ファジー編 14
「この歌には、俺もさんざん世話になったんだ」
ミルダはあたしの歌を聞き、当たり前のように一緒に歌いだした。
あたしの知らない歌詞を、ミルダが歌っている。なんといっているかはわからない。ただ、声が二つになったことで、森の空気が変わったことは明らかだった。
森の中で、理獣たちが騒いでいる。
脅えているわけでも怒っているわけでもなく、この歌に反応して騒いでいるのだ。鳴き声が聞こえるわけではない。けれど、この歌に興味を示しているという気配が、意識せずとも伝わってくる。
あたしがようやく歌詞のわかるところにはいると、ミルダはこちらを見てにこりと笑った。真一文字の唇も、冷酷だったり泣きそうだったりした瞳も捨てて、屈託のない笑顔をあたしに見せ、声をそろえてそれを歌った。
「「ファジー」」
ミルダの香と森の緑が溶け合い、風が吹く。
ひときわ大きく森が鳴ったと思うと、コードが一人、驚き目を見開いた。
「やめるなターニャ。歌い続けろ」
不意に歌うのをやめたミルダが、あたしにも森を見るように促す。口を閉ざすのはゆるしてくれず、やめかけた詠唱を再開させるの時、あたしは音を外してしまった。
「見ろ、水獣が集まってきた」
十、二十を軽く超えた水獣たちは、みんな二つの眼をあたしたちに向けている。とくに、あたしを見ている。視線が、あの気配よりも痛かった。
いつも目にしていた水獣だというのに、あたしは今、恐怖を感じている。歌う声はどんどん小さくなり、何かにすがろうと伸ばした手を、ミルダが優しく握ってくれた。
「大丈夫だターニャ。みんな、お前を襲おうなんて思っちゃいない」
水獣は、ほとんどが異常化してしまっている。とろけそうなほどに艶やかだった毛並みは、今にも崩れ落ちそうな砂になってしまっている。すでに崩れてむき出しになった骨は、獣というより魚の骨に近く、口からこぼれるよだれにはうろこが混じっていた。
「……苦しそう」
勝手に歌うのをやめたけど、ミルダは怒らなかった。
「苦しいだろうな。ずっと、魔力を回復できないままこの森にいたんだから」
「なぜ森から出なかったんだ……?」
コードの問いは、きっと水獣に向けられたものなのだろう。けれど水獣は言葉を持たない。答えを知るのは、ミルダだけだ。
「ターニャの子守唄。これ本当は、マテリオが作った言霊の練習歌なんだ」
ミルダが、あたしを見てまた笑う。だましてごめん、と、あやまったようだった。
「それぞれの術に理獣が共鳴するように、言霊にも理獣は反応を示す。ファジーっていうのは水術の言霊で、水獣はその言葉に引き寄せられるんだ」
コードが息を呑んだのを、あたしもミルダも見逃さなかった。そしてあたしも、胸を締め付けられるような痛みを感じた。
「コードが術を使うから、水獣たちはこの森から逃げようとする。普通ならそのまま逃げることができるんだけど、今回はそれをすることができなかった」
「あたしの……歌のせい?」
「そうだ。原因はコードだけじゃない」
水獣は森から出ようとする、それを、あたしの歌が引き止めてしまう。だから水獣は、身体をぼろぼろにしてまで、この森にとどまっていた。
「これが普通の人なら良かったんだけどな。二人とも持っている魔力が強いから……」
言葉を濁しながら、ミルダはあたしとコードを交互に見る。あたしもコードもどうしていいかわからず、解決法を知るミルダに頼るしかない。コードもさすがに、何もいえないようだった。
「コードももう十五だろ? 母親にばっかしがみつくなよ」
「僕は別に母さんに会いたかったわけじゃない」
「じゃあなんで死者戻しなんてしようとしたんだ?」
心なしか、血色の悪いコードの顔が赤くなった気がする。彼が答えるのに、わずかながら時間がかかった。
「死者戻しをしたいわけじゃない。ただ、ターニャに、母さんの声を聞かせたかったんだ」
「……え?」
もう、心なしではすまない。耳まで真っ赤になったコードは、顔を見られまいとそっぽを向いてしまった。
「男しかいない家で、家事とかも一人でやって……僕は困ったとき父さんに相談できるけど、ターニャはそうもいかないものがあるだろう? だからせめて、母さんと会話でもできたらいいと思ったんだ」