鬼灯星太郎の日常
あの寂びた村から逃げ出して、僕は成長できただろうか?
高校に入学して、日々の授業とイベントをこなす。
周りから浮かないように、自我を出し過ぎないように。しかし押し殺し過ぎて見失わないように。
卒業するまで、ただのクラスメイトAでいるのは、そんなに難しいことじゃなかった。
そして大学に入学する。
高望みしないで、自分のレベルにあった学校を選んだ。挫折も後悔もしないために。
いつか社会に出るのだろう。やりたくないことをやって、面倒な人付き合いをして、上司に頭を下げる。
それでも僕は自我を出し過ぎず、かといって押し殺し過ぎないように努めて。
ああ。
──いつまで続くのだろう。
まるで聴き飽きたアルバムをずっとリピート再生しているようだ。思い出したかのように別の曲を聴き始めても、きっといつか飽きてしまう。
「もうたくさんだ」と口に出しても、結局は受け入れる。
僕の人生なんてそんなものだ。
これまでも、きっと、この先も──。
***
ワイヤレスイヤホンから流れる音は、少しでも音漏れさせたくないから、とても小さい。そんな小さな音でも曲の細部まで分かる。
「星太郎くーん」
ノイズだ。
それは耳とイヤホンの間に入り込む風のようだった。誰かが、すきま風みたいな声で僕を呼んでいる。
僕を名前で呼ぶ奴なんて、この大学では一人しかいない。ただ驚いたのは、彼女を大学構内で見たことがなかったから、本当に存在したのか、ということだった。
「……実在したのか」思ったことをそのまま口に出した。
「へ?」
「なんでもない」
こうしてみると、九木は割と普通の女子大学生に見える。場所が関係しているのだろうか。日常の景色に、彼女は当たり前のように佇んでいた。
「なんの用だよ」
九木は周囲の様子を窺いながら言う。
「あのね……ついに、ついに掴んだんだ」
「……なにを」先を促して欲しそうな態度が鼻につく。
「怪異!」
「だろうな……はぁ……」
「違う! 今回はマジっぽいの! 今までのと違って、本物の怪異の噂!」
「噂って時点でな」
鼻で笑ってやっても、九木には通用しない。
「近畿の田舎町に出たんだよ。『くねくね』が!」
くねくねってなんだよ。
そんな質問をすれば、相手の思うつぼだ。僕は黙っていた。
「お馴染み怪異サークルの人がね」
「勝手に馴染ませるな」
「民俗学を専攻してるらしいんだ。
それで、『今、その伝承と直面しているかもしれない!』って興奮してて。来てもいいって言ってくれたんだ」
「僕は関係ないだろ……」
「ね、一緒に行こうよ!」
「お前が怪異に殺されるのを見に来いって?」
「そう」
「ふざけんな。却下だ」
初めて出会って、九木の思想を聞いて、数ヶ月が経った。相変わらず、イカレた夢を持ち続けている。
イカレ女は、僕の拒絶が聞こえなかったようで、きょとんとしている。
「却・下、だ」
「え? オーケー?」
「耳、削ぎ落とすぞ」
「耳なし芳一じゃないんだから」
ふと気づけば、イヤホンから音は流れなくなっていた。設定を変え忘れていたのか、アルバムはリピートすることなく、終わりを迎えていた。
ノイズが、繰り返しを破壊した。
***
「A」は、彼の兄と、祖父母の家がある田舎に遊びに行っていた。遊びに行くと言っても、田園が広がる地でできることは少ない。Aの兄は家の窓から外を眺めていた。
遠くに白い服を着た人のような、なにかがいた。Aも、彼の兄もそれを見つけた。
やがて白いそれは、人間とは思えない動きで踊り出した。くねくねと、奇妙な動きだ。
Aが兄に、あれはなんなのかと訊ねたとき、突然兄の様子が変わった。
「分からない方がいい」
そう言ったきり、兄は気が狂ったようになってしまった。
そして、その白の正体は、未だに不明である。
***
「これまた例によってバリエーションがあるんだけど、田舎に白い人のようなものがいて、くねくね踊るように動いている。そしてはっきりと視認してしまった人は正気を失う。これらは共通してるんだ」
九木の解説を聞いて、嫌な予感がわずかに芽生える。
「これから向かうところに……その、くねくねの被害に遭った人がいる……とかじゃないだろうな?」
御名答、とでも言いたげに微笑まれる。
「どうやら、くねくねを目撃して、行方不明になった人がいるみたい」
「……嘘だろ」
今度こそ怪異が現れますようにと、九木は期待に胸を膨らませているらしい。
しかし僕にはそう思えず、漂うきな臭さに、頭を抱えるしかなかった。




