Ep.01 【かくして物語は始まった】
鬱蒼と生い茂る深い森の中に、俺はいた。
何故、どうしてここにいるのか。
直前の記憶が一切無く、「気がついたらここにいた」としか言いようのない状況だった。
自分は誰か? それは思い出せる。昨日の夕飯……は忘れた。だが、いつどこで生まれた何者なのかは説明ができる、という事は世間一般で言う「記憶喪失」とは異なったものだろう。俺の中のエピソード記憶は、完全に欠如してはいないようだから。
しかし、あまりにも突飛で不可解な状況に、ただでさえ低い俺の思考能力は完全に溢れかえっていて、今にもフリーズしかけていた。森の中に? 何故? どうやって。同じような質問が頭の中をぐるぐると回り続け、みるみるうちに処理落ちを起こしていく。手足の先がずしりと鉛のように重たくなる感じがして、どれだけ頭をフル回転させても目前の出来事を理解、いや、認識しようとすらしてくれなかった。
(落ち着いて、状況を、整理しよう。深呼吸をして。さあ!)
叩きつけるように、脳に指令を送らせる。吸って、吐いて。
……胸の奥まで深くとはいかなかったが、先ほどより幾分かはよくなった、と思いたい。思い切り手に力を込めてから、ゆっくりと開く。どうにか手足の感覚を取り戻した所で、とりあえず一つずつ整理して行くことにした。落ち着いてひとつずつ、最初から。
――俺は、このジャングルのような森の中に、寝かせられていた。
直前の記憶といえば、いつものように布団に潜り、眠りについた事だ。なのに目が覚めた時には、簡素で動きやすそうな服と軽い荷物を見にまとい、それに手には雑貨店やコンビニで売っている無地のノートを持っていた。俺が寝ている間に運んで着替えさせた……と言うには若干無理があるような気がするのだが、そうとなるとやはり俺の記憶の方が抜け落ちていると言う事になるのだろうか。
取り敢えず、服も鞄も見る限り覚えがない物だが、このノートだけはよく知っているものだった。
これは俺の私物だ。俺にとって、何よりも大切な、もの。
「――待てよ、」
ノートだって?
いや、まさかな。まさかそんなことがあるわけ……。
しかし、手に良く馴染むその無地のノートは、確かに俺のものだ……それならば。
<俺は、この状況に、心当たりがある>?
胸に手を当てて、深呼吸をして。(……やっぱり浅い。)
その瞬間から、頭の中で散らばっていたいくつものワードが次々に手を取り合い、一つの形を成していく。それによって導かれるのは、間違いない、誰よりも<自分自身が知っているはず>の答えだ。どうしてすぐに気付かなかったのだろうか、答えはすぐそこにあったはずなのに。
その事実に気付いたとたん、胸の奥から様々な感情が押し寄せてきた。まるで洪水のように、決壊したダムのように。息が詰まるほど、眩暈がするほどに衝撃的なその事実は、あまりに信じられない話だが、しかしそれは。
高鳴る動悸もそこそこに俺は慌ててそのノートを目の前に構えた。ごく変哲もない無地のノートだ。手が震えて思わず取り落としそうになりながらも、どうにかその一ページ目を開いてみせる。そこにあるのは、あまりうまいとは言えない手書きの文字で綴られたある世界の物語だ。今日び珍しくもない<よくある話>が描かれたノートを、まじまじと覗き込む。
「そんな馬鹿な事が……!」
心底そう思った。バカげている、と。
そう呟いた言葉は、半ば八つ当たりにも等しかった。何故ならこんなこと、常識的に考えれば有り得るはずがないのだから。「ありえない」など有り得ない、と言ったっていくらなんでもさすがにそれは人が二次元に突入しておヨメさんをもらうくらいありえない話だ。これは単なる例え話ではない。いま実際それと同等レベルの現象が起こっているようだからバカげている。本当に。
もしかしたら最近流行りのバーチャルリアルMMOモノならそれも有りうるのかもしれない。ああ、しかしここはおそらくオンラインゲームの世界ではない。おそらくというより十中八九。むしろ俺の知る限りではどちらかというと、ライトノベルの世界に等しいだろう。
そう、俺は今、二次元にいる。
それもただの二次元ではない。なにせ、この世界は、この俺が――
――グルルルルル……
「…………、」
まずいことになった。わかっていたけれど、やっぱりまずいことになった。
予想の範囲内とは言え、背後から聞こえる猛獣の唸り声に思わず俺は足が竦む。決して俺の腹の音などではないそれは、少しずつ俺の方へと歩み寄っているようだった。殺気など向けられることもほとんどない平和ボケしたお国育ちの子供一人が、サバイバル大自然で生まれ育ったケモノ相手にできることなど限られている。そしてそれは、大体の場合でほとんどない。
つまり死ねと? 俺に? まさか。
開幕してまだ三千五百文字くらいの主人公俺様が今この場で死ぬと。いや……でもよく考えたらもう少し前で一度死んでいたかもしれない。時系列的にはまだ遠い遠い未来の話だが、ああそれも我ながらどうかしている話だな。今この場所に立ったからこそこう言える、お前はどうかしているぞ!
必死に現実逃避を繰り返しながらすり足で唸り声のする方向から遠ざかろうとする、と進行方向からさらに獣の足音と息遣いが聞こえてくる。それもそうだった、万事休すだ。俺はもう、この猛獣たちにすっかり包囲されているんだった。子供の足一つで逃げられるはずもないくらいわかりきっている、絶体絶命のピンチだった。
もう一度言おう、お前はどうかしている! もちろん、これも八つ当たり。だがしかし、当事者となった今はとにかくこう思わずにはいられない。今この場に立ったからにはこれから何度でも文句を言ってやろう。ずっとだ。そう心に決めた瞬間。
「まずい、よな……」
当てもなくこぼした言葉に返ってくるのは、涎を垂らした薄汚い獣の唸り声。
なにせこの次の展開ももう決まっていて、それを俺は知っているのだから、たちがわるい……。
台本通りにやりさえすれば命は助かるだなんて言ったって、痛い目に遭うのが確定しているのを思うと身が震え足がすくむ。先ほどの感覚が遠ざかっていくものとは違う、まるで力の入らなくなってしまった手のひらに残った力をありったけ込めて圧力を加えた。そうでもしなければ、恐怖で何かが壊れてしまいそうだったから。
――ああこれはもしかしたら、もう抵抗の意を示すことすらも、無意味なのかもしれないな。
そんな諦めすら覚え始めた矢先。
草葉を蹴る音。
刹那、身体を反転させて振り返る。
目前に広がる薄汚い獣の口内と鋭い牙。
俺は振り返る勢いのまま、右腕を突っ込んでそれに咬ませた。
「――ぐあっ……畜生ォッ!!」
激痛が走る。痛みと言うよりは強烈に熱い衝撃か、電流か何かか、過去に味わったこともなく想像もできないような大きな痛みが右腕全体を覆い尽くしてそれ以外の感覚を奪っていった。視界が一瞬、真っ赤に染まったような気すらした。
――このまま、食いちぎられるんじゃないか……。
避けられないならせめて、急所への攻撃だけは避けようと思ったがゆえの行動だった。そこには理論も意識も何もなく、窮地の直感だけが俺を突き動かしていた。あとの事など一切考えずに。
しかし齢十六の、そうたかが十五年少ししか生きていない子供一人がその痛みに耐えられるはずもなく、俺の視界と意識は溶けたアイスのようにぐらりと揺れ、肺から空気が抜けて、
「ふンっ、ばれよ……主人公ォ、だろッ!!」
ありったけの力を込めて、大地を踏みしめる。
腹の底に力を込めて、目の前の獣を見据えた。背後からもう一体、数秒しないうちに飛びかかってくる。斜め後ろから更に一体、そいつらの後ろからやや若いのがもう一体。
それらの全てを今、俺はまるでスローモーションのように感じていた。いや、ハイスピードカメラにでもなった気分だ。たった数秒の出来事だと言うのに俺の脳はその一つ一つを驚く程明確に分析しており、揺らぐ視界とは裏腹に思考回路だけはとても鮮明で透き通っているのだから、まるで自分の体がただの入れ物のようにすら。
(――そうか、今なら、きっと。)
静かに目を閉じて、周囲の気配に全ての意識を集中させる。
ゆっくりと、鼻から息を吸い込み、乱れた神経を落ち着かせる。
瞬間、ふわりと頬を撫でる風を感じた。
「燃え、ろッ!!」
叫ぶと同時に目を見開き、目の前にある焦げ茶色の毛皮とぴったり目を合わせる。
向かい合う視線の間に、ぼう、と火の玉が現れたかと思ったのはほんの一瞬。次にはその薄汚い毛皮が全身燃え上がっていた。半mもない距離で襲い来る熱気を感じた俺は慌てて腕を振るったが、思いのほかそれはあっさりと地面へ転げ落ち肉の塊と化していった。
焦げる臭いに鼻を防ぎつつ後ろを振り返ると、そこには後ずさりする残りの獣達の姿。どうやら彼らにも分析と学習というものはあるらしく、都合の良いことに俺が左手をかざしただけで尻尾を巻いて逃げていった。動物が炎を恐れるというのは聞いていたが、まさかここまで効果があるとは……いや、単に<魔法>に恐怖しただけかもしれんが、まあそんなものは、今更どちらでもいいことだ。
目前の危機は去った。打ち払うことができた。
そして、今の俺に必要なものは他ならない、
「止血……」
感覚の失せた右腕を抱えて、一歩、二歩、炎から遠ざかる。
しかし、あともう一歩、と踏み出そうとした足にはもう力が入らず、がくりと膝から地面に崩れ落ちた。
……もう、動ける気がしない……火事場の馬鹿力とやらも、どうやらここまでらしい……
残念ながら、これ以上は、この状況を俺自身の手で変えてやるのは不可能、なようだ。
だから、
「レナ……あとは……」
(頼んだ……からな。)
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暖かな木漏れ日降り注ぐ森の中で、眠るように伏す者一人。
魔の炎で焼かれた狼はその生命を分解され、やがて光の粒となり、
それを燃やしていた炎と共に木漏れ日の中へと溶けていった。
陽光の中をきらきらと、神秘の光が舞う。
その光の向こうに、白いローブ姿の女性が一人。
彼女は身の丈程ある巨大な杖をかざすと、それを地面へと突き立てるように振り下ろす。
勢いよく振り下ろされたにも関わらず、杖は地面に着く直前でふわりと止まり、
その場に様々な色と記号で彩られた円環を展開した。
リ――……ン
鐘を打ち鳴らすような音が響き、辺りを光が包み込む。
女性がそっと、微笑んだ。
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俺が次に目を覚ました時、そこに広がっていたのは黄昏色の空だった。
……確か、最初に目を覚ました時にはまだ、日が高かったような気がするから……すると結構な時間、気を失っていたことになるらしい。この世界の日没までの時間がどれくらいかはわからないが、まあおおよそは俺のいた世界と変わらないはずだから。
ゆっくりと状態を起こすと、僅かに右腕に痛みが走る。左手でさすると、傷を負ったはずの場所には包帯が丁寧に巻かれていた。日常生活でそうお目にかかる事も少ない包帯に若干の物珍しさを覚えていると、ふと声がかけられる。
「あっ、目が覚めましたか?」
焚き火替わりであろうランタンを挟んで向こう側に、白いローブを身にまとった女性の姿。
透き通るような美しい声だった。その容姿を見ても、まるで人形のように整った顔立ちをしていた。少女のようでありながらどこか大人びた雰囲気でもあり、流れるような美しい黒髪も俺の伸ばしっぱなしのそれとは違う、丁寧に手入れの行き届いたものだと一目でわかる。ローブの端々にも金色の刺繍が施されているのが、時折揺らぐ灯に輝いていた。
軽く見ても俺とそう歳は離れていないように見えるが、その姿には天と地ほどの差があった。彼女は天使だ。そう、まるで下界に降り立った一輪の天使。額に収めるだけで芸術として成立するのではないかと思うほど現実離れした美少女だ。まるで手入れのひとつもしていない俺とは違う。
など、と、ぼんやり見とれる思考を振り払うために俺は首を左右に振った。どうやら貧血で少しぼうっとしているようだな。まさかこの俺が、目の前の女性に見とれるだなんて。
「あのっ……ほ、本当はお側でお守りしていたかったんですが、こういうときってすぐそばに人がいると、その、とてもびっくりするんじゃないかと、よくテレビなどで……」
「? ……あぁ」
「それに私たち、ほら、面識もないものですから……きっと……」
突然何を言い出すのかと思った。
どうやら、先の戦いで倒れていた俺を彼女が助けてくれたようだが、俺が目覚めた時に見ず知らずの自分がいる事で驚かせてしまわないよう、こうして距離をとって見守っていたのだと言うことを、伝えたかったらしい。
そんなの一々気にする事でも無いだろうに、彼女はぱたぱたと手を振りながら必死に弁解しようとしている。
むしろこのファンタジーでサバイバルな世界では、手当をしたまま道端に放置されていても文句は言えないものなのだから、むしろこうして助けてくれただけでも俺にとってはなにより有難いことなのだが。一々細かいというか、丁寧というか……まあ、そこが彼女の魅力でもあるとは言え。
「ええと……それで……」
「いや、別にそんなこと気にしなくていいですよ」
「えっ? そうなんですか?」
「うん……それより、ここはどこ……ですか?」
一応は年上で初対面……、なので、それとなく当たり障りのない言葉を選びつつ、軽く辺りを見回した。
うむ。森の中であることに変わりはない。彼女の体格などから見ても人一人担いで長距離を移動できるようには思えないから、十中八九は俺の倒れた場所そのままと見ていいだろう。もちろん魔法を使えば例外だが、<彼女に限ってそれはありえない>。
さしずめ今の俺の設定は道に迷った村人か、記憶喪失の旅人かと言ったところか、どちらでも良いが俺が場所を尋ねると、彼女は顎に手を当て「ふむ……」と考え込んだ。これは決して彼女もここがどこなのかわからないというオチがつくわけなのではなく、まずは何から話すべきか、と考えている所だろう。
俺が頭についた葉っぱを取り除いている間に、考えがまとまったのか、彼女は明るい表情を取ってはっきりと言い放った。
「そうですね、とりあえず。
はじめまして、勇者様! 私はレナ・ラフィリアと言います」
「ああ……え? 勇者?」
「いろいろ積もる話もあるでしょうが、今は堪えていただけると幸いです。ご覧のとおり、既に日が沈みかけていますので……夜になると、魔物の動きも活発になりますから。
幸い、この近くに村がありますので。ええと、動けますか?」
色々突っ込みたい所はあったが、それは一先ず置いてやることにした。
鬱蒼と茂る森の中でただ二人、化物に食い殺されてジ・エンドなんてオチはごめんだからだ。
俺が昼にあった奴らは仮に<野獣>か何かだと定義したとして、<魔物>とやらがどういうものなのか全く知らないし想像もつかない――なんてのは全部嘘だが、知っても知らなくてもそいつらが危険であることは容易に想像できる。なぜならそれは、古来より空想の世界において多く使われる敵を指す言葉である。少年でも老人でもよからぬ物を指す言葉であろうくらい察しはつく。
俺は感覚を確かめるため、右腕を動かした。まだ僅かに違和感はあるが、さして問題もなさそうだ。左腕、両足、どこも異常はない。若干の貧血からくる倦怠感は残っているが、文句を垂れるほどでもない。一通り確認したところで、俺はレナにゆっくりと頷いた。
「よかった。では、私の後についてきて下さい。どうかはぐれないように」
「……不安だな」
「なんでしたら、手をおつなぎしましょうか?」
「ごめん、大丈夫」
彼女に悪気はないんだが、子供扱いされた気分になって、少しむっとした。
そうして俺は先導するレナの後を歩き、村とやらに向かう事になった。
この森の中でローブという動きづらい格好にも関わらず、彼女は一歩一歩踏みしめながら道なき道を進んで行き、不思議なことに転ぶどころかよろける姿すら見せることがなかった。
一方の俺は……日頃の運動不足が祟って、何回かよろけ、そして転ぶ。自分より十センチ近く小柄で華奢で特に運動が得意という訳でもないはずの相手に支えられながら進むというのは、随分滑稽なものだ、と自嘲する。それも彼女の事をよく<知っている>のだから、なおさらそう思う。
どうにか、俺にとってとても長く感じる道のりを超えた先、ようやく村の明かりが見えたと言う頃には俺の姿は既に泥で薄汚れており、体にはいくつもの擦り傷を作っていた。
――ああ、神よ……勇者なんてあったものじゃないぞ、このザマじゃ……
まあ神なんて居もしないけどな、と天の向こうにいる男を鼻で笑った。
ふん。今頃悔しがっていてくれてるだろうか。
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村にたどり着いた頃には、空は紺色に染まりつつあった。
ただ、視界に映ったのは破壊された建物の数々と、悲しみに打ちひしがれる住民たちの姿だった。
どうやら俺達のようなよそ者に構う暇もないのだろうか、彼らは俺達に沈んだ瞳を向けるだけで、誰も声をかけてくる様子はない。
まあ、そちらの方が――下手に勇者だ何だともてはやされるより――気が楽でいいが、この状況ではなにぶん肩身の狭い思いにはなる。文句を言われないうちは別にいいが、無言の圧力と言うのも気分が良いものではないな。いつ石を投げられるかもわからないし。
辺りを見回しながら広場に相当する場所まで来ると、レナがこちらを振り返った。
「すみません。この村は、つい数日前に魔王軍の襲撃を受けていて……ですが、森の中で野宿するよりは幾分か安全かと思います」
――なぜ、君が謝るんだ……。
謝らなくてはいけないのは、俺の方……なのに。
「ああ、それと、次に襲撃される予定の場所と時刻は既に<予知>がついていますので、どうかそちらの方はご安心なさってください」
――安心? この状況で何を安心しろって?
魔王に襲われて絶望する人々の中で、どのみち安心なんてありゃしない……。
「どこか、休める場所を手配してきますので、ここでしばらく待っていてください」
そう言うとレナは、近くの住民の元へと歩いて行った。
仕方ないので、俺は反対方向へと歩みを進めた。見ず知らずの他人、それも楽しく会話する気もなさそうな連中と話し合うなんてごめんだし、聞くだけでも嫌気がさしてくる。……レナには悪いが……本当に、関わりたくないんだ。他人となんて。……彼女は……<他人じゃない>からいいんだけど……。
レナは「数日前」と言っていたが、こんな田舎では人手もないのか、村の中は建物に応急処置が施されている以外ほとんど襲撃当時と変わらないような状況だった。とは言っても、実際には襲撃当時を見ていないからこれでもマシになった方だと言う人間もいるかもしれない。しかし、第三者の俺から見ると、それだけひどい状況に思えた。
建物の前で呆然と立ち尽くす人……小さな写真立てに泣きつく人……焼け落ちた家の前で泣く子供。
普段はフィクションかTVの中でしか見ないような光景がさも当たり前のようにそこにあった。
その光景は俺にしてみればとても現実離れしていて、理解の及ぶ範囲ではなかったが、彼らにとってはこれが紛れもない<現実>なのだ。どう足掻こうが否定しようのない絶対的な<事実>。それが、どんな形であっても。
「……自分で撒いた種……か」
思わず口からこぼれた言葉。
幸い、誰の耳にも届かなかったようで何の反応も示されなかった。
――そう、こんな状況、本当に、ばかげている。
それが他でもない、俺の望んだ結果だと言うのだから……本当に――
「勇者様?」
かけられた声に振り向くと、そこにはレナがいた。
どうやら村人の方と、話がついたらしい。あまり明るい顔ではないが、屋根がある場所で寝られるならそれだけでも十分な収穫だ。結果を知っている状態でこう言うのもなんだか笑える話ではあるが。
と言うより……「勇者様」とは、なんというか……。本名で呼ばれるのもお断りだが、これはこれでなんともこそばゆい感じになる。ついでに俺ではない誰かの顔もちらちらと脳裏をよぎる。今日日聞き飽きた通称とはいえ、なんだろう……このもやっとした感じは……、どことないコレジャナイ感がひしひしと。
(本当にそれは、「俺」に宛てられた名称なのか――?)
「あの……勇者様……」
はっと我に返る。何を馬鹿な事を言っているんだ。少なくともこの時点、この世界で、俺以外にそう呼ばれる人物はいないじゃないか。第一それも「俺」が一番よく知っているはずだし、自分で自分を疑うなんて、自己嫌悪も大概にした方がいいな。
とはいえ、実際にそう呼ばれると、やはり耳を疑いたくなるものなのだが……。
レナはどこか言いづらそうに手を組んで視線を泳がせていたが、俺が肩をすくめて軽く促すと、静かに口を開いた。
「宿屋の部屋も全て含め、残っている建物の部屋はみな、家をなくしてしまった人たちなどに貸してしまっているそうで……毛布や寝袋ならこちらで用意があるのですが、その、今貸せるのは酒場くらいだと」
「……別に構わないよ。毛布と屋根があるなら」
「すみません」
「レナが謝る事じゃない。謝るのは……」
……その先を言うのは、やめておいた。
首をかしげて疑問符を浮かべるレナに「なんでもない」とだけ返し、俺は今日の宿となる場所へ案内するようにレナに言った。というか正直もう疲れたので、なんでもいいから早く休みたい。椅子に座るのでも寝転がるのでもいい、とにかく休ませてくれ。
――空は紺色。既に星が瞬き始めている。
日が沈むと言うのは実に早い。傾きかけてからはあっという間に暗くなってしまうのだから恐ろしい。ぼんやりと上空を眺めながら俺はそんなことを思った。
おそらく疲れているのだろう。思考が勝手に現実逃避を始めている。
けれど。
少しだけ、ほんの少しだけ、あの星に祈ってみたい気になった。
あの遠い一番星に、この世界の未来をかけて。
……いや、やっぱり疲れてるな。
早く寝よう。
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テーブルを片付けられ、ただ広い空間となった酒場の床にレジャーシートのようなものと枕替わりの丸めた寝袋を敷き、その上に横になる。固く冷たい板の感触が敷物一枚挟んで向こう側から、ほぼ加減なしにしっかりと伝わってくる。
身に刺す肌寒さに俺は、たまらずレナに渡された毛布をかぶった。
ほんのり落ち着く香りのするやわらかな毛布だった。とても彼女らしい。
それでも、落ち着く気にはとてもなれなかった。
見知らぬ地の空気、知らない人間の気配、暗闇に、固い床。
この世界に俺の知っているものは何もない。自分の家も、部屋も、枕も、家族も。
全て失って、ここにあるのは俺ひとりだ。
建物の外から明かりと人の話し声が漏れてくるが、この場には今、俺一人きり。
村の住民たちは皆、この夜魔物に襲われないための対策に追われていてとても休むどころではないらしい。レナはその魔物避けの結界制作に駆り出されてしまったので、ここでは疲れ果てた俺一人で休むこととなってしまった。
……心細い。
そう思えば思うほど目が冴えてしまって、すっかり休む気分ではなくなってしまった。
放っておけばまたいつものように眠りこんで朝まで起きないままぐっすり熟睡、になるんだろうが、これからを思う様々な不安と思いが頭の中を駆け巡って、どうにもじっとしていられない。もちろんこれは夢なのではないかとすらも思ったが、俺の身体から伝わってくる感覚は紛れもない現実そのもの。目が覚めたらいつも通りの日常だった、なんてオチもおそらく来ないだろう……。
ただでさえ暗闇は苦手だというのに、こんな状況ではもはや、眠りたくても眠れない……!
中々寝付けない俺は仕方なく、ポケットの中から手のひらほどの、小さなノートを取り出した。
最初にここで目覚めた時には気付かなかったが、もう一つあったのだ、<俺のノート>が。レナと出会ってから初めてこの違和感に気づき、手にとって確信した。まあノートなんて他にも山ほどあるのだが、このサイズのノートは他にはない。これも紛れもない俺の私物だった。
俺は寝袋を開きながらそのミニノートをぱらぱらとめくり、目的の文字列を探した。いちいち確認などしなくともそんなもの、適当にやったって容易に使えるはずなのだが、用意したからにはきちんと使ってやりたいという思いがあった。下手にやって間違えたら恥ずかしいし。使う機会ここくらいしかないし。
「"眠れないのかい 迷子の子羊 何を気に病んでいるのだろう
その世界は 君が思っているよりもずっと素晴らしい だから安心してお休みよ"」
窓の外の星空に想いを馳せながら、小さく呟く。
それは自分が放ったとは思えないほど滑らかで、まるで歌うように澄んだ言葉だった。
直後、自身の周囲をきらきらと輝く光が包み込む。
深い青色をした光の粒は俺の周りをくるくると回りながら、この意識を深い暗闇の底へと誘い始める。
俺は寝袋に体を沈ませながら、青色の光を最後にゆっくりと目を閉じた。
夜、人は悲観的な考えばかりが浮かぶと言う。
別に気に病むのは明日からでも遅くはないのだから、今日の所はこれまでにして。
「……お休み、アリス」
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まだ眠い。
だが二度寝が許される状況ではないのもわかっている。
「おはよう、レナ」
「ああ、勇者様。随分お疲れだったようですが、昨日はよく眠れましたか?」
「まあな。……そういうお前は? 眠れたのか?」
「ご心配には及びません。……いえ、そうですね、勇者様のいびきがうるさくてとても」
「テメェ……」
くすくすと笑いながら、皿に乗せられたサンドイッチを差し出すレナ。
思わず、てめーの彼氏の方がいびきうるせーだろうが、と言い返してやりたかったが、変に混乱させても面倒なだけなのでそこはぐっとこらえておいた。しかも自分にいびきをかいている自覚もないのでなんだか腹立たしい気分である。いびきが本当なのかは定かではないが……いや、やっぱり本当、なのか?
俺はてっきり、彼女が昨日働きすぎて眠れていないのではないかと思ったが、この様子だとどうやら心配はいらないらしい。手際の良さは流石のものと言ったところか、随分手馴れているようだ。
差し出されたサンドイッチに対して、俺が「いいのか?」と問うと、彼女はにっこり笑ってみせる。
今のこの村に果たして余所者に提供するだけの物資があるのかと思ったのだが、昨夜の事を思うと、レナの働きに対する彼らなりの報酬である可能性が高い。我ながら何もできない自身の存在がとても情けなくなったが、Lv1勇者とLv50くらいありそうな白魔道士ではそうなるのも仕方あるまい、と彼女の好意に甘えることにした。
「むぐ……ほれで、これからどうふうンだ?」
「口の中の食べ物はちゃんと片付けてから喋りましょう?」
「…………、」
「突然こんな事を言ったら混乱されるかもしれませんが……、
あなたには、魔王を倒すための勇者として、旅に出てもらいます」
「……んぐ……、そうか」
わかりきっている答えだった。
「勇者」と「魔王」と言う単語がこの世に並んだ時点で、させられる事は大概ひとつしかない。それは何度も何度も繰り返されてきた物語であり、そしてここにおいてもそれは例外ではないということだ。一部の世界にはもちろん、多数の例外も存在するが。
さして驚く様子も見せないままひたすらサンドイッチをほおばり続ける俺に、レナの方が少し驚いたような顔をしていたが、すぐに表情を戻すと話の続きを並べ始めた。
「魔王の根城自体はそう遠くない場所にありますが、いま直接そこへ向かっても勝てるはずがありませんので、まずあなたには修行のためにこの国各地を回っていただこうと思います」
「うむ」
「正直……それでも勝てる見込みはあまりないのですが……すみません、見ず知らずの貴方にこんな役割を追わせてしまって」
「お前が気に病むことじゃないさ」
「え?」
「なんでもない。とにかく戦って強くなればいいんだな?」
レナは肯定の意を示す。細かい御託や事情などは必要ない、目的はいたってシンプルだ。
――強くなって魔王を倒せ。
残りの世界観などはあとに置いたって、今はとりあえずそれを確認できればいい。
彼女の方はなんとも腑に落ちないようだったが、俺は気にせず食事を続けた。どうせ元の世界に帰る手段もないのだから、今は言い渡された目的のままに進んでおけばどうにかなるだろう。残りは追々聞いて行けば良い。
皿の上が綺麗さっぱり空になる頃、レナがごそごそと荷物を漁り始めた。俺は口の周りを手の甲で拭いながらそれを見つめる。
取り出されたのは、明らかに彼女の鞄の大きさと釣り合わない旅衣装一式。
……昨夜も、寝袋を取り出す時に同じようなものを見たが、本当に小さな鞄の中からこれが出てくるのは正直異様な光景だ。某有名児童小説にも似たような魔法が出てくる通り、これも<魔法>によるものなのだが、この世界ではそこそこ貴重で珍しい魔法道具。彼女もそこそこ有力な魔導士なのでたまたまそれを持っていたが、一応どこの旅人も皆持っているような一般的なアイテムではない、とだけ注釈しておく。
俺は、テーブルの上に置かれたその衣装をまじまじと見る。
よく目立つ青色に包まれたその衣装は、忘れもしないよく見たデザインの青色だった。
「これを、あなたに渡すようにと」
「誰から?」
「……ある人物、としか。今は」
特に興味がある訳ではないので軽く聞き流しつつ衣装を広げた。軽く流されたレナが今どんな顔をしているのかなど知らないが、広げて見たその衣装はやはり寸分の違いもなくあの<衣装>そのものだ。お世辞にもあまり格好良いとは言えないデザインだが、見ているととても……懐かしさのような何か、を感じる。
しかし、わかってはいたがこれから本当に、俺がその役をやるのかと思うと、胸が熱くなるような……! ……いや、ならないような……なんだか複雑な気分である。なぜならこの青色には希望と絶望の両方が詰まっていて、その比率はこの俺でも計り知れないくらいに大きいからだ。
しかし、それでも、だ。
辛いこともかなり多いだろうが、この旅は俺にとって、何よりも大きなものになるはずだから。
今の俺がどう思おうが、既にそれは確定された未来であって、そして……
果たさなければいけない。
終わらせなければいけないんだ、この「物語」を!
「あー……それじゃ、着替えてくるよ」
「あ、ちょっと待って下さい! その前に……お名前を、お聞きしてもよろしいですか?」
「好きに呼べばいい」
「えっ!? えっと……だって、勇者様と呼び続けるのも、なんだか味気ないですし……本名でなくてもいいので何か、教えていただけないですか? ハンドルネームでも何でも」
「そのうちわかるさ」
そうとだけ告げ、建物の奥へと姿を消す、俺。
後ろではレナがまだ何か言っているような気がしたが、それも無視して。
ふと、
手にとった青いマフラーから、どこかなつかしい匂いがした。
……ここから始まるんだ。
物語の、全ては、ここから――
[Notice]
「魔王」討伐のため、旅に出ることになった「勇者」とレナ。
森の中を進む俺達の前に立ちはだかったのは、いつか見た暗鬱の影だった。
果てしない暗闇の先に見出すのは、希望か、それとも――
さあ、お前が守りたいものはなんだ?
望むなら掴んで見せろよ、アリス。