ファジー編 END
○○○
――いた。
「ミルダ……!」
走りすぎて苦しくて、あたしは叫ぶので精一杯だった。
肩が大きく上下するけど、頭の中までは動揺していない。今自分がどういう状況に置かれているかは、走りながらでもきちんと確認することができた。
山奥にあるミュラミネ村から、目的の隣町に行くまでは、山を下る必要がある。だからあたしは今までずっと林道を下り走ってきたのだけど、村を発った時間がミルダのほうが早い分、今日中に合流できるだろうとは考えていなかった。
そもそも一人で村を出るのは初めてのことで、この道も一本道じゃなかったらすぐに迷っていただろう。まったく知らない道を歩くのはとても怖かったが、引き返す――つまり山を登る体力はあたしにもう残っていない。
ミルダに会う。それしか進む道はない。
「ミルダ……ミルダ!」
そしてようやく、ミルダの姿を確認することができた。金の髪が彼の動きに合わせてゆれているのがわかる。防寒対策に着ていたローブも、暑くなったのか脱いで肩にかけられていた。
本来なら、あたしはミルダの後姿を追っていることだろう。彼が声に気づくまで名前を呼んで、振り向いてようやくご対面となるはずだ。
なのに彼は、あたしに背を向けてなどいなかった。
こっちに向かって走っている。
隣町になど向かっていない。ミュラミネ村に戻ろうとしている。
「なん……で?」
あたしの呟きは彼に届かない。けれど彼の声は、しっかりとあたしに届いた。
「ターニャ!」
今にも過呼吸を起こして倒れそうなあたしの肩を、ミルダの手が掴む。力がこもっていたけど、酸素不足で麻痺していたのか、痛みを感じなかった。
走っていたときはもちろん苦しかったけど、止まるとよけい苦しくなる。あたしは息をするのでいっぱいいっぱいになって、声が出なかった。
「ああ、よかった……!」
どうしてここにいるの。そう訊きたいのがわかったのか、ミルダが自分から話してくれる。
「村に戻って、ターニャを無理やりにでも連れて行こうと思ってたんだ」
空色の瞳が、今までにないほど輝いている。それがどんな宝石よりも綺麗な色だと、あたしは食い入るように見つめた。
「ターニャはやっぱり、髪おろしてたほうがいいな」
ミルダも疲れで思考がまわっていないのか、関係のないことをしみじみと呟いている。簿風に吹かれてボサボサになった髪を指に絡め、必死に呼吸を整えるあたしを待ってくれていた。
「……あたしも、一緒に行っていい?」
のどに鞭をうって、あたしは嗚咽にも似た声を絞り出す。疲労で涙がでて、ミルダはそれを見て静かに息を吐いた。
「駄目」
目じりにこぼれる涙を、ぬぐわれる。彼は苦しげに表情をゆがめて、ぐっと唇をかんだ。
「――なんて、言うワケないだろ!」
歓喜の声をあげ、ミルダはあたしに腕を伸ばす。
しばらく宙をさまよったそれは、勢いを殺し、握手を求めて差し出された。
ためらいもなく、あたしはその手をとる。ほんのり汗ばんだ手のひらは不快に思わない。むしろ、心地よく感じた。
「よろしくな、ターニャ」
「……うん!」
あたしの目から、またひとつ、涙がこぼれた。
ミルダが引き返してきたため、結局その日は間に合わず、あたしの旅の初日は野宿になってしまった。
夜はまだ肌寒くて、二人分のローブを重ねてくっついて眠った。
自分の行動に不安がなかったといえば嘘になる。これが一瞬の衝動での行動だったとしたら。ミルダと仲違いしてしまったら。才能のなさに呆れられて捨てられたら。考えれば考えるほど不安になった。
それでもあたしは今、新しい世界に飛び出したことに喜びを感じていた。
日が暮れ、夜が更けても、美しい空色の瞳を持つ人は、ずっと自分のそばにいる。
それが、あたしに勇気を与えてくれた。
ファジー編 end