第9章 「泣くなドラゴン、笑えミリア。」
あの日、リオに「近づかないで」と言ってしまった日から、私の世界は色褪せてしまった。
朝の教室。窓から差し込む光は明るいのに、私の目にはすべてが灰色に見える。
生徒たちの笑い声、チョークが黒板を叩く音、風が窓を揺らす音。
すべてが遠い。まるで、分厚い水の底から聞いているみたいだ。
私の席と、彼の席。
その短い距離が、今は魔界と人間界よりも、ずっと遠く感じる。
リオは、あれから私に話しかけてこなくなった。
訓練も、委員会室からの呼び出しもなくなり、ただ時間だけが過ぎていく。
彼は、窓の外ばかり見ている。
あの時と同じ、何かを諦めたような横顔で。
――これで、いいんだ。
――私が近づかなければ、彼が「暴走因子」になることもない。
――私が感情を殺せば、「引き金」になることもない。
――学園は、平和だ。
内面で、必死にそう唱える。
外面は、完璧な「無表情」を貼り付けて、私は幽霊のように授業を受けていた。
もう、感情で熱くなることもない。
火を吹く心配もない。
胸が痛いのも、息が詰まるのも、きっと気のせい。
そう、思っていた。
* * *
放課後。
私は、あの日と同じ、西日が差し込む廊下を歩いていた。
あの日、彼の手を振り払った、同じ場所で。
「……ミリア」
声をかけられ、ビクッと肩が震えた。
リオ、かと思って。
でも、違った。
「セリナ……」
「……ちょっと、ツラ貸しなさいよ」
いつものニヤニヤした笑顔は、そこになかった。
セリナは「恋愛観察者」の目を消し、心底イライラしたような顔で、私の腕を掴んだ。
そのまま、屋上へと強引に引きずられていく。
屋上は、風が強かった。
夕陽がフェンスの向こうに沈みかけていて、空は燃えるようなオレンジ色と、冷たい群青色のグラデーションに染まっている。
風が、カタン、と空き缶を転がす音だけが、やけに大きく響いていた。
「……何の用」
「何の用、じゃないでしょ。あんた、いつまで『世界の終わり』みたいな顔してるつもり?」
セリナはフェンスに寄りかかり、腕を組んで私を睨みつけた。
その瞳は、本気で怒っている。
「……別に。私は、いつも通り」
「嘘つかないでよ。その“無表情”の下で、泣いてるくせに」
図星だった。
胸の奥が、ぎゅっと痛む。
「……カイルに、何か言われたんでしょ」
「!」
なんで、セリナが。
「あんたがリオ様を避ける理由なんて、それくらいしかない。……で? あの優等生に、何を吹き込まれたの? 『リオが危険だ』? それとも『あんたの炎がヤバい』?」
「……どっちも、だよ」
声が、震えた。
「私の炎は、魔界の“原初の炎”が混じってるんだって。リオが“暴走因子”で、私が“引き金”になって、学園地下の“封印”を壊しちゃうんだって……!」
一度口に出したら、堰が切れたように言葉が溢れた。
――怖い。
――私のせいで、みんなが。
「……だから、近づいちゃいけないの。私が、我慢すれば、誰も傷つかないから……」
「……ふーん」
セリナは、私の必死の告白を聞くと、ふん、と鼻を鳴らした。
「……何よ」
「いや。ミリア、あんた、本当に馬鹿だなって思って」
「馬鹿……!?」
「だって、カイルの“ロジック”と、あんたの“気持ち”、どっちが大事なのよ」
「……それは、気持ちなんかより、学園の安全の方が……」
「じゃあ、リオ様が傷ついてもいいんだ」
「――え」
セリナの言葉が、氷のナイフみたいに突き刺さった。
「私、見たよ。あんたに『近づくな』って言われた次の日の、リオ様。訓練室で、一人で、壁殴ってた」 「……うそ」
「ドラゴン族の本気の手加減でね。壁、ヒビ入ってた。……あんたさ、カイルの言う『危険』ばっかり気にしてるけど、あんたがリオ様を拒絶したことで、彼がどれだけ傷ついたか、考えた?」
――リオが、壁を?
――私の、せいで?
「ミリア。あんたが火を吹いた時、リオ様はあんたを『危険』だって言った? 『制御しろ』とは言ったけど、あんた自身を拒絶した?」
「……してない。……それどころか、文化祭の時、笑って……」
「でしょ」
セリナは、ふう、とため息をついた。
そして、私の肩を掴んで、まっすぐ目を見てきた。
「泣くな、ドラゴン。笑え、ミリア」
「……え?」
「あんたの初舞台のセリフよ。忘れたの? ……あんたが泣きそうな顔してるから、リオ様も泣くに泣けない“ドラゴン”になってんじゃん」
セリナの言葉が、カイルの冷たい「ロジック」を、温かい光で溶かしていく。
――そうだ。
――私は、何を怖がっていたんだろう。
――火を吹くこと? “封印”が壊れること?
――違う。
――本当は、リオに拒絶されるのが、一番怖かっただけだ。
――七年前に、彼が魔界に帰っていった時みたいに、また、いなくなるのが怖かった。
――だから、いっそ自分から、彼を突き放した。
「……私、馬鹿だ」
「やっと気づいた?」
「私、カイルの言葉を信じて、リオを信じなかった。……リオが、あんな顔してたのに。私、最低だ」
「……まあ、自覚があるなら、まだマシ」
涙が、勝手に溢れてきた。
“無表情”の仮面が、ボロボロと剥がれていく。
――どうしよう。
――謝りたい。
――今すぐ、会って、ごめんなさいって言いたい。
――でも、もし、また火を吹いたら……。
私の葛藤を見透かしたように、セリナは笑った。
「火を吹いたら、その時はその時でしょ。リオ様、ドラゴンなんだから、あんたの炎くらい平気よ」
「……そんな、適当な……」
「いいから、行きなよ。あんたの“本音”、伝えに」
セリナの背中を押すような一言に、私は顔を上げた。
――そう。
――私は、私の「好き」を、怖がってた。
「ありがとう、セリナ!」
私は涙を袖で拭うと、屋上の扉に向かって走り出した。
彼を探さないと。
まだ、学園にいるはず。
その、瞬間だった。
ゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
立っていられないほどの、巨大な振動。
地震じゃない。
真下。
学園の、地下から。
「……嘘」
屋上の床が、ビリビリと痺れている。
あの時、カイルが言っていた。
『学園地下の“封印”』
「ミリア、あれ!」
セリナが指差す先。
講堂がある方角の空が、紫色に歪んでいる。
――封印が。
――破られる……!
血の気が引いた。
そして、同時に、雷に打たれたような確信が私を襲った。
――リオだ。
――リオが、あそこにいる。
――私が突き放したから、彼が、一人で、あそこへ……!
「ミリア!」
「行く!」
私はセリナの制止を振り切り、階段へと飛び込んだ。
――待ってて。
――今度こそ、私が、手を離さないから。
廊下を全力で疾走する。
“無表情”は、もうどこかへ消えていた。
胸の中で、熱い、熱い炎が燃え上がっていた。
(第9章・完)




