1.キスしたげるから父を殺して
「キスしたげるから、父を殺して」
狐塚コンコさんは突然そんなことを言った。
よくあることだ。
学校帰り。夕暮れどき。空は母が汚した便器のように赤く爛れている。掃除をするのはいつもおれの役割、この原色が嫌いだ。
「生石くん。あなた、私のこと好きだよね」
図星だった。おれはコンコさんのことが好きでたまらない。
治安の悪い公団、築半世紀以上たつ潰れかけ県営住宅。
コンコさんはおれと同じ棟に住む四つ上の女子高生だ。
階段の踊り場で彼女は腰掛けていた。しわくちゃなセーラー服はやぶれ、ほつれ、血が散っている。襲われたことは火を見るよりも明らかだった。
「仕方ない。だって私、かわいいもん」
自賛が鼻につかない程度には、彼女の容姿は整っていた。
入念に手入れされたショートボブの髪はツヤツヤで、今は雑に乱されている。
病的に白い肌はきめ細かく、今はくまなくあざだらけ。
切れ長のひとみは鋭く、見るものを釘付けにするも、今は凸凹に腫れ上がっていた。
「今はそんなでもないか」
おれの住む3階の部屋からでも、彼女の叫び声はときおり聞こえてきた。狐塚の親父さんがDVを行っているのはもっぱら有名だが、誰も止めようとしない。ここはそういう場所だ。
日銭もろくに稼げないような、脛に傷のある低所得者たちが寄り合う公団。他者の事情に深く踏み入ることはなく。だからだろう、雰囲気は陰鬱としていて、空気が澱んで重かった。
そんな中であってもコンコさんは笑みを絶やすことなく、毎日を謳歌していた。
不幸のどん底にあるくせ、『私は大丈夫』と強かに咲くその姿勢に、感銘を受けもした。
まるで命を使い潰すような破滅的な生き方に憧れて、おれは彼女を好きになったのだ。
きっと、父を殺したあとのことなんて何一つ考えていない。どうにかなるって無責任に盲信している。破滅的で楽観主義の厭世家。
生粋のろくでなし。
「中学生からしたらJ Kは刺激的だったかなぁ〜。よくかまってあげたもんね。嬉しくなっちゃったんだ?」
「そういうことにしとこか」
「あはは、趣味わりーな」
「うっせ」
だがどうしてだろう。今日の彼女はいつにも増して危うく見えた。ギリギリのところで人間性を保っているような。吹けば崩れる砂城の笑みだ。
「なんかあった?」
「妊娠してた。もちろん相手は父。そのことを伝えたら、みてみて! 半殺しにされたんだ!」
驚きはない。こんなの、本当によくあることなんだ。
「どうにか反撃して、逃げてきたの。あの人はもうダメだよ、私のことを人間としてみていない。でも他に行くアテなんてないし。弱っている今が最後のチャンスなんだ」
だから生石くん、私のことが好きならば——。
「父を殺して」
おれは何も言わず家に入る。玄関先に置いてある金属バットを手に取る。
階段を登る。一瞥もくれることなくコンコさんの横を通り過ぎる。
「かっくいい」
倫理的観点などあろうものか。そんなのを育む余裕などおれたちの人生に無かった。
今はただ純な殺意に従おう。
好きな人を傷つけた。十分じゃないか。
錆びた重い鉄扉に鍵はかかっていない。中にはいると血まみれの親父さんが倒れ伏していた。頭から酷い出血だ。そばでガラス製の灰皿が砕けていた。
「やぁ生石くん。すまないね、お茶の一つも出してやれない」
親父さんは一見知性的だ。とてもではないが、娘を虐待し、孕ませるような奴には見えない。皆そう言い聞かせて、見て見ぬ振りをし続ける。
ニュースでよく聞くだろ。
『そんな人には見えなかった』
なのでコンコさんのような悲劇がまかり通る。
誰かが正さなければならない。
なら、その罪はおれの役割だ。
「今からあんた殺すけど、化けて出たりすんなや」
「あはは、僕の運命もここまでということか。おおむね、娘に絆されでもしたのだろう。気をつけたまえよ、アレの正体は魔性だ。関われば破滅がまっている」
何を言っても無駄だよ。あんたは息をするだけでおれの大切を傷つける。
「最期の言葉がそれになるけれど、かまへん?」
「大丈夫、僕は大人だ。子供の手を汚させたりはしない」
言うと親父さんは包丁を取り出した。思わず身構える。
「君が殺したことにすればいい。せいぜいよろしくやってろ、クソガキ共」
そのまま首を掻っ切った。ためらいは見られなかった。血が噴き出る。脈打つたびにどばどば溢れる。
次第に勢いが弱まると、親父さんは小刻みに痙攣し、静かになった。
目が離せなかった。壮絶だった。そんでもって——。
「あっけな」
えらく簡単に生を諦める。
包丁を隠し持っていたし、初めからコンコさんと心中するつもりだったのかな。
「胸糞悪いな」
無視をすればいい、自分に訴えかける。
いまさら普通のフリをするな。
お前が殺したわけじゃない。罪悪感なんて抱くな。
なぜこんな気持ちになる?
しばらくして、少し分かった。
「知っとるわ。コンコさんが全部悪いことくらい」
あんただって被害者なんだろ、おれと同じく。
似た境遇のこの人に、同情してしまったのだ。
彼女を好きになった時点で終わっている。
チャチャチャ。
音を立てて、血溜まりの上に立つ。バットを握る。振りかぶる。
親父さんの頭を割る。最悪の感触だ。ほとほと理解させられる。おれも同様に掃き溜めのクソだと。
「ありがとう。大好き」
血まみれのバットを見て、彼女はニッと笑った。
階段を降りるくらい軽やかに。
おれ達は人の道を踏み外した。
今はただ、ここではないどこかに逃げ出したかった。
読んでくれてありがとうございます。人を選ぶ作品かと思いますが、選ばれて欲しいものですね。