真実
火蜂は真顔であたしを見据える。平静そのもの……に見えるが、足を組み替える。それが、心が揺らいだ証拠と考えるのは、希望的観測だろうか。
「……さんざん待たされたあげく、犯人にされるとはな。おい、覚悟はできてるんだろうな?」
「認めへんのやな?」
「荒鮫……お前までなにを言ってるんだ? そんな刑事ですらないアホ面に騙されるな」
「あれ、分かってたんですか?」気を揉んでいたのに、あっさりだ。
「当たり前やろ。そんなかっちり制服着てる刑事はおらん」
火蜂は呆れたように息を吐く。ソファから立つ様子はない。しかしまた足を組み替えた。内心穏やかではないはずだ。
「くだらない。今ならまだ許してやる。さっさと失せろ」
「そうはいきません。被害者、獅子場さんが残していましたよ。犯人の名前を」
「なに……?」
火蜂の顔色が変わる。
「それ、ダイイングメッセージってやつか?」
驚きながら状況を眺めていた麻貝が、遠慮がちに訊ねた。
「はい。手に持っていたリンフォンという呪具と、机上のチェス……いや、椅子の上のキングがメッセージでした」
「リンフォン?」
「詳しくは置いといて、綴りを並べ替えるとINFERNOになる、という話があります。つまりアナグラムですよ」
「しかし待てよ。ダイイングメッセージって血文字とかだろ。そんなものなかったぜ」
「そらそうや。若には外傷がなかった。しかも、あの部屋にはペンや紙がない。メッセージを残そうにも、書くもんがなかったんや」
死ぬ直前にパソコンを起動するわけにもいかなかった。だから、あそこにあるもので、被害者はメッセージを作った。
咄嗟に、犯人にバレて隠滅されないために、一目見ただけでは分からないメッセージを。
「……で? 俺の名がどこに……」
「慌てんなや。火蜂」
黙って聞け、と荒鮫は顎であたしの方を示した。いつ殺されるかも分からない状況だが、覚悟を決めなくてはならない。
「椅子の上に、キングがいました。そう、まるで玉座に座るようです。自然とチェス盤からキングが1人落ちたとするには不自然すぎます。獅子場さんが意図的に落としたとあたしたちは考えました」
「それが……ダイイングメッセージだと?」
「ここで、玉座を英語にしてみましょう」
「は? 英語?」
あたしはメモに書いてみせた。
「THRONEです。では、並べ替えてみましょう。リンフォンの話のとおりに……」
油断すると手も声も震えそうだ。奇妙に角ばった字で、アナグラムの答えを書いた。
『HORNET』
「蜂ですよ。どうですか? 火蜂さん……」
火蜂は立ち上がった。荒鮫が咄嗟にあたしの前に立ち塞がる。
「……くだらない……! なんだそれは? 捻くれたガキの謎々じゃないんだぞ。こじつけだ。偶然にすぎない!」
火蜂の声は徐々に荒くなる。
「若は死ぬ直前、そんな暗号を思いついたというのか? 確かに英語を使う機会は一般人より多いだろう。
だがな! 仮にそうだとして、誰に伝えるつもりだったんだ? 複雑なメッセージなんて、伝わらなきゃ意味がないじゃないか!」
もっともな指摘だ。しかし、この場では異なる。
「ズベがおんねん」
「は……?」
「若と同じくらい頭が良くて、リンフォンとかいう呪具に詳しいやつがおるねん。ここにな」
蛙辺は覇気のない顔で、亡霊のように部屋の隅で立っていた。
頼りなさげだが、事実、答えにたどり着いたのはあたしより彼が先だった。アルコールにやられていても、彼の脳は錆びついていなかったのだ。
「犯人は獅子場さんにドアを開けてもらいました。一緒にコーヒーを飲んで、隙をついて毒を入れたんでしょうね。獅子場さんは誰が自分を殺したのか、しっかり理解していたはずです」
「じょ……冗談じゃない!」
火蜂は怒り狂う。ズレた眼鏡を直す余裕もないようだ。
「こじつけだ! そんなんで俺が犯人にされてたまるか! そもそも俺にはアリバイがある!」
これで諦めるわけはない、か。少し期待していたが、そんな考えは甘いようだ。
「……アリバイの根拠は、獅子場さんの腕時計でしたね。ですが、あれは偽物ですよ」
「……あ?」
「あなたのアリバイもですが……あの腕時計自体が、偽物です。床に落ちていたんですよ。金のメッキが」
厳密に言えば、荒鮫が遺体を動かしたときに剥がれたものなのだが。
「荒鮫さん、麻貝さん。獅子場さんの腕時計は、偽物ですか?」
「んなわけねぇ!」麻貝が怒声を発する。「若は腕時計にゃあこだわっていた。間違いなく本物で、金だってメッキじゃねぇ!」
「ですが、彼の腕につけられた時計はメッキです。これがなにを意味するのか……?」
荒鮫が苦い顔で火蜂を睨む。
「ワシらはインチキグッズを売っとる。……その応用やな。インチキブランドを買って、遺体に取り付けたんや」
「はい。……あらかじめ、壊しておいて。あたしたちは深夜0時20分に被害者が亡くなったと思っていましたが、実際はもっと早い時間だったはずです」
すべては計算づくだったはずだ。犯行を行う時間も決め、事前に時間を止めた時計を用意する。
時間の偽装。その意図は、アリバイの獲得。
「こんな偽装工作をして得をするのは当然、0時20分にアリバイを持つ人だけ。あなたですよ、火蜂さん!」
「ぐ、ぐ……ぐ……!」
犯人は11時に事務所が閉められてから、すぐに訪れた。被害者に招き入れられ、毒殺する。腕時計をすり替えて、事務所から去った。
本人が主張したとおり、0時20分には、友人と飲みに行っていたはずだ。
まさか被害者がメッセージを残していたとは思わなかったのだろう。
もっとも、リンフォンの知識がなければ、メッセージだと知ることもできなかったのだろうが。
火蜂は歯ぎしりしていた。額に脂汗を流し、あたしを殺意のこもった目で見ている。
「……ふ、ふざけるな。でたらめだ。お、俺が犯人だと? 証拠がないじゃないか! メッセージも偽物の腕時計も、俺が犯人だという証拠にはならない!」
「……調べりゃあ出てくるやろ。お前が犯人ってことは、麻薬の取引をしてる証拠が出てくるはずや」
「……!」
火蜂は完全に青ざめる。
「それだけやない。毒はどこで手に入れたか? ニセモンの腕時計は? 若の腕時計はどこに隠した? ……徹底的にガサ入れさせてもらおうやないか」
その瞬間、火蜂はスーツの内ポケットに手を入れた。素早い動きで、あたしはもちろん、荒鮫や麻貝も反応できなかった。
「黙れ──」
彼を除いて、だが。
「……火蜂さん。動かないでください」
「ず……ズベ……」
蛙辺が前に出る。
右手には銃が握られ、銃口は完璧に火蜂の額を捉えていた。
「その手を、外にお願いします。出てきた手が空であればよし。でもなにか、なにかしらが握られていた場合、引き金を引きます」
火蜂の動きが鈍った隙を狙い、麻貝が銃を取り出した。正面から蛙辺が。真横から麻貝が銃口を向ける。
火蜂は放心し、空の手を、スーツからだらりと落とした。
「ようやったで。……お前の名前、なんや」
「鴉原です……」
「カラスか。覚えとくわ」
ヤクザに覚えられたくない。顔も認識されただろうし、もう手遅れだ。
「この恩は忘れへん。だから、今日はもう帰れや」
ドアに近かった麻貝が、銃を構えたまま錠を開けた。
「今日は……って、火蜂さんは……」
立ち尽くす火蜂を見る。聞かなくても、彼の未来は分かりきっている。法の手が届かない場所で行われた殺人は、法の手が届かない罰で、幕が引かれるだろう。
「オトシマエやな」
「……では、失礼します」
さんざん横暴に酷使され、さっさと帰れというのも頭にくるが、なんでもいいから外に出たかった。
──最後に、この事務所が防音対策をしている理由がよく分かった。
ドアを閉める直前、なにかが弾けるような音がした。しかし、その正体を確かめる気にはならなかった。
「呪い、ねぇ……」
やっぱり、呪いとか、怪異なんてないと、あたしは思っている。
ただ──呪いによって謎が解かれたのも、事実だ。




