未知は既知に
僕にとっては、まるで平日のように年が明けた。
彼女は新年の挨拶もなく、唐突にこう言った。
「天巌さんって、次女だったらしいよ」
僕はどう反応すればいいか分からず、「はあ」と、他人行儀に相槌を打った。
「だから?」
「天巌組長の娘は2人いて、親から愛されていたのは長女の方だったんだ」
天巌の話をされると、頬と口内の傷が痛む。痕になるほど蹴りやがって。
「つまり、なにか? 天巌魔希は、言うほどの権力は持ってなかったってことか?」
「そう。むしろ、煙たがられてたっぽいよ」
あんな宗教の真似事をしていたんだ。普通の親だろうとヤクザの親だろうと、そんな娘は遠ざけたくなる。
「まあ、だからこそ魔希さんは権力と信者が欲しかったんだろうね。自分の親に、力を誇示して認めて欲しかった……らしいね」
「誰から聞いたんだよ」
「鴉原さん」
「あの不良警官……」
あんな奴は昇進させてはいけない。この国の未来のためにも。
「で? そいつに悲しい事情があるから? なんだってんだ」
「ただ、組員の中で魔希さんに心から従う人は少ないってだけだよ。つまり、彼女が逮捕される原因になったわたしたちを、恨む組員もいないってこと」
「あっそ……」
一歩間違えれば、ヤクザに狙われる羽目になっていたのか。恐ろしいことだが、実感もない。対岸の火事のように感じてしまう。
あの事件から1ヶ月経ったが、その間、怪我を癒しながらクリスマスや年末年始を過ごした。
ヤクザがやって来る、なんて考えている余裕はなかった。
「……そういえばさ」
「あ?」
「君、あのとき泣いてた?」
「泣いてない」
「……泣いてたでしょ」
「泣いてない」
「まあ……いいけど」
「泣いてない」
「分かったってば!」
泣くだろ。普通。人は恐怖と痛みがあれば、簡単に涙を流すんだ。そういう生物なんだから仕方ない。
「でも……君は、わたしのために頑張ったんだよね」
「……お前を下の階に降ろしたことか? それとも蹴られながら耐えたこと? そんなの、別に──」
「ありがとね」
あのときは必死で、他の方法を考えている暇がなかった。少なくとも、僕だったらなにもできないだろうと分かっていたから、九木を降ろして僕が残った。それだけだ。
「……ふん」
「照れてる?」
「うるせー」
九木は空気を洩らすように笑う。それから目を細め、眼光を尖らせた。
「でも、駄目だよ。あんなこと」
「あ……?」
「あのとき、わたしがなんて言おうとしたか分かる?」
そういえば、彼女はカーテンをつたいながら、なにか言っていた。天巌が入ってきたから、聞きそびれたのだった。
「イカレ野郎」
「は?」
僕のこと……言ってるのか?
「君はちょくちょく、わたしのことイカレ女って言うけど。わたしからしたら、君だって立派なイカレ野郎だよ」
「なっ……ど、どこがだよ」
「わたしに付いて来てくれるところ」
「は……なんだそれ……?」
「嫌がりながら、怪異を探しに来てくれる。酷い目に遭っても。凄く、嬉しいけど……普通の人はそんなことしないよ」
故郷から抜け出して、都会に出て。聴き飽きたアルバムをリピートするような日常を送っていた。
だから、不意に現れたノイズは、とても刺激的で、僕の脳を狂わせるのに充分な劇物だったのだろう。
僕は──僕も、怪異を探し求めていた。
「あー……」言い返せない。
「わたしはいつか、怪異に殺される。そこは絶対だけど……たまに思うんだ」
「なにを?」
「生きているうちは、楽しく過ごせそうだな……って」
九木は出会ったときのように妖しく口角を上げた。まるで、僕を試すかのように。
見届ける覚悟はあるか? そう言いたげだ。
「……はっ。言っただろ。僕の知らないところで死んでくれって」
「でも協力はしてくれるんでしょ?」
「──そうだな」
僕たちの未来は未知だらけだ。曖昧な目的地に、不安定な足場。おまけに呪われている。
しかし怖くない。いや、怖くなくなる。
「じゃあ、さっそく明後日! 行こっか!」
「……あ? なに? どこに?」
「怪異サークルの人からの情報提供。なんか隣県の海辺に怪異が出るかもって」
「……イカレ女」
「あはっ。今年もよろしくね、星太郎くん!」
未知は、既知に変わる。




