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友として・7

『大学』も『中庸』も『礼記』の一部に過ぎなかったのに今となっては余りに重視されすぎで自分としては納得がいかないとか、禅の影響を強く受けて成立した朱子学は本来雑多なものを含んでいたはずの孔子の儒学とは相当性質が違うと思うとか、『春秋』に記された日食の記録とか……確かに科挙向けの読み方とは違うが、スルギの学識は相当の物である事は確かなようだった。


「この世界に生まれ変わるにあたって、そうした記憶力を強めてもらったようなんですよ。だから、一度でも読んだものは忘れないみたいです」

「朱子学成立以前の儒学関係の書籍なんて、この国で手に入るものだろうか?」

内侍府が管理する王家の書庫や国の正史の編纂を行う芸文館辺りなら、かなり変わった物も収蔵されているだろうが、私はそうした本の存在自体認識していない。というか、現物を見た記憶が無い。

「本を商う店に行くと、二束三文の値段で売っています。清から輸入しても科挙の出題範囲と被らない本は全然買い手がつかないみたいですよ。私はそういうのばっかり、買ってますが」

「手元にあるのか?」

「ごく限られたものですが、それでも百冊程度は……」

「貸してもらえるか? どんな本なのか読んでみたい」

「では、私はもう家に戻りますから、お立ち寄り頂けましたならお貸しいたしましょう」


 思いもかけず、あの、市場の店の裏側の小さなスルギの住まいの中に入れてもらえた。 

 住まいは一間きりで、そこには飾り気のない箪笥と本で一杯の書棚と小さな机に布団に長持ちぐらいしか家財道具も見当たらなかった。娘の部屋と言うよりは、在野の清貧に暮らす学者の住まいのようだった。縫物を仕掛けていた様子が見て取れたのが、唯一女性の部屋らしいところだろうか。嬉しい事に私の贈った硯は早速机に置かれていた。


「散らかっておりますが……御自由に書棚の本でも御覧ください」


 縫物を手早く片付け、茶を入れてくれた。部屋の軒下部分で煮炊きをするようだ。茶が入るまで私は書棚の本を手に取って見たが、半分ほどが私の読んだことの無い書物だった。


「なかなかに凄いじゃないか。科挙を受けても楽々通るのではないか?」

「つい先日まで官婢であった女に、科挙なんて関係ありません。こうした書物を女が読むこと自体、怪しからん事なんでしょうし……」


 スルギはフッとさみしげに笑った。確かに、いかに才覚に満ち溢れていようと、女である限り官吏登用への道は完全にふさがれている。だが、何か方法は有るかもしれない。私はちらっと、そんな事を思った。


「この本は?『周礼非周公書』とはどう言う事だろうか?」

「宋の学者で官吏だった人の著作です。論拠がしっかりしていて信用できる内容だと感じます。『周礼』は後世の捏造だという事のようです」

「春秋三伝とは言うが『春秋公羊伝』は読んでないな。私などは一般的な左氏伝もうろ覚えだ」

「その『春秋公羊経傳解詁』というのが公羊伝こそが『春秋』にとって唯一の解釈書だと漢の時代に主張した人の本です。儒教の本を暗記出来る事と、良い政治が出来る事は全然別だと思います。だから、科挙なんて政治にも学問にも、あまり良くないと思うのですよ。科挙の無い倭の方が純粋に学問としての儒学を究めようとする人が多いのも、わかる気がします」

「たしかになあ。文科の知識だけでは良い政治は行えないと思う。武科もだが、雑科があまりにも軽視されているとは、感じるよ」

「どれも国家の運営の上で必要な技能や知識だと思いますのにね。まあ、軽視されている雑科すら受ける資格のない人間がこの国では圧倒的に多いのですが……」


 普通は科挙と言えば文科すなわち文官登用試験を指す。武官を登用する武科は一段低く見られる。武科は受験資格が文科よりは緩やかなので、名門の庶子などは武科を受ける場合も多い。さらに雑科は医学、数学、通訳、天文学といった分野の専門家を登用する試験だが、文科の連中は自分たちとは完全に身分が違うと見ており、正当な評価をしていない。

 

「身分の恨みか……この国では皆が何がしかの身分の恨みを持っているな」

「そんなものが無かった国の記憶を持っていると、この国の実情は辛すぎます。正しい事を、正しいと言えない状態は、私にとってかなりつらいです。何を言っても処罰など受けない国で暮らしていた記憶が、鮮明に有るものですから……」

「そうか。それは……私も似たようなものだ。正しい事を正しいと言うと言えば……」


 私は以前から気になっていた壁書きの作者の話を持ち出した。


「あの絵の画風だが……人物の描き方が、今日貰った返事に良く似ていると思ったのだ。文字の筆跡も……」


 スルギは困ったような顔になった。


「ああ、別に良いのだ。私が勝手にそう思っただけだ。別に答えなくて良い」

「恐れ入ります。いえ、正直に申します。作者は私です」


 えらくあっさりスルギが認めたので、少しばかり驚いた。


「そうか。どうやら……その不逞の輩が壁書きの作者を目の敵にしているようなのでな、心配になったのだ。自分たちにとって不都合なら、どんな汚い手でも使うような連中だから」


 だから、当分の間、壁書きの制作を止めた方が良いと忠告しておく。


「今日案内したあの邸に繋ぎをいつでもつけられるようにするから、気が向いたら何か書いてくれると嬉しい。まとまった物を書くというのも有りだろうし……その……手紙の一つも送ってくれると、私としては非常に嬉しい」


 茶を貰った後、本を二十冊ほど貸してもらって私は部屋を出た。

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