることがよくある。そのときは決まってこういう表情になり、あたしを凍らせるのだ。魔術を使っているわけではなく、これは彼の眼力だろう。
たかぶる感情と比例する緑の香が強く押し寄せてきて、あたしは息苦しさを感じた。
「――ただ」
それを察したのだろう、ミルダがあわてたように目の力を抜いた。
「目の前で人が死ぬのは、俺も嫌だ」
手を伸ばして、彼はあたしの額に触れる。気道をふさいでいた香が、呼吸とともに身体から抜けていく。
「……っ、うぅ」
かすかなうめき声が聞こえたのは、すぐだった。
「リジオさん?」
あたしがまた肩を揺らすと、手をつかまれた。わらをも掴むような力の強さに驚いたけど、すぐに激しく咳き込まれ、起き上がった背中をさすらずにはいられない。
「大丈夫ですか?」
咳は、呼吸をするためだろう。死人のようだった顔に、少しずつ血の気が戻っていく。はじめて開かれた瞳は深みのあるダークブラウンで、それはうつろな空を見、何かを追うように言葉をつむいだ。
「ジュリカ……」
「――ぁあ、わかった!」
空気も読まず、ミルダが嬉々とした声をあげる。そしてリジオさんの顔を見て、目を弓なりの細め、ニヤリと笑った。
「知ってるぞ、リジオ・マーチン。『魔獣に恋したモディファニスト』だ!」