九木狐十子
僕は今もまだ、10年前のことを忘れられずにいる。
当時の僕は小学生で、東北の田舎に住んでいた。
山の麓にある村で、背の高い木々に囲まれていた。木造建築がまばらに建ち、コンビニなんて便利なものはない。夜には田んぼに棲むカエルと、草陰のオケラの鳴き声が響く。
毎年3月には神社で、山の神のために祭りが催された。参道には屋台が並び、遠くからも人が訪れ、寂しい村は活気づくのだった。
僕が10歳のとき、祭りの日は雨が降っていた。小雨だったため決行されたのだが、僕は不運にも風邪を引いていた。
家の縁側で祭りの喧騒に聞き入り、鼻をすすりながら座っていた。祭りはそれなりに楽しみだったし、家には誰もいなくて寂しい。風邪を引いた自分を酷く呪っていた。
──そんなときだ。
視界の端に動くものがあった。
石塀の上に、女の頭がふらふら動いていたのだ。
背の高い女が塀の向こうにいる。
野生の動物が跳んで侵入してこないように、家の塀は高く、2mくらいはあった。だから目を疑った。
女は麦わら帽子を目深に被っている。そこから伸びる髪の毛は、禍々しいほど黒く、妖しく見えた。
──あれは、人ではない。
女の頭は塀の向こうをゆっくり横切って、視界から消えていった。
最初、熱と眠気が見せた幻だと思った。
だが徐々に、恐ろしくなる。揺れる女の頭が、鮮烈に脳に刻み込まれた。
急いで布団に潜り込み、遠くの祭りの音を救いの声のように頼って、眠りに落ちるのを待った。
──翌朝、僕は誰かに相談しようとした。
しかし、しばらくの間、誰にも相談できない日々が続いた。
それは何故か?
あの事件が起きて、それどころではなくなったからだ。
***
いつも決まった駅で降り、決まった道を通って大学に向かう。退屈なルーティンが、今日は違った。
故郷に帰るのは何年ぶりだろう。高校生になったとき都会に出てきて、それから帰ってないから、5年ぶりぐらいか。
あのド田舎を想うたびに、例の記憶も呼び起こされる。
祭りの夜、塀の向こうにいた、背の高い女。
そして、あの事件……。
電車の車窓は、日常を遠くに追いやっていく。
ふいに、向かいに座る女性と目があった。
僕と同い年くらいに見える。
長い髪は日に照らされて美しく、一方で夜闇のように真っ黒だ。
あの女と、少し面影がある。
「……ねえ」
話しかけてきた。
僕たちがいる車両は、他に誰もいなかった。迷惑な独り言でなければ、相手は僕だろう。
「聞いてる?」
彼女は返答を待たずに続けてきた。
「……なに」
「サボりは駄目だよ」
「……」
僕は確かに学生だし、大学最寄りの駅は通り過ぎた。
「……なんでサボりだって思うんだ? そんな確信を持って」
「2駅前、たくさんの大学生が降りた。あなたはそれを、微妙な顔で眺めてた。なんていうのかな。後悔……って感じの表情」
「……人の顔、じろじろ見んなよ」
「それに、君が持ってる大きめのリュックは見た感じ、満杯ギリギリ。通学中とは思えない」
それだけで? と思うが、間違ってない。だが、正確でもない。
「……サボりじゃない。帰省だよ」
僕は渋々ながら答えた。
「こんな時期に……誰か、なにかあった?」
「父親が亡くなった」
「それは、ご愁傷さま」
図々しく聞きやがって。
素直に答えていれば黙るだろうと考えたが、彼女は黙らない。
「帰省って、どこに?」
「……東北」
「へぇ。いいね。これから新幹線に乗る感じ?」
「……そう」
「実家、田舎だったりする?」
「……」
「ねーねー」
「──なぁ……!」
堪忍袋の緒が切れた。僕は生来、短気な方だ。
「なんなんだあんたは? 関係ないだろ、静かにしてくれ!」
彼女は不思議そうな顔をする。いや、どうしてそっちが不思議がるんだ。
よく見れば、下睫毛が長く、涙袋が目立っている。話さないままであれば、美人という印象を受けて終わっただろう。
話してしまったから、美人よりも変人だという印象が残ってしまったのだが。
「せっかくだし教えてよ。今日の朝の占い、『新たな出会いがあるでしょう』だったんだよ」
「知らん。僕以外と出会え」
「教えてくれたら黙るから!」
「田舎だよ、ド田舎! これで満足か!?」
僕は怒りとともに言葉を吐き出した。
「じゃあ、怪異とかいる?」
「……は?」
黙ってないじゃないか。
そう言うのも忘れて僕は固まった。
脳裏に浮かぶのは、やはりあの女のことだ。
「あ……その感じ、あるんだ?」
変人はニタニタと気味の悪い笑みを浮かべる。
「怪異だって?」
「幽霊、妖怪、神様……田舎には伝承がつきものでしょ? わたしは、そういうの探してるの」
馬鹿げている。
彼女は僕をからかっている。そっちの方が、まだマシだ。
初対面で、怪異だなんだと言い出すやつがいるなんて、信じられない。しかし、すると今度は、初対面で薄気味悪い質問をする人間がこの世にいることになる。それも信じられない。信じたくない。
「……おい。なんなんだよお前……」
「わたしは九木狐十子。『こ』が4つもあるの。凄いでしょ?」
「別に凄くない」
「君の名前は?」
「……鬼灯。
鬼灯……星太郎」
名乗った瞬間、なにか取り返しのつかない一線を越えたような気がした。
「ねえ星太郎くん。教えて?
あなたは故郷で、なにを見た? それとも聞いた?」
常識的に考えれば、ここで会話を打ち切って、とっとと車両を移動するべきだろう。
しかし僕は、これからこの女、九木にすべてを話すことになる。
素直に語った方が面倒にならない。そう思ったのもある。
だが一番は、なにか分かるかもしれないと期待したからだ。
──あの女と、翌朝に現れた、あの子の死体の謎。