10年前の事件
あの朝は、とにかく混沌としていた。
僕は前夜の恐怖が頭から抜けていなかったし、風邪も治っていなかった。だから人々が騒いでいても気にしていられなかった。
ちょうど、ぼんやりと考えていたはずだ。
昨日の女は、楢庭美夏に似ていたな、と。
美夏は17歳で、当時の僕より7つも上だった。
年寄りばかりの村で、子どもは珍しい。だから、彼女とはよく遊んだ。
事件の数日前、彼女は脚を折った。崖から落ちて、膝の骨はヒビが入っていたらしい。ギプスを着けて松葉杖をついていた。
──後に、そのせいだと言われている。
森の中で、美夏は頭を打って死んでいた。
僕は直接見ていないため、伝聞でしかないが、後頭部の強打が死因らしい。
あの日は雨が降っていて滑りやすかった。ましてや、森は滑りやすい木の根や苔むした岩があって、足場は最悪だ。
事件性のない、不幸な事故として美夏の死は結論づけられた。
しかし、疑問点も残っていた。
なぜ、森の中にいたのか。
脚が悪いのだから、足場が悪い森なんかに彼女が行くはずもない。
さらに、死亡推定時刻から、事故があったのは祭りがあった夜頃とされている。
祭りが催されていた場所は村の北にある、山麓の神社だ。山の神の眼下に位置しているのだ、と言い伝えられている。
それなのに遺体が発見された場所は、神社とはほぼ正反対の、南に位置する森だ。
なぜ、祭りの最中に反対まで行ったのか。答えを出せる者はいなかった。
仲が良い彼女が死んだことはショックだったが、僕は遺体も見てないため、現実感がまるで沸かなかった。
棺の中で眠る彼女を見るまでは。
***
母親は5年ぶりに僕を見ても、特に表情を変えたりしなかった。一言だけ「あら」とは言った。
夫が死んだことと、息子の帰省では、釣り合いは取れていないのかもしれない。
「ただいま」
「おかえり。いつまでいる予定?」
「明日には」
「……そう」
どういった感情がこもっているのか、僕には推し量れない。
母親の髪は、もうすっかり白髪でいっぱいだ。背中も前より曲がったと思う。たった5年で、人は悲しくも変わってしまうものだ。
すると、母親は眉と声を潜めて僕に言った。
「……樫居くんから聞いた?」
「なにを?」
「松矢田のおじさん、危ないのよ」
「なっ……は? 危ない……って……」
「先週、急に倒れてね。……お医者さん、もう……永くないって」
父親の訃報より強い衝撃が、身を襲った。
「あんたも、後で見舞いに行きなよ」
「あ、ああ……」
動揺を隠せず、アホ面で頷くことしかできない。
樫居が浮かない顔をしていたのはこれが原因か。
それにしても、とんでもないタイミングだ。父の死から1週間も経たないうちに、もう1人の死期が近づいているとは。
「……あ、ところで……」
母は、なんとも言えない微妙な表情になる。
「なんだよ……」
「あの子は……誰?」
あの子。もちろん、九木だ。
ついさっきも、同じようなことを訊かれた。まあ、訊かない方がおかしいのかもしれない。
「まさか、あんたのかの──」
「違う」
「じゃあ、なに」
「知らん」
まったく同じ回答をする。
「怖……」
怪訝な顔つきで母は去っていった。
もしかすると、村にいる間、ずっとこの質問をされるかもしれない。
「ね、松矢田って?」
「うおっ!?」
いつの間にか、九木が背後に立っていた。
「人の名前?」
「あ……ああ」
「ふーん。なんか、大事な人っぽいね」
「元、村会議員。それと、この辺一帯の地域で、ご意見番というか、リーダーというか……」
「子どもの君を可愛がってくれた人だね」
「……なんで分かる」
「君の様子。後は、勘!」
常夏のような人、というのがみんなからの評価だ。能天気で、祭りのときは率先して盛り上げる。
しかし決めるときはきちっとする。村の困りごとや細々したことは、彼の妻とともに、解決してきた。
僕の父親代わりとも呼べる。
「へー」
「……興味ないなら訊くなよ」
「ないこともないよ?」
「ほとんどないやつの物言いだろそれ」
「それはそうとして、君とお父さん、そんなに合わないの?」
「……父は、僕が言うことを、とにかく否定する人だったからな」
子どもの僕は、父親というのはたいていこういう人種なのかと勘違いしていた。都会に出て、いろんな人間と関わっていくうちに、彼は思考が凝り固まって時代遅れになった人間なのだ、と考えを改めた。
それが分かっただけでも、都会に出てきた甲斐があったのだろう。
「へーそーなんだねー」
「……興味ないんだから、いちいち訊くな!」
***
おじさん、松矢田辻雄は質素な部屋に寝かされていた。畳に、薄い布団。酷く寂しい。
「星ちゃん、久しぶりねぇ」
「おばさん」
おじさんの妻、松矢田紗代だ。
おじさん同様に、僕に優しく接してくれた人だ。
「なんていうか、その……」
「ま、少し前からガタが来てたからねえ。覚悟はしてたさ」
おばさんはシワだらけの顔に、さらにシワを作った。微笑んでいるようにも、泣きそうなようにも見える。
「この村も、終わりかもねぇ」
「終わり……」
限界集落、というやつか。
「知ってるだろうけど、祭りももう数年前からやらなくなった。人も減ったしね」
「え、祭り、やらなくなったんですか」
「ああ、知らなかったかい」
それって、いいのか。山の神とか、怒らないのか。
「せっかくだから、昔の祭りのビデオとか見るかい?」
「ビデオ?」
ビデオとは、ずいぶん過去の言葉だ。
僕の返答も待たず、おばさんは家の奥に行ってしまった。数分間、僕はおじさんの寝顔を見ながら待った。
「はい、どう?」
時代に取り残されたビデオテープは、僕に懐古のため息を吐かせる。
「おばさんは、祭りの記録を残していたの?」
「ああ。カメラ構えてんのが好きでさ」
「……10年前の祭りの映像もある?」
「見たいのかい?」
美夏が死んだのも、背の高い女を見たのも、10年前の祭りの日だ。
当時の記録があれば、なにか少しでも分かることがあるかもしれない。
「はい。これだよ。別に返さなくてもいいよ」
「返しますよ。いらないし」
本来なら、こんなことに興味は抱かない。今日だって親への義理を済ませたら、後は適当に過ごして帰るつもりだった。
変なことに首を突っ込んでしまった。あの女のせいだ。
そのとき、おじさんがうわ言のように呟いた。
「……して……くれ……」
僕は嫌な予感を抱きつつ、訊ねた。
「……なんか、してほしいのか?」
しかし、おじさんの返答はなく、眠っているのか起きているのか、判然としない状態になってしまった。
やがて僕は、お役御免とばかりに、松矢田家を後にするのだった。