布石を打つ・5
私は志が高い若手の官僚を一人でも多く取り立てようと努めていた。韓明文もそうした先が楽しみな若者の一人だ。今でこそ義禁府都事と言う軽い役目だが、そのうち折を見てジワジワと引き上げてやろうと考えている。
父親の応善は世子の護衛にあたる世子翊衛司の右洗馬という軽い身分の武官で、母親は女官だった。応善は名家の庶子で、庶子であるがために文官登用試験を受けられなかったのだ。本来なら武官と女官は思いあう事も、ましてや夫婦になるなど許されない立場であったのだが、私が取り計らってやり、宮中から駆け落ちさせてやった。士大夫ではなくただの良民の夫婦としてだが、戸籍と田畑も都合してやった。その落ち着き先の農村で韓明文は無事に産まれ、育ったのだ。賢い子供であるらしいと知った私は時折書物を送り、隠遁した学者への紹介状などもこっそり送ってやった。普通の士大夫の子供は書堂に通い、千字文やら四書やら学び、将来の科挙受験へと備えるものだ。農民となった夫婦には書堂に息子を通わせる余裕も無いし、無理に通わせても士大夫の子供らにいじめられるのがオチであっただろう。
韓明文の学問の師匠はいわゆるソンビと呼ばれる在野の学者で、農民と変わらぬ極めて質素な暮らしぶりを亡くなるまで貫いた人物だ。まあ、スルギあたりに言わせると「実生活には役に立たない観念をこね回す学問」だけの人間と言うことになろうが、高潔な人柄であったのは確かだ。
「先生と畑を共に耕しながら四書五経を暗唱し、漢詩を吟ずると言う具合でした」
そんな思い出話を語った韓明文の表情を見ると、よほど良い師匠だったのだろうと思われる。おかげで、スルギが状元及第した殿試では第三位の探花で及第した。内侍府所属で祖母や大妃様に可愛がられているスルギに対しては妙な敵愾心を抱いている節があるが、あまり気にはしていなかった。というのも、これまで三司の口の悪い拗ね者達の中にも、スルギはちゃんと支持者を作ってきているからだ。
私は韓明文に密命を与えていた。暗行御史として一度事にあたらせてみたが、なかなかに悪くないと感じた。父親譲りの剣や弓の腕前もなかなかの物で、胆力も有る。その為、沈家の中枢の人物の信頼を得て、内偵にあたるように命じたのだ。
右議政の長男・知宣は現在、礼曹判書と義禁府の長官・判義禁府事を兼任している。私としては義禁府から知宣を外したいわけで、その意向も踏まえて事にあたるように命じた。
それが、なんとまあ……
先ほど、私はスルギと大木の木陰でつかの間の逢瀬を楽しんでいた。薬草畑の手入れに励むスルギには迷惑だろうが、私の寂しい心細い気分を癒せるのは自分だけだと知っているからだろう。人目を避ければ優しく抱きしめ返してもくれるし、接吻にも情熱的に応じてくれる。質素な内侍の官服で化粧っ気抜きでも、スルギはどんな後宮の女より美しい。
「こうすれば、だれにも見えない筈だ。違うか?」
「あ、あの、まだ」
木陰で人目を避け、私が袖の中に抱き込んだのに、スルギは何かに気を取られている感じで、何時もより素っ気無かった。
「ええい、だめだ」
私は焦れてきて、強引に唇を奪った。と、その瞬間、重い音がした。何かが落下したのだ。
見覚えのある青年が呻いていた。
「韓探花!」
スルギの呼びかけに、はっとした。沈知宣を見張れと命じたのに、逆に私やスルギを見張るとはけしからん。
「韓都事!」
「この方、只今はどちらの都事ですか?」
官服ではなく、まるで商人か農民というなりなのだ。市中ならともかく、宮中で見とがめられたら厄介なはずだが、どういうつもりだろうか? 忍びの名人のこの男が樹から落ちたのは、スルギのつぶてを食らったせいらしい。
「義禁府だ。なぜ、そちがここに居る、寡人は謀反の恐れがある危険人物を秘密裏に見張れと申しつけたのだぞ。スルギを監視するなど、見当違いも甚だしい!お前は王命より、爺どもの命令に従うのか?」
私は逢瀬を邪魔されたせいもあって、頭に血が上り気味で、気が付くと襟を掴んで詰問していた。
「上官から何か言い含められたのではないですか?」
事と次第では許せない。私は脚を抑えて呻いている韓明文を睨みつけた。




