第12章 「さよならの前に」
あの日、講堂が崩壊してから、数日が過ぎた。
空は、あの紫色の歪みが嘘だったかのように、どこまでも青く澄み渡っている。
私は、いつもの屋上のフェンス際で、その空をぼんやりと見上げていた。
遠くからは、講堂があった場所からだろうか、資材を運ぶ音や、復旧作業の魔法がぶつかる甲高い音が、かすかに響いてくる。
学園は、ゆっくりと日常を取り戻そうとしていた。
カイルは、あの日、私の前で膝をついた後、駆けつけた監査官の先生たちに、抵抗することなく拘束されていったと聞いた。
“門”は、リオと私の力で、今は静かに眠っている。
そして、私とリオは。
――あれから、どうなったんだっけ。
私は、瓦礫の中で彼を抱きしめた。
彼は、照れたように私の頭を撫でてくれた……気がする。
その後の記憶は、お互いボロボロすぎて、医務室に直行したことで曖昧だ。
「好きだ」とは言った。
でも、彼は「俺もだ」とは言っていない。
――え、もしかして、あれ、全部私の勘違い……!?
一人でパニックになりかけていると、背後で屋上の扉が開く音がした。
心臓が、跳ねる。
振り返らなくてもわかる。
彼だ。
「……ミリア」
いつもの低い声。
でも、前みたいに「無表情」を貼り付ける必要は、もう私にはなかった。
火傷の治療痕が残る手で、スカートをぎゅっと握りしめる。
「……やあ。サボり? “番人”さん」
精一杯の冗談を言ってみる。
でも、彼は笑わなかった。
コツ、と私の隣まで歩いてきて、同じようにフェンスの向こうを見つめる。
「……ミリア。俺、帰ることにした」
「……え」
空気が、凍った。
帰るって、どこへ。
教室? 寮?
「魔界へ」
頭を、鈍器で殴られたような衝撃。
血の気が、すうっと引いていく。
――なんで。
――どうして。
――また、いなくなるの。
――七年前と、同じじゃない。
――やっと、会えたのに。
――好きだって、言ったのに。
内面で、絶叫が渦巻く。
泣きそうだ。
いや、今度こそ、本気で火柱が上がりそう。
でも。
セリナの言葉が蘇る。
『あんたが泣きそうな顔してるから、リオ様も泣くに泣けない“ドラゴン”になってんじゃん』
私は、ぐっと奥歯を噛み締め、燃え上がりそうな喉の熱を飲み込んだ。
そして、できる限り明るい声で、笑ってみせた。
「……はあ!? なによそれ! もしかして、私の告白が重すぎて、逃げるわけ?」
「……違う」
「図星でしょ! せっかく私が、あの炭の弁当のリベンジをしようと思ってたのに! 食べずに逃げるなんて、卑怯者!」
リオが、驚いたような顔で私を見た。
まるで私が泣き叫ぶとでも思っていたようだった。
彼は、その視線をふ、と逸らすと、困ったように頭を掻いた。
「……“門”だ」
「……」
「お前の力で暴走は鎮まった。だが、カイルがこじ開けた“歪み”は残ってる。あれは、魔界側からじゃないと、完全には塞げない」
「……そう」
「番人の、本当の仕事だ。それに……今回のこと、上に報告もしないといけない」
わかってる。
わかってるよ。
彼が、どれだけ強い責任感で、あの“番人”という役目を背負っていたか。
私は、もう、彼を怖がらせて一人で戦わせる女の子じゃない。
彼を「信じて」、送り出す。
これが、今の私にできる、精一杯の強さだ。
「……そっか。……いつ、行くの?」
「……今夜だ」
早い。
早すぎるよ、馬鹿。
沈黙。
風の音だけが、やけにうるさい。
「……リオ」
「……なんだ」
「……今度は、ちゃんと、帰ってくるよね」
声が、震えた。
これが、私が聞きたかった、たった一つのこと。
リオは、私の問いに答えなかった。
代わりに、そっと私の頬に手を伸ばしてきた。
ボロボロの、傷だらけの手。
でも、どうしようもなく温かい。
「……約束、だからな」
「え?」
「お前の“弁当”。食うって、約束」
その目が、あまりにも真剣で。
優しくて。
ああ、ずるい。
そんな顔されたら、我慢してたのに。
リオの顔が、ゆっくりと近づいてくる。
屋上の風が、ぴたりと止んだ。
――うそ。
――これって、あの、演劇の時とは違う。
――本物の……。
私の心臓が、警告音を鳴らす。
熱い。頬が、耳が、燃えそう。
でも、今度は、目をそらさない。
火を吹いてもいい。
彼の気持ちを、ちゃんと、受け止める。
私は、そっと目を閉じた。
リオの、息遣いが、かかる。
あと、数センチ。
その、瞬間。
ぐぅぅぅぅぅぅ……っ
静まり返った屋上に、間の抜けた、盛大な音が響き渡った。
「「…………」」
時間が、止まった。
私は、ゆっくりと目を開ける。
目の前には、キス寸前で固まったまま、信じられない、という顔をしているリオ。
音の発生源は、私だ。
私の、お腹だ。
――あああああああああっ!
内面は絶叫。
外面は、カアアアアッ、と音を立てて沸騰した。
(そういえば、緊張しすぎて、朝から何も食べてなかった)
「…………ぷっ」
リオが、吹き出した。
最初は小さく。
やがて、こらえきれないというように、肩を震わせて。
「……あっ、ははっ! あはははは!」
あの、文化祭の時みたいな、本気の笑顔。
「おま……っ、お前……! 最高かよ!」
「わ、笑うなー!!」
私は、真っ赤な顔で彼を叩く。
「こっちは! 真剣に! 覚悟決めてたのに!」
「ははっ……! 無理だ、腹痛い……! 告白も、再会も、火事でお……別れは、腹の虫か……!」
リオが涙を浮かべて笑うから。
その笑顔が、あまりにも眩しくて。
私も、つられて笑ってしまった。
ああ、もう。
台無しだ。
でも、これが、私たちらしい。
散々笑った後、リオは、ふっと真顔に戻った。
そして、私の頭を、わしゃわしゃと乱暴に撫でた。
「……早く、何か食え。馬鹿」
「……うるさい」
「……“門”が、完全に安定するまで、少し時間がかかるかもしれん。……でも、必ず戻る」
「……うん」
「……じゃあな。ミリア」
彼は、今度こそ、私に背を向けた。
屋上の扉に向かって、歩いていく。
七年前と同じ背中。
でも、不思議と、胸の痛みはなかった。
“無表情”を貼り付けなくても、私は、笑って彼を見送ることができた。
扉が閉まる直前、彼が小さく呟いたのが、風に乗って聞こえた。
「……今度こそ、焦げてないやつ、頼むぞ」
――当たり前でしょ。
――次こそは、あんたがひっくり返るくらい、完璧な卵焼き、作ってやるんだから。
私は、空に向かって、精一杯の「バーカ!」を叫んだ。
(第12章・完)




