プロローグ
「――やった!」
と思ったら、転んだ。
人通りの少ない林道は砂利の間からたくましく雑草が生えていて、あたしがそれに足を引っかけたと気づいた時には、受身もなしに顔から倒れていた。
「痛った……」
顔についた砂を払いながら、身体をうつ伏せから仰向けへと転がす。服が汚れるとか髪が乱れるとか、長旅をしていたらそんなことどうでもよかった。
顔についた砂を払い、その手をなげだして大の字になった。あたしたちを囲む木々の梢が、一番近くにある雲みたいだった。
このまま寝てしまおうか。そんなことを思ったけど、近づいてきた足音はそれをゆるしてくれることはないだろう。
「――ターニャ!!」
……でた。
血のにじむ手首をなめながら、あたしはゆっくりと身体を起こした。
心配してるのなら、もっと声に焦りがまっじっているはずだ。でもこの声は、どう考えたって怒っている。
はだけたキュロットのすそを正しながら、あたしは逆光で見えづらい声の主を見上げた。
あたしが座り込んでもいなくても、はるか頭上から見上げてくる細身の長身。今は太陽を背負っているから透きとおって見えるけど、本当は少しくすんだ金糸の髪。木々の向こうに見える空と同じ、オリエンタルブルーの瞳。
あたしの師匠、ジョナ・M・ミルダは、二十歳をすぎたばかりの天才魔術師だ。
若いしけっこうカッコいいから自慢の師匠なんだけど、今の彼の顔は血管を浮き立たせた般若になってしまっている。
「何でお前はそう水獣に焔術使うんだ! 火は水に勝てないってことぐらいそこらのガキでも知ってんだよ!」
ミルダの動きに合わせて、森の緑が強く薫る。多種のミントを素手で握りつぶしたような緑の香は、ここが森の中でなくてもいつもあたしのそばにあった。
香水でもなんでもない天然の緑の香をいつも連れているミルダは、『常緑のジョナ』といえば誰もがわかるほどの有名人だ。
「だって、火に触れた水は蒸発して消えるでしょう?」
「蒸発しても元の水に戻るんだよ。ったく、それぐらいわかれよ。お前もう十六歳だろ?」
「もうすぐ十七だもん!」
「よけいタチ悪いわ」
自信満々なあたしのピースは、一瞥もされずに吐き捨てられた。
「お前はホントに、モディファニストになれるのかね……」
こめかみをおさえながら、ミルダは大げさにうなだれてみせた。
モディファニスト。それが、魔術師ミルダの本業。
モディファイとは、『緩和する・修正[変更]する・修飾[限定]する』という意味がある。
何かのはずみで異常と化してしまった魔獣たちを正常に戻す魔術師のことを、世間はモディファニストと呼んだ。
本来その呼び名は正しくないのだけど、誤ったもののほうが浸透しているのでそれを甘んじるしかない。
そしてあたしは、見習いモディファニストだった。
しかも最初は、とんでもない労力を使うわりに褒賞のほとんどない理不尽なモディファニストになる気など、まったくもってなかった。
「『十七までに立派なモディファニストにする』って言ってあたしを村から引きずり出したのはミルダでしょ?」
「二年前はターニャに才能があると思ってたんだよ」
「なによ、今はないみたいな言いかたして」
「いまだに大地の理覚えてないやつに才能もクソもあるか!」
グサッときた。
ミルダとこれぐらいの口喧嘩をするのは日常茶飯事で、それが長旅の秘訣にもなっている。口喧嘩なしにストレスをため続けたら、一月もしないうちに旅をやめていたことだろう。
けど。
「何もそこまで言わなくてもいいじゃない。あたしケガ人なのよ!」
ヒリヒリ傷む傷口を見せると、思いっきり鼻で笑われた。
「それはヘマした自分が悪い」
この傷は、片目が砂のように乾き崩れた水獣を治すときにやったものだ。
「水獣にやられたんならともかく、ターニャが勝手にコケたんだろうが」
そりゃあコケたさ。ハデに。
「でもちゃんと治せたんだから結果オーライでしょ?」
「あれじゃあ水獣に負担がかかる。やっぱり樹術を使うべきだった」
ミルダは簡単にいってみせるけど、暴れもだえる水獣に手早く術を施すのは至難の技だ。
「水獣は気性が荒いってことはとっくの昔に知ってただろう」
「―――」
いい返せない。
なぜなら、あたしとミルダの出会いは水獣がおおいに関係していたからだ。
やり場のない憤りが顔に表れて、あたしはものすごく不細工な顔をする。
「その顔やめろ、シワになる」
「あたしはまだお肌ぷりぷりだから大丈夫だもん」
唇を尖らせれば、それをつままれる。眉間のしわを乱暴にこすられ、ブス面から仏頂面へと戻ると納得したのか小さくうなずいた。
「いいかげん立て。日が沈むまでに着かないとまた野宿になるぞ」
「…………」
「夜は気温が下がるのは知ってるだろ」
「…………」
それでもねばって動かないでいると、嘆息したミルダがしゃがんで目線を合わせてくる。
「そんなに、俺の腕の中で寝たいのか?」
「―――!」
まるで焔術を使ったときみたいに、あたしの顔が熱くなった。
急いで立ち上がってミルダを睨めば、彼は頬杖をついてこちらを見上げてくる。
手に押し上げられた口元よりも、なんの圧力もかかっていない唇のほうが上にあがっていて、あたしはその綺麗顔を蹴飛ばしてやろうかと思った。
「……さ、行くぞ」
その意図を察したのか、ミルダが立ち上がる。小さな子供にするみたいにあたしの頭をくしゃくしゃ撫でて、先に歩き出した。
その後を、あたしも歩く。ミルダから流れてくる緑の香が、風に乗って髪を撫でた。
香りは緑、でも色は透明。そんな風をきって、あたしは師匠の隣につく。
風来坊のモディファニストに、家はない。
次の村に着くまでの道のりは、なんだか二年前まで住んでいたあたしの村に似ていた。