鴉原天詩の災難
「──それで息子が出て行っちゃったわけ! 私、あの女は怪しいと思うのよ!」
午前9時。まだ交番に出勤できていない。早く話を切り上げたいのに、おばちゃんは愚痴をやめようとしない。
「きっと息子のお金を狙ってるのよ!」
「いや……そうとも限らないんじゃ……」
「決まってるわ!」
「はぁ……ははは……」
先日の駅での事件、上司が犯人だったこともあり、あたしは県境の田舎から一転、中心部の街中に配属された。
イレギュラーな出来事とはいえ、夢の刑事に近づけた気がしていた。
しかし、少しだけ、暇の多い田舎が恋しくなる。
「鴉原ちゃんも気をつけてね! 結婚するときはちゃんと……」
「だ、大丈夫ですよ。まだそーゆー願望とか、ないっすから……」
鴉原、と名前を教えたのは失敗だった。おばちゃんとの距離が近くなってしまった。
「それでね、この辺、治安悪いじゃない? 私1人だとどうも不安でねぇ」
「……え。治安悪いんですか?」
まだ日が浅いのだが、そんなことは聞かされていない。
「悪いわよぉー! いい? なんていったってすぐそこのビル……」
ビルと呼ぶには背が低い、雑居ビルがある。
「あそこですか?」
「そう! なんとあそこの2階──」
あたしがそこに目を向けたとき、おばちゃんの言葉を待たずして、治安が悪いと呼ばれる原因が姿を現した。
2階にある部屋のドアが勢いよく開かれた。
「おいゴラァ! そこの女ァ!」
「ひっ」
出て来たのは巨漢の男だった。猛々しい体を、スーツの中に窮屈そうに収めている。体格に相応しい、いかつい顔をこちらに向け、怒鳴り散らしているではないか。
「お前、ポリやな!? ちょっとこっち来んかい! 急げや! 大事件やぁ!」
関西弁でがなり立てられ、身がすくむ。振り返れば、危機を察知したおばちゃんが姿を消していた。
「え、えっと、事件なら報告を……」
「すんな! ええから来いや! 人が死んでんねんぞ!」
「死っ……」
だったら、なおさら1人で対応するのは間違っている……が、有無を言わさぬ雰囲気に押される。
あたしはビルの階段を登り、男の後を追うのだった。
その結果、とんでもない事態になるとも知らずに……。
***
部屋に入った途端、悪寒が走った。見えない手で背中をなぞられたような感覚だ。
「こっちや! この部屋を見い!」
ドアが開け放たれ、視界に飛び込んできたのは、床に突っ伏した男と、それを取り囲む3人の男たちだ。
男の1人が、こっちを鋭く睨み付け、唾を飛ばして怒鳴る。
「オラァ荒鮫ェ! なに呼んでんだァ!?」
あたしを呼びつけた大男は荒鮫というらしい。
「ワシらだけじゃあ頭が足りんやろが! せやから刑事に来てもろたほうが手っ取り早い思うたんや!」
「え……」
あたし、刑事じゃなくて、交番勤務の巡査なんですけど……と、言ったが最後。いや、最期になるかもしれない。
神棚が目に入る。妙に高そうな壺、壁にかけられた刀。この部屋は、少なくともカタギの事務所ではない。
「……とはいえ、どうする。事が済んだらその女、上に報告するだろう? 厄介なことになる」
男の1人、眼鏡の男が、見た目に違わない冷静な口調で言った。
「口止めしときゃあええ。見たところまだまだ新米やろ。命は惜しいはずや」
「……それもそうだが」
「って、え? 命……」
男たちの風貌、雰囲気、そしてこの場所の冷たい空気感。彼らが何者なのか。薄々、察しはついている。
「えっと、あの。あなた方はいったい……」
「なんや。知らんのかい」
「すんません……」
荒鮫は牙を剥くように、顔面に力を込めた。
「ワシらは天巌組。ここはその事務所。そして倒れてるのは、若頭の獅子場さんや!」
最悪だ。
天巌組は暴力団、つまりヤクザだ。異動してきたばかりのあたしでも、注意事項として名前は聞かされている。
しかし、事務所がこんな場所にあるなんて聞いてない!
床に倒れ伏している男、若頭が亡くなっているというのは、ヤクザにとって非常事態だ。そんな場面に、あたしが介入するのは場違いだ。
「話の流れで分かるやろうが……ちょっくら知恵、貸してもらおか。若の命、奪ったやつを、見つけてもらいたい」荒鮫が言う。
「誰にも連絡すんじゃねぇぞォ!?」声の大きい男が凄む。
「……もし密告すれば、分かっているだろうな……?」眼鏡の男が淡々と脅す。
──あたしはただ、刑事になって犯人を捕まえたい。なんなら銃を撃ちたい。ただそれだけだったのに。
どうして命を賭けた犯人探しなんかに巻き込まれてしまったのだろうか?
テイストの違う番外編の始まり。(ちょい短めの章)




