嘘の終わり
手錠をかけられた日鷺は、ほんの数分前までの態度とは裏腹に、すっかり老け込んだように大人しくなった。静かに俯き、パトカーに向かう。
「……俺は」
その声の小ささと低さは、まるで呪詛を唱えているかのように感じられた。
「30年近く……この仕事をしてきた……」
「……警部」雀森が顔をしかめている。
「その最後が……これか……?」
九木はすべてを語り終え、ベンチで休んでいる。直前まで、演劇の主役のように視線を集め、彼の犯行を暴いたというのに。今ではもう、ただの一般人然としている。
「あいつ……あいつが……クソっ!」
周りの警官が、少し躊躇いながらも抑えようとする。
「あんな暗い道で! 歩きスマホなんて……! ……だが……どうしろっていうんだ! 俺は……俺はただ……」
それから日鷺は嗚咽を発して、なにも語らなくなった。
ここは終点だ。
数十年間、正義を掲げていた男の、終着駅だった。
九木はほんの少し、日鷺を見た。けれどすぐ視線を戻して目を閉じた。
怪異でもない人殺しに対し、興味を失ってしまったようにも見える。
だが、もしかしたら、と思い直す。
──怒っているのだろうか。
たとえ不運だとしても、罪から逃れようとした人間に。最後まで不運を呪い、言い訳を並べる彼に。
彼女の眼光は、青白く光る氷のようだった。
***
まったく災難だ。
駅は使えない。どこかでバスに乗らなくてはならない。バス停を目指して、僕たちは歩き続けていた。
どうしてこんな目に遭わなければならないんだ。やっぱり取り憑かれているのか?
「へー。取り憑かれたの? 羨ましいなぁ」
九木の声は平坦で、神経を逆なでさせるにはうってつけだった。
「ふざけんな」
「この調子で怪異も呼んでね?」
「……なんで」
と、僕は訊ねようとしてしまった。
怪異に殺されたがる理由を。
「んー?」
「いや……なんでもない……」
やめた。
推理においては頼れるが、変わらずおかしな女だ。そんなやつの心情など、聞いても理解できない。
「……自分は死にたいとか思ってる割には、人殺しに腹を立てるんだな」
九木は驚きながら言う。
「人殺しは誰だって嫌でしょ? 当たり前の心理だよ。わたしが死のうとしてようが、してなかろうがね」
「……それはそうだな。悪い」
ときどき、九木が人間と同じ道徳を心得ていることを忘れる。流石に酷いだろうか?
「……そりゃさ。鳩中さんだって悪いし。日鷺さんも不運だったよ。だけどさ──人の命を奪ったら、償わないと。それだけのことだよ」
「ああ……」
「神様は……不平等だから」
「え?」
「せめて、わたしたちが、物事を正しく見ないといけないんだよ」
それから「なんちゃって」と、照れながら笑った。誤魔化しているが、まるで実感がこもったような言い方だった。
心の内に、なにを秘めているのだろうか。暴こうとすれば、なにが溢れ出るのだろうか。
聞いても理解できない?
いや、少し訂正しよう。
得体のしれない心を開くのが怖いから、僕は訊ねないのだ。
「おい……九木──」
「──ちょ、ちょ、ちょっと待てぇー!」
「……あ?」
僕の声を遮るまた別の声。車の音とともに届いてきたのは、デジャヴの感覚だ。
「おー。鴉原さん! あと鵜ノ井さんも!」
「……まだなにか用かよ」
鴉原は助手席の窓から身を乗り出している。運転席の鵜ノ井は、初対面のときと同じように、とてもげんなりとした顔だ。
「や……なんか、礼とかした方がいいかなって……」
「お礼? 別にいいのに」
「いやいや! あんたたちが真相を暴かなかったら、きっと自殺扱いになってたし……」
「いらないって。それに、なにか貰ったら思い出しちゃうよ。忘れたいのに」
「え……ほ、本当にお礼いらないの?」
「うん。いらない」
鴉原は安堵の息を吐く。
「あーっ良かった! お礼とか面倒だから、したくなかったんだよねー」
「……」
「あースッキリした!」
この不良警官、いつか逮捕される側になるんじゃないだろうか。ムカつくし、なんか酷い目に遭ってほしい。
「そんじゃね、あんたら、気を付けて帰りなよー!」
そう言って、鴉原は助手席の窓を閉める。
「あ、待って!」九木が引き止める。
「んあ?」
「鴉原さん、下の名前は?」
「……別にもう会わないだろうし、聞く?」
「わたしは……なんか、また会う気がする」
根拠のない世迷い言だ。ついさっきまで、根拠を探し、論理的に推理していた人間と同じには思えない。
「……天詩。鴉原天詩」
「エンジェルさんってこと?」
「うわ! ガキの頃からそう呼ばれてた! 最悪!」
「天詩さんもまだガキじゃない? いくつ?」
「23……ってか、おい。なに名前呼びになってんの」
「まあまあ。じゃ、またね。天詩さん」
「……馴れ馴れしい!」
その割には、満更でもなさそうだが?
パトカーが見えなくなって、取り残された僕たちはぽつぽつと喋りだす。
「……それにしても、今回も外れだったね」
「怪異のことか?」
「うん。次こそは本物に当たるといいね」
「……次って?」
九木は不気味に微笑む。
「また、探しに行こうね、星太郎くん!」
「貸し借りの話はどうなったんだよ……?」
「ケチ臭いこと言わないでよー」
二度とごめんだと、地平線まで届くくらいの大声で言いたい気分だった。
しかし──言うまでもないことかもしれないが──結果として。
僕らは再び、怪異を探しに行くことになる。
秋、田畑の作物を収穫する時期。
白い影。




