36.生暖かい絆
割れた砂時計から粒が溢れるように、記憶がするすると落ちていく。とうに自分が何者なのかわからなくなっている。
けれど砂粒を拾う気にはなれなかった。
虚無感がしこりのように臓内で滞留しているのだ。それが悪腫なのか、わざわざ調べてやる必要はない。
失った記憶はかけがえのないもので、取り返しのつかないもので。そんなものは忘れてしまった方が幸せだ。
「それに、あんたもおるし」
【損壊が記憶だけで済んだのは幸運だったのだろう。ワシのことも忘れてしまったのか?】
「うん、あんたとの思い出はなにも残っちゃいない。けれど、おれにはあんたが必要だってことならわかるよ。血で繋がっとるから」
あなたは血を呪いと表現するけれど。おれはこの絆を祝福だと思った。やけに暖かいのだ。
【そうかそうか。ところでワシは『あんた』という名前ではないさね】
意地悪に微笑む。
「おれはもう、あんただけでいいって思っとるよ。他には何もいらない。二人だけの世界で、名前なんて必要か?」
【アダムとイブに名は必要だったのか。彼らは互いをどう呼びあっていたのか。興味深い。実用性という観点においては、名前はあまり意味をなさないだろう。だが、ここはあえて、生石に名前を呼んで欲しいからと答えておくさね】
「……キナ」
べつに覚えていたわけではない。ジト目でみつめてくる彼女を眺めていたら、自然とその名が口についたのだ。
刹那、キナの思念が荒波のように押し寄せてきた。
眼窩に広がるは風に揺れる金色の麦畑、それはキナの心象風景だ。夕焼け。海岸が燃えている。
【ワシの過去を知りたいか?】
「んー、なんとも。キナは今、おれとおるやん」
【キキ。答えになっておらんわ】
おれが以前を思い出すつもりがないのと同じで、彼女も過去を語るつもりはないようだ。なら、詮索するだけ野暮ってものだ。
あなたがおれを選んでくれた。その事実だけを大切にすればいい。
目が覚めたとき、小人が女の肉を食っていた。気持ち悪いと言ったけれど、それは醜い小人のツラを見て抱いた感想であり。凄惨な食事の風景に対しては、これといった感慨を抱かなかった。
つまり、記憶を失う前のおれは死が当たり前の環境ですごしていたということだ。
【不安か?】
「そうでも。なぜだか力の使い方がわかるんや。むしろ早く戦いたくてウズウズしとる」
目が覚めた時から、ずっと何かにイラついている。
早くこの鬱憤を晴らしたい。
【次の世界へ進む覚悟はできたか?】
「キナと一緒なら、どんな地獄でもへっちゃらや」
目の前に出現したコマンド。
『クリア条件が満たされました。次の世界へ進みますか?』
この画面を見ていると、なぜだか懐かしい気持ちになる。むかし、誰かと同じようなゲームで遊んだような……。
「ポチっとな」
【軽っ!】
期待に胸を躍らせ、歩を進める。しかし、次の世界も、そのまた次の世界も。生きている者は誰一人としていなかった。
男は首を断ちきられて死んでいた。
女は腹を食い破られて死んでいた。
血溜まりが大海に思えた。
すべて『コノコ』と呼ばれる荒神の仕業だそうだ。
大地には大穴が空き、底を見通すことができない。
コノコは各階層を貫いたのだ。世界の法則は複雑怪奇に混じり合い、混沌が形成された。
空間は歪み、太陽がいくつも浮かんでいる。重力が狂い、瓦礫が無数に宙で渦巻いている。
「すげぇ……」
だが異様なのは、吹き上がるこのオーラだ。
禍々しい気配で咽せそうになる。見ずともわかるのだ、最下層に奴はいる。
【生石、お前はすでに宿命から解き放たれたさね。わざわざ死にに行くようなことをせずとも……】
「責任とか、天命とか、そんなもんがないからこそ、おれは衝動に従うよ」
記憶を無くし、過去を失ったおれに残された唯一の願望。それはあくなき闘争心だ。
「なんでかな、あいつと戦わなきゃいけない気がする」
【相手は神々を取り込んだ弩級の呪いさね。策はあるのか?】
「そんな大それたもんとちゃう。おれはただ、無意味に殺されちまった人たちを——」
キナは血を呪いと表現するけれど。おれはこの絆を、祝福だと思った。やけに暖かいのだ。
「《《一滴》》も無駄にしたくないだけや」




