ディナージャ編 2
思い切って前に出しすぎた足が、階段をすべる。登山用に作られた靴でも、光沢重視でつくられた切り出し岩には負けるらしい。
「う……わ!」
女の子らしい悲鳴とはかけ離れた、低い声。全身からいやな汗が噴き出すのを感じて、あたしはとっさに手すりにしがみつく。
バランスを崩した身体は、膝をつこうとして階段の角に皿をぶつける。けれど、何とか踏みとどまることができた。痛みに涙がにじむけど、転がり落ちることに比べればこんな痛みミルダのデコピンぐらいだろう。
「なにやってんだよ」
呆れまじりのため息をつく彼は、あたしを助けようとしなかった。もちろん、手を差し伸べるつもりもないらしい。自分で立つのが当然だと、あたしの数段下で仁王立ちをしている。
「早く立て」
「……はーい」
尖った唇を隠しもせず、あたしは膝の痛みをこらえて立ち上がり、彼を見下ろす。ミルダとの間にはいくつか段差があるはずなのに、彼の目線はあたしとそれほど遠くない。
「怪我は?」
「膝ぶつけただけ」
「目は見えるな?」
「そんなところ怪我してないわよ」
あたしはミルダの弟子であるはずなのに、師匠を敬おうとしない。最初はそれなりに弟子らしい態度をとってはいたけれど、時間がたつにつれ、さも当たり前のように師匠と対等の口をきくようになっていた。
「じゃあ、ちょっと前を向いてみろよ」
「見てるじゃない」
「お前が見てるのは足元だ。階段に気とられすぎ。町並みちゃんと見てないんじゃないか?」
そんな余裕あるわけない。そう言い返そうとしたあごを、無理やり上にあげられる。舌を噛みそうになってまた文句を言おうとしたけど、それより先に見た光景に、あたしは思わず感嘆の声をあげていた。
「すごい、ね……」
「イェピーネは金の町だからな」
先ほどと同じ会話を繰り返すと、ようやくあたしは彼の言葉を理解することができた。
イェピーネは金の町。たしかにこの町は、金の町だ。
「あの光ってるのは、全部……金?」
「全部が全部、純金ではないと思うけど」
町並みに見とれるあたしのために、ミルダは軽く、イェピーネの話をしてくれた。
イェピーネは、金の町と呼ばれるほど、金が多くとれる鉱山のふもとに位置する町だ。急な山を切り開いて開拓された町はほとんどが坂の上に建っていて、階段もあたしが建つのと同じように急なつくりになっている。手前とその奥にある家は重なって隠れることはなく、かならず二階から上は太陽の光を浴びることができるようだ。
今足の下にしている階段は下につけば道となり、また上り階段ができている。それは山を二つに区切るようにつくられ、両脇には店が並んでいる。いわば大通りのようなもので、並ぶ店のほとんどは、装飾品を売っているらしい。
「……すごい、まぶしい」
まぶしい原因は、太陽を遮るものがないからではなく、反射して光っているからだった。石畳の道のつなぎ目や屋根の飾りには惜しげもなく金が使われていて、それが町中に広がるものだから、町並みのどこを見ても金が輝いている。
「金の町、だね」
「だからそう言ってるだろ」
「金獣がたくさんいるの?」
「……ターニャもすこしはモディファニストらしいこと言うようになったな」
つまりそれはイエスということ。金獣の姿をほとんど見たことがないあたしは、期待に胸が躍った。
「もう怖くないだろ?」
「駆け下りてもいいかも」
恐怖など、もうどこにもない。この町を見た瞬間、どうでもよくなってしまった。
先ほどとはうってかわって軽くなった足が、踊りでもするかのように階段を下っていく。本調子を取り戻したあたしに、ミルダはまた肩をすくめ、先を越されまいと早足で下を歩いていた。
一度恐怖を忘れれば、もうこっちのものだ。急斜面だって、視界をさえぎるものがないぶん、空の近くを歩いているようにも感じられる。階段を駆け上るように吹き上がる風が髪をかきあげて心地よく、一度勢いに乗ってしまえばもうふもとまで一気に降りてしまえそうだ。
「ターニャ、気をつけろよ?」
「わかってるわかってる」
言われて、足元を確認する。卵色の階段は段数によって色が濃くなったり薄くなったりと変化していて、降りるのに単調な気分にはならなかった。