ファジー編 13
あたしの手を振りほどいて、コードは立ち上がる。研究書を目で探し、ミルダが持っていると知ると、眉間にしわを寄せて睨んだ。
「返せ」
「別にお前のだけじゃないだろ」
そう言いながらも、ミルダは素直に研究書を返す。コードはそれに面食らったけど、特に何も言わず、森の奥に行こうとあたしたちに背を向けた。
「お前じゃ死者戻しは無理だ」
先ほどまでコードが眠っていたところに胡坐をかき、ミルダは振り向いた彼を見上げる。その口元は笑みでも怒りでもなく、ただ一文字に結ばれていた。
「邪魔するな」
ミルダを睨むコードの瞳は、疲れているのが見て取れるほど濁っている。お母さんからもらった同じ瞳のはずなのに、あたしとは似ても似つかなかった。
「邪魔したくないのはやまやまなんだけど、お前の姉さんと理獣を元に戻すって約束したからな。まずは元凶を正さないといけない」
コードが、ミルダから目をそらす。そのままうつむき、黙り込んでしまった。
「水獣たちが異常化してる原因はもうわかってるんだろ? コードが死者戻しの術を試すから、理獣たちが影響を受けるんだ」
「死者戻しは不可能だと笑うのか?」
コードの精一杯のすごみを鼻で笑い、ミルダは瞳を冷めたものに変えた。
「死者戻しの術は、できる。俺は実際にその術を見たことがあるからな。でも、やらないほうがいい」
立ち上がり、コードを正面から見下ろすミルダ。その威圧感に負けそうなコードは、眉間のしわをさらに深め、自らを奮い立たせるようにこぶしを握った。
「どんな代償が来ても、僕はかまわない!」
「代償の話をしてるんじゃないさ」
今もなお森の中で息を潜めている水獣たちを警戒し、ミルダは木々の間に視線をめぐらせる。今泉の周りにいるのはあたしたち三人。それをぐるりと水獣たちが囲んでいるのが、肌が痛いほどの気配で感じることができる。
「戻される死者の気持ちを考えろといっているんだ」
再びコードを見たミルダは、どこか泣きそうな顔をしていた。
「無理やり死後の国から戻されたら、もう環境は変わってしまっている。知っているものはみな歳をとっていて、かつて愛した人は死んでいた。そんなの、地獄なだけだ」
「そんなことない! それに僕は……別に……」
「死者を完全に蘇らすつもりがなくても、まずは術を使うときにまわりに与える影響を考えるべきだ」
ミルダの言うことはすべてまっとうなことで、コードは反論することができないでいる。唇を噛み、大事にしているはずの研究書を握り締めてしわをつけてしまった。
「たしかにコードは魔術師だし、魔力もそこらのやつより強いものを持っている。けど、お前はまだ若い。経験が少ないんだ。だから、こういう高度な術を使いこなすことができない。自分でもわかってるんだろ?」
「……そうだ」
半ばヤケのように、コードは返した。
「わかってる。だから、少しでも理獣たちの負担を減らそうとこうして水辺で術を使ってるんだ。理獣は自分の属するものの近くにいればおのずと魔力を回復するんだろう? もしくは、危険を察知して自ら土地を離れる。僕がここにいれば、水獣たちはどちらかを選択する。違うか?」
「当たりだ。母さんの研究書に書いてあったんだろう?」
ただな、と、ミルダは続ける。そしてあたしを手招きし、耳もとでひとつの指示を囁いた。
「え……なんで?」
「いいから、早く」
戸惑うあたしをせかし、ミルダは話を再開させた。
「コードはひとつ、誤算をしていた」
「誤算?」
いぶかしむコードが、あたしを見てさらに難しい顔をした。あたしは見られるのが嫌で、二人に背を向けて声を大きくした。
ミルダは、あたしに歌えと言った。
昨日歌うなと言ったあの子守唄を、今ここでもう一度歌うように言ったのだ。
コードはともかく、あたしですらなぜ歌うのかわからない。その中で一人満足気なのがミルダで、あたしの歌声に耳を傾けながら泉の水面を足で蹴った。
「俺は昨日、ターニャに嘘をついたんだ。この歌は治療の歌で、歌う本人の身体に障るから、もう歌うなと言った」
その歌を、今あたしは声高らかに歌っている。歌詞がわからないところは適当な音をつけて。わかるところはさらに声を増して。身体に障ると言われたわりには、疲れる気がしない。むしろ歌が喉をぬけるのが気持ちよくて、歌えば歌うほど元気になれる気がした。