天巌魔希
早朝、九木からの連絡で起こされた。最悪のモーニングコールだ。
大学の講義があったわけだが、彼女の強引な招集は、僕の当然の権利を侵害する。
あのイカレ女め。
***
マンションの前に、パトカーが数台停車していた。静かな通りに、忙しない警官たち。野次馬もちらほら現れていた。
「星太郎くん、こっち!」
野次馬の中に九木は混じっていた。
「なんだっていうんだ、これは……」
「電話で言ったでしょ。人が死んだんだよ」
「僕たちが訪れた日の、翌日に……?」
「鴉原さんが中にいるよ」
マンションの入り口は警官が立っていて、中に入ることは不可能らしい。
「ん? 鴉原は……刑事でもないし、別のとこの交番勤務だろ。なんで入ってるんだ?」
「事件があったって知って、担当してる刑事さんに頼んだんだって。
『昨日、ちょうど行ったばかりです! 行かせてください!』的な感じで」
昇進のために、自分を売り込んだってわけか。野心があるというか、意地汚いというか。
「まさにカラスって感じだね!」
すると噂のカラスが、マンションから出てきた。僕たちを見つけると、バレないように手招きし、人のいない場所へ僕らを呼びつけた。
「鴉原、中でなにがあったんだ」
鴉原は汗を拭う。マフラーと手袋が外せないくらい寒いのに、相当大変なことになったか、それとも……。
「あー……緊張したぁー……めっちゃ怖いベテラン刑事さんらがいて、散々尋問されたよ……」
上下関係の厳しさの方、だったか。
「わたしたちのこと話しました?」
「まぁ、うん……。もし隠してバレたら、あたし免職かもだし……」
「うげ」
「あ、でも、関係ないとは強く言っておいたよ。それに、どう考えたって事件とは無関係みたいだし」
「それで。誰が、どうして死んでるんだ」
「死亡したのは羊堂一敏、26歳。死因は一酸化炭素中毒による、自殺……」
鴉原は警官らしく、淡々と人の死を告げる。
「え、待ってよ。羊堂って確か昨日……」
「……あ、そうか」
聞いたことあると思ったが、あの、ドアの隙間から僕らを覗いていた男だ。非常に陰鬱とした雰囲気を漂わせていた。
「あの人、自殺しちゃったの……?」
「おい、一酸化炭素中毒による自殺……って、それ1年前の……」
鴉原は苦々しげに頷く。
「そう。当然、関連性があるってことで捜査が進められてるよ」
昨日はほとんど顔も見えなかったが、一言、僕たちになにか言っていた。なんだったか。
『やめたほうがいい……』とかなんとか。
「でもね、どうも自殺っぽいんだよ」
「他殺はあり得ないの?」九木は痛ましげに眉をひそめていた。
「まず、部屋の中に遺書があった。それから、本人の病気だよ」
なにか持病とか抱えていたのか、と言いかけたところで、記憶が蘇った。
「確か聖田が、羊堂は心を病んで前職を辞めた、と言っていたな。それのことか?」
「そう。まだちゃんと裏は取れてないんだけど、他の住民がね、『彼は最近、酷く塞ぎ込んでいた』と揃いも揃って証言してるんだよ」
「……それも1年前と関係してそうだがな……」
九木が挙手する。
「なんかそれ、それより以前は元気だった、って言ってるような気がするんだけど。元気じゃなかったから、仕事を辞めてここに来たんじゃなかったの?」
最近塞ぎ込んでいた……確かに、元気だった時期もあったのか。
「まだ確認が取れてないな」
「そっか……」
「なんせ、事態が発見されたのは今朝の6時で、検分が開始されたのは7時のことだから。まだまだ分からないことだらけなんだよ」
現在時刻はそろそろ9時になる。2時間前から始まったのか。
「ちょっと話が逸れたけど、彼が自殺だって考えられる根拠はまだあるんだ。それも、一番大きいやつ」
「一番大きい?」
「彼の部屋、305号室は、密室だったんだよ。誰も中には入れない。他殺の可能性は限りなくゼロに近いんだ」
密室。ミステリーならよく聞く単語だが、実際に聞くのは勘弁したい。
「じゃあ、あたしまた行ってくるから」
「いや待てよ」
僕はマンションに向かおうとする鴉原を慌てて引き止めた。
「僕たちは事件と無関係なんだから帰らせてくれよ」
鴉原は心の底から、「なに言ってんだこいつ?」と言いたげな目をした。
「あんたらが謎を解くんだよ。そして、あたしが犯人を捕まえるの。昇進のためにさ」
彼女が消えた後、九木は苦笑して呟いた。
「あの人、なかなかイカレてるよね」
「……別の方向でな」
「え? 別?」
「お前とは、別」
***
しばらく待っていたが、鴉原は戻ってこなかった。なにも情報が得られてないか、刑事たちに捕まってるかだろう。
野次馬も徐々に減りだしてきた頃、それでも待ち続けていると、入り口から2人組が出て来た。
ドア前の警官とわずかに会話をし、マンションを後にした。
つまり、僕たちの方に歩いてきたのだ。
「ね、あれって……」
前を行くのは女で、男が数歩遅れて、しかしぴったり歩幅を合わせて付いてきている。
女はモデルのような格好だ。黒のカクテルドレスを着こなし、ハイヒールを鳴らす。
なによりモデルのようだと感じた理由は、彼女の目だ。
彼女は大きめのサングラスを着用していた。
九木が動き出す。「あっ、おい……」止めようとするが、間に合わない。
「すいません! もしや、天巌魔希さんですか?」
せめて、僕にも一言告げてから行動してもらいたいものだ。今に始まったことではないが、心臓に悪い。
「……あなたは?」
女の声は小さかったが、芯が通っていて、遠く離れていても鼓膜に響きそうだった。
後ろにいた男が、ほんの少しだが、前に出た。まるで女の護衛のよう……というか、そのものなのだろう。
「えっと、わたしたちは昨日、大学の研究で取材に来ていたんです」
「そう」
サングラスの奥の瞳が動いた。色のない眼光が九木を見下ろしている。目が不自由なわけではなさそうだ。
「確かに、私が天巌魔希よ。崇眼教会の教祖」
「おお!」
なぜか興奮している九木を下がらせて、僕が代わりに訊ねた。
「どこに行くんです? 事件があって、関係者は取り調べを受けているものと思っていましたが」
魔希はふわりと微笑む。
「真っ先に受けて、真っ先に解放されたのよ。だから、お腹をすかせている他の皆さんのためにお買い物を……」
「……いいんですか? 出歩いても……」
「……私が犯人で、今から証拠隠滅に行くとでも?」
「いや、そんな……」
「大丈夫です。徹底的に身体検査もされましたから」
意外と穏やかで、淑やかな話し方をする。しかし、騙されてはいけない。この女は暴力団組長の娘で、カルト宗教の教祖だ。
「あのー」九木が割って入る。「ちょっといいですか?」
「なにかしら?」
「1年前にも自殺はありましたけど、あれもあなたは無関係なんですか?」
「……」
イカレた女は、イカレた思考でイカレた発言をするから、イカレ女なのだ。
「ばっ……九木……!」
「ん?」
「ん? じゃねぇよバカ!」
くすくす……笑い声が妖しく響いた。
「なあに……? あなたたち、1年前の事件を調べてるんじゃないの。嘘つきね……」
瞬間、護衛の男が動いた。しかし天巌が制止する。
「素直に言ってくれたら教えるのに」
「いいんすかぁ?」
「とても痛ましい事件。もともと、ここは社会に適応できない人がたどり着く。だから、いつも死とは隣り合わせなの」
あくまで1年前も、今回の件も自殺であると言いたいのだろう。
「私は彼らを救いたい……けれど、往々にして間に合わないことがあるの。救う前に、命を絶ってしまう人がいるの……」
「なるほどですねー」
九木は抑揚のない返答をした。わざと相手を煽ってるんじゃないか?
「でもね? 羊堂さんも、1年前の方も……」
天巌は口角を吊り上げた。つい漏れてしまった笑みではなく、ひけらかすような笑みだ。
「……教会のタブーに触れてしまったの。だからきっと……罰が下ったんじゃないかしら?」
天巌はしっとりと笑う。
「……九木」
僕は視線で合図を送った。
「……なるほど。ありがとうございました。では、わたしたちはこれで……」
幸い、護衛の男をけしかけられたりはしなかった。ただ、気味の悪い視線は、ずっと背中に感じていた。
「星太郎くん、これ普通の自殺だと思う?」
「……そんな平和な脳ミソしてねぇよ」




