推理 ‐邪視 2‐
未だ事件の全容は、今の空模様のように薄曇りだ。晴れ間はまだ見えない。
「一酸化炭素中毒……他殺だとするなら、誰かが部屋に入って、石油ストーブのスイッチを入れたことになるが……」
「それは無理だよ。305号室の鍵は閉まってたし、マスターキーも使われてない。そもそも羊堂さんが部屋に帰ってから、誰も3階に訪れてすらいない」
「普通だったら自殺で確定だな……」
実のところ、自殺説を否定できる証拠はない。
「……実は羊堂は洗脳されていて、本意じゃなく自殺したとか……」
自分で言っていて、苦しくなってくる。洗脳って、お前。
「まず、洗脳……催眠術なんかは、人の本能を超えた命令はできないんだよ。自殺しろ、なんてのは無理」
「……だろうな」
「次に、洗脳なんて不確かなもの。警察の尋問でボロが出るね」
「ああ……分かったよ。もう、充分だ」
欠片も自信がない推理だったが、ここまで徹底的に否定されると、少しへこむ。
「わたし的には、やっぱり邪視の呪殺を疑ってるけどね!」
「おいまだ期待してんのかよ!」
「そりゃ、邪視だったらどんでん返しで最高じゃん」
「最低だろ」
「邪視だったら、羊堂さんが精神を病んで自殺したっていうのも辻褄が合うよ?」
怪異っていう時点で、かなり辻褄は危ういんだが……。
「星太郎くん、怪異を信じるって言ったじゃん!」
「疑わずに信じるわけにはいかないだろうが……」
僕たちはマンションの5階で、小雨を眺めながら推理を進めていた。しかしどうしても行き詰まる。3階に誰も訪れていない以上、羊堂を殺すことは不可能……。
「でも、なんか忘れてる気がするんだよなー……誰か、大事なことを言っていたような……」
階段を上る音がする。既視感を抱いて振り返ると、罪前が半身を出して、手招きしていた。
「なんです?」
罪前は小声で「おい、こっち来い」と言って降りていく。4階の自分の家に向かうのだろうか。
「……おい、どうする?」
「まあ、行ったほうがいいんじゃない? なんか教えてくれるかもよ」
ついさっき、儀式という大事な情報を教えてくれた人だ。またもやなにか教えてくれるかもしれない。僕は期待半分、嫌な予感半分で4階に向かった。
彼の部屋、402号室の前で立ち止まる。
「君も気づいてると思うけど、なぜかここの住民たちは、お隣さんを作らないんだよね」
「ああ……この階は罪前だけだったか。1階も、聖田と天巌、護衛は一つ飛ばしで部屋を使っている」
それぞれ好みというものはあるだろうが、意図的にも思える。
「奇数階は101や305の奇数番、偶数階は204や402の偶数番の部屋。なにか、意味があるんじゃないか」
「きっと、天巌さんが意図して……」
そう言いながら、何気なく九木がドアノブを捻ると、それは簡単に回った。
「あれ、空いてる」
「勝手に入れってことじゃないか。ってか、いきなり回すなよ……」
九木がドアを開けた。中の様子を覗く。
──瞬間、頭に、後頭部に。鈍い衝撃が走った。
「がっ……!?」
殴られた、と理解する。
そして天地がひっくり返った。
まずい。脳が揺れて、頭が回らない。自分が今、かろうじて立っているのか、すでに床に倒れ込んでいるのかも分からない。
九木は? あいつも殴られたのか? 視界がぶれていた。周囲の様子が分からない。
「……許してくれ。脅されたんだ」
しわがれた声が頭上で聞こえてきた。罪前だ。彼は僕たちをおびき寄せていたんだ。
なんのために? 決まっている。
「──そろそろ、鬱陶しいのよね」
ここの支配者が、お怒りなんだ。
***
「起きて……起きて!」
頭が痛む。朦朧としている間に運ばれて、フローリングの床に投げ出された。おかげで今度は右肩が軋むように痛い。
「星太郎くん!」
「起きてる……っつーの……」
目を開けると九木が不安そうな顔で覗き込んでいた。
「ごめん……油断した。わたしが挑発したから……」
言葉を返す余裕はまだない。なんとか起き上がって、状況を整理する。
ここは罪前の部屋だ。さっき見た内装と変わってない。儀式の配置は、多少片付けられている。
九木の顔を見やれば、こめかみに血が滲んでいた。きっちり殴られていたらしい。
「大丈夫、じゃないよね? 痛む……?」
「僕のことはいい……それより、どうなった、これ……天巌は……?」
部屋の中に、他の人の気配はない。
「外……たぶん入り口で誰かが見張ってる。出られないね……」
「これ、ヤバいやつか?」
「たぶんね。きっと戻ってくるよ」
万事休すか。痛む頭を抱えたくなったが、九木は言う。
「1つ朗報。頭殴られた衝撃で、分かっちゃった。羊堂さんがどうやって中毒死させられたのか」
「マジかよ……」
「ただ……困ったね。スマホも取られちゃったみたい。助けも呼べないや……」
確かに、ポケットに収まっていたはずのスマホが忽然と消失している。
「つっても、ここで僕たちを殺せば、流石に悪事がバレる。なにもしないと願いたいが……」
「山に埋めて行方不明にするとか?」
「……冗談じゃないぞ……」
ベランダには隔て板という、隣との仕切りがある。火事などの災害で避難経路に使うため、蹴破れる程度の強度だ。
蹴破って隣の部屋に逃げることはできるが、きっと音でバレる。そもそも隣の部屋に逃げても、結局ドアから出ていけば捕まるに違いない。
「これしかないな……」
「なにするの?」
急いでカーテンを外す。
罪前め。脅されていたのならある程度は仕方ないが、カーテンくらいは犠牲になってもらうぞ。
「カーテンを2つ結んで、下の階に垂らす」
手すりにしっかり結びつける。最後に、ほどけないように祈るだけだ。
「え、つたって3階に降りるってこと!?」
「そうだ。これしかないだろ」
「確かにそうだけどさー……」
九木はベランダから地上を見下ろす。生垣なんかもない。4階から落ちたら、命はない。よくて全身骨折ではないだろうか。
「……君、凄いこと考えるね……」
「僕からすれば、お前が思いつかないのに驚く」
普段は、僕と比べものにならないくらい頭の回転が速いくせに。それほど焦っているということか。
「わたしは都会っ子だから。サバイバル知識とかないんだよ」
「僕の田舎はそんな命の危機ばっかねぇよ」
柵からおそるおそる身を乗り出し、九木はカーテンのロープを掴んだ。僕は手すりの結び目を握る。焼け石に水でも、安心感はあるだろう。
「う、雨で滑りそう……」
そのとき、ガチャリ、と。ドアの鍵が開く音がした。
「げっ」
「え、どしたの。嫌な予感」
「来た。奴らだ」
「え!」
障害物でも置いておけば良かった。すぐにやって来るはずだ。
「九木。管理人室まで行って通報してこい。僕はあいつを止めておく」
「は!? だ、駄目だよなに言ってんの!?」
九木は焦って手を止めるが、言い争っている場合じゃない。
「時間がない。……頼む」
僕が残るしかない。
「君っ……て、本当にさぁ……!」
九木は怒りながら、手を離して階下に降り立った。
珍しい表情だったが、さっきの話を聞いたせいか、納得できてしまった。
僕は死なないよ。きっと。
「あいつ、最後になんか、言おうとしてたな……」
たいした意味はないかもしれないが、カーテンの結び目を解き、下に放った。すぐにバレるだろうが……。
「……あら」
振り返ったタイミングで、天巌がリビングに入ってきた。後ろには護衛が控えている。
九木がいないことを疑問に抱くが、カーテンが消えていることから、一瞬で察したようだった。
「……どうも。教祖さん」
天巌は開幕早々、くすくす笑った。
「もう1人は逃げたのかしら。でも無駄よ。下にも、信者を待たせてる。彼女もすぐ戻ってくるわ」
それは、託した甲斐がないな。
「僕らになにするつもりだ? 下手なことすれば足がつくぞ?」
「そうねぇ。神隠し、っていうのはどう? この世から存在が消えるの。怖い?」
自分で言うのも情けないが、怖い。ヤクザと相対して戦えるほどの度胸はない。足の震えが酷くなる前に、どっしりとあぐらをかいた。
「やっぱり邪視はインチキだ」
「……」
「呪殺できるんなら、こんな手間かける必要もないだろ」
天巌は手でなにか合図をする。颯爽と護衛が前に出て、僕の眼前に立つ。
鋭い風切り音がした。
「ぶがっ……!?」
鼻を蹴られた。おそらく血が噴き出した。
「痛い? うふふ……可哀想」
信者たちにこの様子を見せつけてやりたい。お前たちが信じた教祖は、こんな命令を下す化け物だ。
歯が揺れる。鉄の味がする。命乞いはしたくない。その程度のプライドはまだ残っていた。
「1年前の彼みたいに、呪い殺してもいいのよ」
「彼……」
「せっかくだから教えてあげるわ。1年前、彼は債務者だった。返済のあてもないし、組が処分に困っていたのを、私が引き取った。利用するためにね……」
「利用するだけして、殺したのかよ」
「違う。殺すことが、利用することなのよ」
「は?」
「私は宗教の下地を整えていた。最後に必要だったのは、生贄。
私の邪視の力を、他の信者に見せて信じ込ませるため、彼を殺したのよ。おかげで、私の力をみんな信じたわ」
世界が違う。目的のために、殺しという手段が生まれついて選択肢に入っているんだ。
「じゃあ……羊堂を殺したのは、何故……」
「彼も困った人よね。余計なことを調べようとするんだもの」
余計なこと。それは相当なものだ。崇眼教会の秘密、といったところだろうか。見当もつかないが。
いや。
痛む頭に閃くものがあった。くしくも、九木と一緒だ。
九木のように筋道が立った推理はできない。飛躍していると分かっているが、浮かび上がった1つの仮説は、到底無視できるものではなくなった。
暴発した鉄砲の弾でもいい。
僕は、相手の心臓めがけて、言葉を撃った。
「それは、羊堂の前科が関係しているのか」
マンション、自殺、前科、空室、儀式。
このインチキ女の隠した謎が、見えてきた。




