ファジー編 20
「ああ、よかった! 消えてしまったかと思った!」
「よかったって……そうか、森に行くって話、寝てて聞いてなかったもんね」
年齢にしたがってまるくなった身体だけど、筋肉は衰えていないらしい。息がつまるのもおかまいなしに抱きしめられるものだから、あたしが抱きしめていた水獣は苦しくて腕から抜け出してしまった。
青白い肌に冷や汗を浮かべるお父さんを見て、ミルダが頭を下げる。
「すいません、モーダさん……」
「いや、ミルダ君があやまることじゃないさ」
お父さんがあたしと同じことを言うと、彼は笑いそうになった唇を歪めて申し訳なさそうな顔をした。
「――父さん」
ようやく頭がはっきりしたらしいコードが、腕を押しのけながらお父さんに呼びかける。お父さんの顔色が悪いのは、あたしたち心配だけじゃなく、二日酔いもあるようだった。
「母さんが、子供たちをよろしく、って」
「え……?」
声を出したのは、あたしだ。
「今、夢の中に母さんが来たんだ。で、少し話して、帰ってった」
お母さんは、あたしと話していたはずだ。謎をミルダに目で問うけど、彼もわからないらしく首をかしげている。
「ターニャと話してから、僕のところに来たんだ」
あたしたちから身体を離し、コードは濡れた服を脱ぐ。肌に張り付くのが嫌いらしく、服をしぼる姿は几帳面な彼に妙にはまっていた。
「アネットさんも魔術師だったからな。自分で何か使ったのかもしれない……」
小首をかしげるミルダの身体が、不意に揺らぐ。そしてそのまま尻もちをつき、疲労を隠せない顔で荒い息をしていた。
「ミルダ、大丈夫?」
「大丈夫。ちょっと休めばすぐ治るから」
あたしが近づこうとすれば、来ないでいいと止められる。額には大粒の汗が浮き、心配した水獣たちがおろおろと足踏みを始めた。
「水を……くれないか?」
疲労が、治るどころか悪化している。水を汲もうと滑車の縄に手をかけると、あたしもその場に崩れてしまった。
否。
崩れたのではなく、押し倒されたのだ。
「え……なに?」
突然のことに頭が回らなくて、あたしは身体の上に乗っているのが水獣だと気づくのに時間がかかった。
そしてその水獣が、模様のついた牙の間から、苦しげなうめき声を発しているのに気づいた頃には、あたしもその異変に気づいていた。
「目、どうしたの?」
水鏡のように澄んでいたはずの右目が、砂と化しぼろぼろと崩れている。あたしの顔にかかると砂は水に戻り、異臭が鼻をついた。
「――異常化だ!」
そう叫んだコードが水獣を引き離そうと駆け出してくるけど、ミルダに止められもみあいになっている。体調が悪いにもかかわらず、止めるミルダは必死だった。
「離せ! ターニャが!」
「地術を使うな!」
「異常化した理獣は相殺させるのがいいんだ、地術の他に何がある!」
「消してしまったら意味がない!」
大声で言い争い、その険悪な空気が他の水獣にも伝わっていく。お父さんはどうしていいかわからないようだし、水獣の下敷きになっているあたしだってそうだった。
とりあえずあたしは、水獣に話しかける。
「目、痛いの? どうしたの?」
心配で触れようとしたら、噛まれた。激昂したコードがなにか騒いでいるけど、あたしは目の前の水獣に集中し、まわりのことなど無視している。
「苦しいの?」
あたしを噛んだ口は、おびえたように震えている。噛んだといっても甘噛みのようなもので、痛くもなければ血も出ていなかった。
「どうすればいい? また水に戻ればいい?」
問いながら、あたしはまた、水獣を抱きしめた。すこしでも恐怖をやわらげてあげようと、耳元でそっと子守唄をささやいた。
子守唄が子守唄ではないことは知っている。けど、この歌を水獣たちが好きなのも知っている。お母さんに教えてもらったから、もう歌詞はすべてわかっていた。
歌詞の中には、理獣の名前すべてが含まれている。ファジー・アルデア・スジェン・ガンジュ・ディナージャ。どれがどの理獣のものかはわからないけど、あたしは一心に、水獣のためだけに歌った。
地下水で冷えた身体が、太陽の光に温められ、熱くなってくる。目を閉じればまぶたは白く、背を風が吹き、服が乾いて蒸気が上がり、撫でた毛並みはあたしの熱を吸い取っていく。
「ファジー……」