ファジー編 17
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激しい水の流れの中で、あたしは右も左も、上も下もわからず、ぐるぐると回転しながら、も冷静になろうと自分の身体を抱いていた。
たくさんの水を飲み、それでも肺の中に空気を残しているのだけど、流れが速すぎて浮上することもできない。水に落ちてから、かなりの時間がたっている。普通ならもう溺死しているはずなのだけど、あたしはしぶとく生きていた。
息をしなくても、すこしも苦しいと感じない。もしかしてもう死んでしまったのかとも思ったけど、ミルダの緑の香がしつこく鼻に残っていて、これは現実のことだと言い聞かせてきた。
コードがどこにいるかはわからないけど、あたしのまわりにはたくさんの水獣がいる。流されているわけではなく、自らの意思で泳ぎ、この流れを楽しんでいるようだった。
『ターニャ、しっかり』
流れに翻弄されてもみくちゃになるあたしを不憫に思ったのか、一匹の水獣が身体を支えてくれた。
「あ、ありがとう……」
言葉を発すれば、あたしの口から空気が漏れる。肺の空気は残りわずかだけど、やはり苦しさは感じなかった。
「ここ、どこなの?」
『地下水脈の中よ』
口を動かす水獣の牙には、鱗の模様がある。さっきミルダが話しかけていた水獣だと、すぐにわかった。
『水獣と一緒にいるから、あなたは息ができるの。私から離れないでね』
「うん……」
片腕を水獣の首にまわし、あたしはコードの姿を探す。水獣から嫌われているコードは、息ができずにおぼれているのではないだろうか。心配して水の中で目を凝らすけど、さすが地下水脈。視界が狭くて探せそうにない。
そもそもあたしたちはどうやって地下水脈に入ったのか。地下水脈とは、人が通れるところなのか。考えても答えを知りそうにないので、あたしは水獣が一緒にいるからと適当な理由をつけてこの状況を無理やり飲み込むことにした。
『大丈夫よ、ターニャ。コードもきっと誰かがそばにいてくれるから』
しきりに目でコードを探すあたしを見て、水獣が微笑む。その言葉に心配事がとけたあたしは、ようやくその水獣に疑問を持つことができた。
「……なんで、水獣がしゃべってるの?」
理獣のほとんどは、言葉を持たない。水獣は、人の言葉を話せないはずだ。
けれどこの水獣は、あたしと会話を成立させている。きちんと口を動かし、穏やかな女性の声で、人の言葉を巧みに操っていた。
水獣は、やっと気づいたのね、という目であたしを見る。普段は恐ろしいと思う狼の風貌も、微笑めば愛嬌があった。
『私の名前は、ミュラミネ・アネット』
「え……?」
あたしは言葉を失い、呆然と水獣を見た。
アネットと名乗った水獣は、鱗模様の牙をのぞかせ、笑う。あたしが理解できるように、ゆっくりと、その牙で噛み砕くように教えてくれた。
『魔術師ミルダが、水獣をとおして、あなたと話せるようにしてくれたの』
「お母……さん?」
しきりに瞬きを繰り返すあたしを真似て、水獣も瞬きをする。そして大きく首を下ろしたかと思うと、パッと顔を上げて笑いかけた。
『大きくなったわね、ターニャ』
「お母さん!」
あたしは思わず、水獣――お母さんに抱きついていた。
これはお母さんの声だと、確信した。いつも子守唄を歌い、やさしく話しかけてくれた、お母さんの声を、あたしは忘れてなどいなかった。
記憶の底で眠っていただけで、ちゃんと覚えていた。
『ごめんね、一緒にいられなくて。ターニャもコードも、今が一番大変なときなのに……』
きっとお母さんは、コードが無理に蘇らせようとしていたことを知っている。そしてその理由があたしであることも、ちゃんと知っているのだろう。
だからあたしは、お母さんに、今自分が思うことを話す。予期することのない出来事が続けて起きるものだから、頭が混乱してどうしたらいいかわからない。
「あたし、コードにも、お母さんにも心配かけちゃった……」