ファジー編 12
「……なんですって?」
ミルダから離れようとしたあたしの手を、彼は強くつかんで離さない。ふりほどこうと暴れると、低い声でささやかれた。
「俺たちは今、水獣の群れの中にいるんだ。騒がないでくれ」
「…………」
今あたしが騒げば、ただでさえ気がたっている水獣を刺激することになる。いくらここに天才魔術師がいるとはいえ、群れの中で襲われたらただではすまないだろう。
「そんな怖い顔するなよ」
「何でコードなのよ」
「それは……」
大事なところで、ミルダは言葉を濁す。あたしが睨みつけるとさらに言葉をつまらせて、居心地悪そうに肩をすくめた。
「その原因も、コードだけじゃないし……」
「じゃあはっきり言ってよ!」
「デカい声出すなって!」
さすがにミルダも怒ったらしい。口論になりそうなのをぐっとこらえ、緑の香を立ちのぼらせながら嫌がるあたしを無理やり引っ張った。
「泉はもうすぐだ。そこで全部話す」
「今言って! そこにコードなんているわけない!」
「コードはきっと、お母さんを蘇らせようとしてるんだ」
「えっ……」
立ち止まりそうになるあたしを、ミルダはなお、引く。彼は感情が高ぶると緑の香が増すらしく、その名残が強く薫った。
泉までは、もう一息。ミルダの背丈ほどの小さな木々の中を抜けると、ふいに視界が開けた。
「ついたぞ、ターニャ。信じられないなら、自分の目で確かめろ」
ようやく開放された手は鈍く痛んで、あたしは痛みを和らげようともう片方の手でさする。ミルダの前を歩き、泉の周辺に目を凝らし、コードの姿がないことを祈った。
泉は、そう大きくない。地下水脈が漏れてあふれたような、沼ともいえる。泉とそれを囲む木々はたまご型になっていて、水際の草花はまだ眠ったままだった。
「ほら、いた」
「コード!」
泉をはさんでちょうど反対側。そこに、コードが倒れている。ミルダが指をさすよりも早く、あたしはコードに向かって走り出していた。
「コード、コード!」
本当は泉を突っ切って行きたいのだけど、泉は面積のわりに深さがある。足が水につくかつかないかのギリギリのラインを走り、あたしは何度もコードの名を呼んだ。
「コード、しっかりして!」
やせた身体の周りに散らばっているのは、お母さんが残してくれた魔術の研究書。あちこち破れたりすりきれたりとかなり使い古されているのと同様、コードの腕も魔術の痣ばかりが目立っている。顔は髪に隠れて見えないけど、意識があるわけがない。憔悴しきったその身体は、あたしが抱き起こしても覚醒する気配がなかった。
「どうしよう、ミルダ。コードが!」
「寝てるだけだって。疲れてんだろ」
平然とした様子で、ミルダは研究書を拾い集める。眠り続けるコードも困惑するあたしも眼中にないようで、しまいにはあたしたちに背を向けて研究書を読み始める始末だった。
「ちょっと、ミルダ!」
あたしが怒りの声を出すと、彼はこちらをむいて肩をすくめる。そして重いため息をつき、ゆっくりと口を開いた。
「起きろ、コード」
それが魔術なのだと、あたしはすぐに気づいた。
「ターニャが心配してる。起きろ」
あたしが何度大きな声を出しても駄目だったというのに、コードのまぶたは、ミルダの聞き取るのも難しい囁き声で簡単に動いてしまったのだ。
「ん……」
「コード!」
ゆっくりと目を覚ましていったコードは、寝起き特有のとろりとした目であたしを見た。目をこする様子は幼いときの彼を連想させて、しかもどことなくあたしに似ている。思わず微笑んでしまったのは、安堵のためだけではなかった。
「ターニャ……?」
なぜここにいるんだろう。表情が、そういっている。素のコードを見られる少ないチャンスの一つは、今。起きたばかりで、頭が働くまでの間だ。
「起きたか?」
けれどそれも、ミルダの顔を見た瞬間に、いつもの仏頂面に戻ってしまった。
「帰れ」
「せっかく来たんだからもてなしぐらいしてくれよ」