風の時代の1ページ 〜WWI空戦記録〜
ソッピース キャメル
最高速度:185km/h
武装:7.7mm機関銃×2
第一次大戦中の1916年、イギリスのソッピース・アビエーション社が開発した戦闘機。1917年からイギリス軍主力戦闘機として運用を開始され、機銃周りがコブ状になっていることから駱駝と呼ばれるようになった。
安定性を犠牲にして機動性を追求した機体であり、パイロットが常に舵を調整しなければ直進することさえできなかった。その独特な操縦性から事故も多発し、命を落としたものも多い。しかし特性を知り尽くしたパイロットが操縦桿を握れば、その不安定さも圧倒的な旋回性能を引き出す鍵となり得た。結果、この機体は第一次大戦において全軍中最多の撃墜数を記録している。
眼下に広がるのは黒く焦げた大地。塹壕に折り重なる瓦礫と死体。響き渡る砲声が土煙を巻き起こし、地面にクレーターを穿っていた。
敵兵がいなくなった塹壕に、菱形の箱が頭から突っ込んだ形で置き捨てられていた。戦車……塹壕を突破するための新兵器だが、ここぞという所で機関故障でも起こしたのだろう。戦場での足は馬から機械に替わりつつあるものの、それらの信頼性は未だに低い。私の乗る戦闘機も同じだ。しかも飛行機の場合、エンジン不調は墜死に直結しかねない。
それでもこんな乗り物で、我々は戦場に赴く。私も、周りを飛ぶ僚友達も、二枚の翼の間で風を受けながら操縦桿を握っていた。力強くも気まぐれなこの機体は、常に気を使って操縦しなければフラフラとよろけてしまう。この癖のある操縦性が原因で死んだ仲間もいるが、慣れてしまえば最強の機動性を発揮できるのだ。私はこのキャメルを愛しているし、機首に騎士の兜の絵を描いて、エースの誇りを携えていた。
ふと、隣を飛ぶ僚友が何か叫んでいることに気づいた。彼の指差す先、十時の方向に目をやると、複数のシルエットが確認できた。三葉機……ドイツ軍のフォッカーDr.Iだ。
私は護衛対象である軽爆撃機に向けて敬礼を送った。爆撃機の操縦士も大きく手を振って応える。敵の砲兵部隊を狙う彼らを、敵戦闘機から守るのが我々の役目だ。機銃から伸びたレバーを片方ずつ引き、装填する。
「さあ、ワルツの時間だ」
隊長がジェスチャーで戦闘開始を知らせ、全機が敵編隊へ機首を向けた。緊張と高揚感が高まる。
――あいつは、いるだろうか――
迫り来る多数の敵機を見つめつつ、私はとある男を捜していた。今まで三回、この空で相見えた宿敵だ。
群れをなすフォッカー機の動きを観察し、機銃の射程圏内までのタイミングを予測する。同時に私を狙っている敵がいないか、警戒を現にしていた。
そのとき、一機のフォッカーDr.Iが私の真正面に躍り出た。パイロットが真っ直ぐに私を見据え、もう弾丸の届く距離だ。
「来る!」
正面攻撃である。私は即座にラダーペダルを蹴った。機体が横滑りし、奴の射線から軸をずらす。
刹那、脇を銃弾が通過していった。硝煙が宙を舞い、火薬の匂いが風に混じる。なかなかやってくれる奴だ、こうまで速く正確に射撃を行うとは。
このまま奴とすれ違うべく、キャメルのスロットルを開いて加速。軸線のずれた機体同士が至近距離で交差し、奴の生み出した風圧で機体が煽られた。だが機体の姿勢を保ちつつ、私は敵機を間近で見ることができた。敵のパイロットもまた、同様に。
「お前か!」
私は喜びのあまり叫んだ。相手が首に巻く赤いマフラー、機首に描かれたチェス駒のルーク。間違いなく、私の宿敵である。彼もまた一瞬の交差の内に我が機を見ていた。そう、再会の名乗り合いができたのだ。
「今日こそは……決着をつけようじゃないか!」
即座に操縦桿を倒し、右旋回に入れる。キャメルの偏った重量とロータリーエンジンの回転力……これらを利用した急旋回で奴の後ろを取るのだ。
だが“ルーク”も素人ではない。背後に回り込んだとき、奴のフォッカーはすでに旋回へ入っていた。有利な位置を確保できるよう、今度はあえて遠回りに曲がって後を追う。フォッカーよりキャメルの方がスピードが出るので、引き離されることはない。
よし、やれる。冷静にラダーを踏み込み、機銃の上で交差している二本の支線を敵機に合わせる。こいつが照準の目安だ。
この位置ではぴったり敵機に合わせても当たらない、未来位置を狙ってさらに操縦桿を引く。
撃つ。
機銃二門が火を噴き、火薬に匂いが鼻をついた。
直後、“ルーク”ががくりと機首を下げた。そのままふらふらと回りながら、地上へと墜ちていく。
「当たったか!?」
そう叫んだのは、弾の当たった手応えが無かったからだ。撃つときに少し先を狙いすぎた気がする。
案の定、奴は私の下方で何事もなかったかのように機体を立て直した。ただの死んだふりだ。
「姑息な手を……」
思わず舌打ちする。だが私は悔しさよりも、喜びを感じているのかもしれない。奴との縁が簡単に終わらなかったことに。
奴と最初に遭ったとき、奴の機体はすでに被弾してやっと飛んでいる有様だった。そんな奴を墜とすのは不名誉なので、私は敬礼して見送った。
二回目のとき、今度は私がエンジン不調で不時着を試みていた。奴は射撃位置についていたが、我が機の状況に気づき、やはり敬礼をして見逃してくれた。
三回目はどちらも万全、加えて貸し借りもなかった。弾が尽きるまで、ひたすら闘った。むしろ、踊っていたと言うべきか。そして別れ際に、互いに敬礼をした。
こんな簡単に決着がついてはつまらない。奴もきっとそう思っているだろう。“ルーク”は両軍の戦闘機がもつれ合う領域をはずれ、低空で一人旋回していた。私が死んだふりに気づくか試しているのか、あるいは私を待っているのか。
どちらでも構わない。乗ってやろう!
「今行くぞ!」
機体を横転降下に入れ、翼が風を切る。体に当たる風圧が爽快だ。
すると突然、味方のキャメルが私と対向する姿勢で上昇してくるのが見えた。パイロットが叫んでいる。
衝突寸前で回避。上翼が相手の脚に当たりそうな距離だった。
直後に視界へ入ってきたのは、同じように上昇してくるフォッカー機。こいつに追われていたのか。
「邪魔だ!」
機銃を撃ちながら、紙一重で機体をひねって下へ抜ける。一歩遅ければ空中衝突だった。
振り向くとフォッカーがきりもみ状態で墜ちていくのが確認できた。煙が出ていないし、分解もしていない。パイロットに当たったのだろう。
地上へ吸い込まれていく敵機に敬礼を見つつ、胸の前で十字を切る。私は宿敵の待つ低空へと急いだ。
やはり“ルーク”は私を待っていた。私が降下するや否や、すぐさま機首を転じてくる。奴も決着をつけたくて仕方ないようだ。
“ルーク”が得意の正面攻撃を再び仕掛けてくることは読んでいた。機体の軸をずらして射線をかわし、奴の背後を取るべく旋回。
だがフォッカーDr.Iもまた機動性に優れた機体だ。奴も急旋回して私をかわす。
急上昇。
急降下。
急横転。
互いの背後につくためだけに、技量を極限まで駆使する。相手の動きに目を見張っているため、時々互いの顔が見えた。
奴もまた、私と同じ目をしている。飛行に、空戦に生き甲斐を見出す騎士の眼差し。戦争がなければ、もしかしたら友人となれたかもしれない相手だ。しかし戦があったからこそ相見えたのも事実。なれば戦場で、やるべきことをやろう。
私が奴の後ろを取った。相手は空気抵抗の大きい三葉機、速度で勝ることキャメルからは逃れられない。
スロットルを開いて距離をつめる。間近から確実に仕留めるのだ。
だが照準を合わせる瞬間、“ルーク”の機は左右に蛇行を始めた。
「しまった!」
奴の思惑に気づいたときには遅かった。速度の出ていた私は減速しつつ蛇行に入った“ルーク”を追い越してしまったのだ。
位置が入れ替わる。チャンスを得たのは奴の方。
このまま加速して振り切るか……いや、射程圏外へ逃れる前にやられる。
ならば!
「そら!」
咄嗟に操縦桿を倒し、左へ曲がる。
“ルーク”が追ってくるのを確認。ゴーグルをかけた目が私を睨んでいた。
今度は逆に、右側へ一気に操縦桿を倒す。私のキャメルはつむじ風のようにぐるぐると回り、天地が数回反転する。
その行為によって減速した私の横を、“ルークが”追い越して行った。
「そこだ!」
ふらつきやすい機体を押さえ込み、天地が逆転した背面の状態で私は撃ちまくった。機銃二門が火を噴くが、右側の機銃が突然沈黙してしまう。故障か。
左機銃から放たれた弾は“ルーク”の翼に少なくない弾痕を穿った。二門ともまともに動けばこれで墜とせただろう。しかし火力が半減した攻撃では決定打とならず、急旋回で逃げられてしまう。
だがこの位置から離れてたまるか。バレルロールと呼ばれる螺旋状の軌道を描いて逃げる“ルーク”を、同じ動きで追跡する。
我々は樽の内側をなぞるように、回転しながら追撃戦を続ける。奴の起こす風で気流を乱されながらも、私は必死で食らいつく。
そのとき。私と奴の機体が丁度背中合わせの体勢になったとき、奴は突然急旋回に入った。
「なっ!?」
奴と逆を向いていたせいで、私はその動きに対応できなかった。三葉の魔物が後ろへ回る……
刹那、斜め上から受けた銃弾の雨。上翼を貫通してくる弾に反射的に身を伏せる。
敗北……その単語が頭に浮かぶが、辛うじて体は弾を食らわなかった。奴の射撃は意外なほど短かったのだ。それどころか……
「“ルーク”!」
奴の方を振り向き、私は驚愕した。奴の機体は上翼が左半分、もげていたのだ。続いて右半分も千切れ飛び、複葉機になってしまう。残った翼を軋ませながら、“ルーク”のフォッカーは高度を下げて行く。三葉機は翼にかかる負荷が大きい……ダメージを受けた翼が、今の急激な機動に耐えきれなかったのだろう。
宿敵が地面へと吸い込まれて行く。だが私の方も、奴の最期をゆっくり看取る時間はなかった。エンジンが火を噴きはじめたのだ。
「ちっ、弾をもらっていたか!」
飛行機の心臓とも言える箇所から噴き出した小さな炎は、煙も伴って徐々に大きくなっていく。こういう場合にとれる行動は大抵二つ。機体と添い遂げるか、墜落する前に自決するかだ。
だが高度が低くなっている今、このまま地面に滑り込むという賭けに出ることにした。こんな状態で不時着など経験したことはないが、生きることを諦めるのは癪だ。失敗したとて、あの世で先に逝った戦友たちに胸を張れる。私は最期まで操縦桿を離さなかった、と!
「ウオオオォォォ!」
………地面に這いつくばり、呼吸を整える。今私がいるのは空ではなく、大地。背後では無人の塹壕に突っ込んだ愛機キャメルが、無惨に燃えていた。
ふらつくキャメルを必死で操り、地面に接地したところまでは覚えている。後は多分、滑走中に塹壕へぶつかりそうになったため、落ちる前に安全ベルトを外して機体から飛び降りたのだろう。自分にそんなことができるとは信じがたいが、記憶が無い以上無我夢中でそうしたと考えるしかない。
ゆっくりと息を吐き、地面の土を握り、自分が生きていることを実感した。
「……フフッ、助かってしまったか」
「お互いにな」
はっと顔を上げる。目の前に立っていたのは赤いマフラーを巻いた飛行兵……それもイギリス軍ではなく、ドイツの。
「……お前、生きていたのか?」
「ああ。機体はバラバラだが、無我夢中で着陸操作をしたよ。気づいたら地面にいて、あんたが降りるのが見えた」
厳つい顔に微笑を浮かべる、我が宿敵。こちらも自然と笑みがこみ上げてきた。
「幸運の女神は、どちらを助けるべきか迷ったようだな」
「違いない。それにしてもイギリス軍は面白い着陸の仕方を教えるんだな」
「格好良かったか? どうやったかよく覚えてはいないが、戦争が終わったらサーカスでも始めるとするか」
「そうだな、今のその顔でやるといいだろう」
宿敵の言葉に、私はふと自分の顔をこすった。その手には煤がべったり。
我々は顔を見合わせ、多いに笑った。死のゲームの余韻を、その声で吹き飛ばすかのように。
………
……
…
最初に空を飛んでから、二年近く経った。この戦争は勝利に近づいている。むしろ目前と言うべきだ。長く続く戦いにドイツは疲弊し、国内で反戦運動が多発している。地獄の戦いも、近いうちに幕を降ろすこととなるだろう。
それにも関わらず、空を征く私の心は重かった。塹壕で繰り広げられる泥沼の戦い、おびただしい死者の山……陸の戦場は完全に地獄と化し、騎士道は消えて行った。毒ガスによって悶え苦しんで死んでいった者の数は考えたくもない。ただひたすら人を殺すためだけの、殺戮の時代がやってきたのだ。そしてもしかしたら、我々の居場所たる空からも騎士道は消えていくかもしれない。
これで永遠の平和が訪れるというなら、まだ救いはある。しかしこの戦争で初めて使われた兵器の数々は、まだ産声を上げたばかりの代物。これからますます発達し、政治家たちはその威力を試したがるだろう。
私には止められない。一介の戦闘機乗りたる私にできることは、今日も闘うべくして闘うことだけだ。
「来たか……!」
曇り空の中、迫り来る敵機ども。ドイツ空軍最強の戦闘機・フォッカーD.VIIだ。機動性、高高度性能、火力、あらゆる面で優れた恐るべき機体である。
私が乗っているのはかつてのキャメルではない。ソッピース社が開発した新型機・スナイプだ。最高速度が向上し、キャメルより安定性が増している。おかげで機体の制御に神経をすり減らさず、攻撃に集中できるというわけだ。描かれているエンブレムは相変わらず、騎士の兜の絵だ。
今日もまた、死に至る狂乱のワルツが続く。敵と味方が入り乱れ、銃火が交差し、サーカスさながらの舞踏が繰り広げられた。
「……ん?」
撃墜した敵機を見送った直後、ふと見慣れないシルエットの機体が目に入った。翼が一枚だけの、カミソリのような形状の機体だ。この期に及んで敵の新型か。
次の瞬間、そいつは横転降下。丁度上昇していた、我が僚機の真正面に躍り出る。私の脳内に電流が走った。
「あの動きは……!」
刹那、正面から機銃を受け、火達磨になる僚機のスナイプ。だがカミソリ野郎は撃墜した獲物を尻目に、私の方へ迫っていた。
そして見えた。パイロットが首に巻いた、赤いマフラー。そして、忘れなかった因縁のノーズアート……
「“ルーク”!」
捕虜収容所から脱走したという噂は聞いていた。奴は見事返り咲き、こうしてまた戦場にやってきたというのか。そして今、私と再び闘おうというのか。
奴は私の横についた。私に笑って手を振り、次いで上を指差す。
低高度は対空砲が五月蝿い。高度を取り、二人だけで決着をつけようと誘っているのだ。
「……面白い!」
笑いがこみ上げてたまらない。奴に親指を立て、私は機首を上げた。混沌としたドッグファイトを繰り広げる連中を他所に、“ルーク”と共に上を目指す。
私は今日、この空で死ぬかもしれない。だがそれでも、この時間を何よりも喜んでいた。
宿敵……否、戦友と過ごすこの時間を。
お読みいただき、誠にありがとうございます。
「ブルーマックス」などの映画に影響を受けて書きました。
黎明期の空戦。
時に互いの顔が見え、近距離で多数の機がもつれ合い、体に風を感じながら闘った時代……そんな雰囲気を出せていたでしょうか?
ご感想いただければ幸いです。
余談ですが最後に“ルーク”が乗っていた機体はフォッカーD.VIIIという機体です。
第一次大戦では珍しい単葉機で、速度や機動性などのバランスがとれた、極めて優秀な戦闘機でした。
実践投入が終戦の直前になってしまったため戦局には寄与しませんでしたが、それでも連合軍のパイロットたちはこの機体を「空飛ぶカミソリ」と呼んで恐れたといいます。