「そのキャリア、誰から奪いましたか?」経歴詐称で勝ち組になった私に届いた、存在消滅の通知
夜の首都高速を滑るように走るタクシーの車内で、米沢一樹はスマートフォンの画面を凝視していた。
窓の外を流れるハイウェイライトのオレンジ色の光が、濡れたガラスを滑り、一樹の頬に規則的な陰影を落としては消えていく。車内の闇の中で、指先の液晶画面だけが青白く発光していた。
ブラウザの履歴の最下層に、いつの間にか紛れ込んでいた漆黒のウェブサイト。漆黒の背景の真ん中に、ぽつんと置かれた細い白抜きの入力フォーム。その上に添えられた文字列だけが、静かな怪異のように浮かんでいた。
『あなたの理想のキャリアを、世界の側に合わせて書き換えます』
「くだらない」
呟いた声は、カーナビが静かに吐き出す電子音にかき消された。
二度目の転職活動に失敗し、同世代の友人たちが次々と役職に就き、華やかで完璧な人生をSNSのタイムラインに誇示していくのを眺めるだけの毎日。彼らの幸福が自分に対する無言の暴力のように感じられ、胸の奥で黒い焦燥がとぐろを巻いていた。
すがるような思いで、一樹は湿った指先を画面に乗せた。
入力欄に叩きつけたのは、現実の自分が逆立ちしても手に入れられなかった、眩しすぎる経歴だった。
『TOEIC 900点。ロンドン大学大学院修士号修了』
送信ボタンをタップした瞬間、スマートフォンの画面が激しく明滅した。
と同時に、視界の輪郭がぐにゃりと歪んだ。タクシーの車内を包む空気が、まるで氷点を下回ったかのように急激に冷え込む。重低音のノイズが鼓膜の奥で一瞬だけ鳴り響き、世界がほんのわずかに横滑りしたような異様な感覚が一樹を襲った。まるで、世界という巨大な織物の縦糸と横糸が、一本だけ強引に引き抜かれたかのような違和感。
「お客さん、着きましたよ」
運転手の無感情な声で我に返った一樹は、逃げるように車を降りた。
翌朝、自宅マンションのベッドで目を覚ました一樹は、部屋の空気が微かに変わっていることに気づいた。
リビングへ向かうと、本棚の光景が一変していた。見覚えのない分厚い洋書や、ロンドンの古い街並みを背景に微笑む自分の写真が、まるで何年も前からそこにあったかのように当然の顔をして飾られている。写真の中の自分は、今の自分よりもずっと誇り高く、自信に満ちた目つきをしていた。
卓上のスマートフォンが震えた。大学時代の友人からのメッセージだった。
『おい一樹、そういえばお前、ロンドン留学のあと現地でスタートアップ立ち上げてたよな。今度うちの会社にノウハウ貸してくれよ』
脳の奥底で、記憶の紐が音を立てずに組み替わっていく。
一樹が焦って記憶の引き出しを開けると、そこには確かに、ロンドンの雨に濡れたレンガ造りの街並み、冷たい霧の匂い、古いパブの重厚なカウンターで交わした流暢な英語の会話が、色鮮やかな映像として鮮明に存在していた。
嘘ではない。最初から、それが自分の歩んできた正当な人生だったのだ。
勢いづいた一樹は、業界でも難関とされる大手IT企業「ネクスト・ソリューションズ」の役員面接へと向かった。
重厚な会議室。面接官の鋭い問いかけに対し、一樹が口を開いた瞬間、自分でも驚くほど滑らかな英単語と、鋭利な市場分析のロジックが口から溢れ出た。身体の奥底から湧き出る全能感。自分は天才なのだという錯覚。
「素晴らしい。君のような本物の人材を、我々は待っていたんだ」
その日のうちに内定が言い渡され、一樹は異例の速さで新規大型プロジェクトのリーダーに抜擢された。
加速していく日常は、目眩がするほど刺激的だった。手に入れたばかりの高層マンションのバルコニーから夜景を見下ろし、一樹はグラスのウイスキーを傾けた。SNSには新たな肩書や、同僚たちからの賞賛が溢れ返る。数千の「いいね」の数字が、一樹の新しい存在をこの世界に強く固着させているようだった。
しかし、歪みは静かに、確実に深くなっていた。
異変に気づいたのは、その月の半ばのことだ。
オフィス街の地下鉄のホームで、一樹が電車を待っていたときだった。向かい側のホームに立つ男の姿が目に入った。
すり切れたコートを着たその男は、異様なほど生気のない、死んだ魚のような目でじっと一樹を見つめていた。見覚えのない顔のはずなのに、なぜか胃の辺りが冷たく締め付けられる。
男の唇が、ゆっくりと動いた。音は届かない。だが、その唇の動きは明確にこう告げていた。
「返せ」
それからというもの、街のあらゆる影の中に、その男が現れるようになった。
会社のビルのエントランスで、深夜のコンビニのガラス越しに、雨の日の交差点の傘の隙間から。男はただじっと、一樹の存在を削り取るような視線を送り続けていた。
ある雨の夜、一樹がマンションの地下駐車場に車を止めて降りた瞬間、背後の暗がりから足音が迫った。振り返る隙もなく、すり切れたコートの男が一樹の胸ぐらを掴み、コンクリートの壁に押し付けた。
男の眼球は血走り、痩せこけた頬が恐怖で引きつっていた。男の息からは、湿ったカビのような匂いがした。
「返せ……! 返してくれ! ロンドン大学の修士論文も、あのパブで交わした約束も、全部俺の人生だったんだ! お前が画面を叩いた瞬間に、俺の頭から全部消えたんだよ!」
「な、何を言っている……放せ!」
一樹は必死で男を突き飛ばした。男は力なく床に倒れ込み、爪が剥がれるほどコンクリートを掻きむしりながら、絶望的な声を張り上げた。
「お前は生み出しているんじゃない! 他人の人生を奪って、自分の穴に詰めているだけだ! 次は……次はお前が削られる番だ!」
一樹は一目散にエレベーターへ逃げ込んだ。心臓が早鐘のように脈打ち、冷や汗が全身から噴き出す。
自分の得た栄光は、無から生まれたものではなかった。サイトのシステムは、他人の現実と記憶を容赦なく削り取り、それを一樹の履歴書として上書きしていたのだ。
恐怖に耐えかねた一樹は、自室に駆け込むと例のウェブサイトを開いた。サイトのデータベースには、自分がこれまでに書き換えた履歴が黒い文字で刻まれている。一樹は震える指でキーボードを叩き、データをすべて削除しようとした。
だが、画面が赤くフラッシュし、見たこともない無機質な警告文が浮かび上がった。
『エラー:一度書き換えたデータは復元できません。システムの均衡を維持するため、次の上書き処理を実行します』
「おい……ふざけるな! リセットさせろ! やめろ!」
一樹の叫び声を掻き消すように、部屋の照明が一斉に落ち、深い闇がすべてを呑み込んだ。
翌朝。
一樹は吸い寄せられるようにネクスト・ソリューションズの本社ビルへ向かった。自分のオフィスフロアへ足を踏み入れ、デスクに向かおうとして、ピタリと足が止まる。
見慣れたはずの自分の席に、見知らぬ若い男が座っていた。その青年は、一樹が昨日まで血を吐くような思いで仕上げたプロジェクトの企画書を広げ、上司と楽しげに談笑している。
「失礼ですが……そこは僕の席です」
一樹が声を絞り出すと、上司は怪訝な顔で振り返り、冷たく言い放った。
「君、誰だね? うちのフロアに部外者が勝手に入ってもらっては困るんだが」
「何を言っているんですか! この企画書を書いたのは僕だ! 米沢一樹ですよ!」
声が高く裏返る。しかし、周囲の同僚たちは一樹を見ようともせず、ただ不気味な無関心の視線を通り過ぎさせていく。誰も、米沢一樹という人間を知らない。
一樹は弾かれたようにスマートフォンを取り出し、画面を開いた。
アカウント名は「ゲスト」に変わり、過去に投稿した華やかな写真はすべて、あの青年の顔に置き換わっていた。社内データベースの顔写真も、同僚たちの記憶も、世界中の記録が巨大な網の目によって一瞬で塗り替えられていた。
誰かがサイトを使って自分を嵌めたのではない。
一樹が他人の人生を削り取って自分を偽飾したように、この世界の不可解なシステム(アノマリー)が、用済みとなった一樹を枠組みの外へと押し出し、新しいジグソーパズルのピースをそこに嵌め込んだのだ。
「出ていってくれ」
両腕をがっしりと警備員に掴まれ、一樹はビルの外へと引きずり出された。雨の混じる冷たいアスファルトの上に無様に放り出され、背後で巨大な自動ドアが絶望的な音を立てて閉まる。
立ち上がった一樹が、目の上に聳え立つガラス張りのビルを見上げた。
そこに映っていたのは、周囲の風景に溶け込み、今にも消えてしまいそうなほど輪郭が薄れた、惨めな男の影だった。すれ違う人々は誰一人として一樹と目を合わせず、まるでそこに何も存在しないかのように通り過ぎていく。一樹の存在そのものが、世界というキャンバスから消しゴムで擦り取られていくようだった。
冷え切ったポケットの中に手を突っ込むと、指先に固い感触があった。
手繰り寄せ、取り出したそれは、名前も、印字も、インクの染み一つすら存在しない——ただの、真っ白な紙切れだった。かつて自分が世界のシステムに差し出した「履歴書」の残骸だった。
濡れた路上に立ち尽くす一樹の視線の先、ビルのガラスの向こう側に、あのすり切れたコートの男が立っていた。男は静かに微笑むと、混雑する群衆の中に混ざり、そのまま空気の中に溶けて消えた。
街の雑踏が吐き出す歪んだ喧騒のなかで、一樹は自分がこの世界から完全に消去されていくのを感じながら、声のない悲鳴を上げ続けていた。




