私を忘れないで
ゆれる馬車に身をゆだねる。気を抜くと眠ってしまいそうなほどの長い道を進んできた。移り変わる景色を眺めながら、七年前のあの日を思い出す。村の人たちは一人残らず集まって、皆総出で見送ってくれた。私は誇らしかった。たくさんの人々と別れの挨拶を交わし、友人たちの前では涙をこらえた。そう、誇らしかったけれど、たまらなく辛くもあった。特に、あの子を置いて行かなければならないのが心配でしかたがなかった。
……彼は、どうしているだろう。私の後をいつもついて周っていたあの子も、もう今では十九歳だ。久しぶりの再会を喜んでくれるだろうか。それとも、今の私を見て彼は嫌な顔をするかもしれない。
段々と見覚えのある街並みが見えてきた。馬車が出るのはこの街の終わりまでだ。あとは歩いて行かなければならない。私は、重いスカートを持ち上げて一人で馬車から降り、鞄を持ち直すと、ここまで馬車を運んでくれた御者の青年に、いくらかの銀貨を握らせた。
人々の視線が集まるのがよく分かる。できる限り目立たない服を選んできたつもりだったが、やはり上質過ぎて浮いており、そして七年間という決して短いとはいえない年月で身に付いてしまった身のこなしは、この場所では違和感しか生まないのだった。
御者の彼に別れを告げると、私は街の人々の視線と噂話をひしひしと感じながらも、ただ歩き続けた。やがて懐かしい匂いが私の花をくすぐる。花の匂いだ。私が生まれ育った村は、なにもなかった。そう、美しいドレスも宝石も、煌びやかなパーティーも、私が昨日まで毎日のように囲まれていたものたちは、何一つなかった。だけど、花はあった。一歩足を踏み入れれば一面が花に囲まれていた。ただ静寂が広がっている。気を抜いたら涙がこぼれそうだ。
ああ、懐かしい。私はこの静寂が好きだ。……だけど、何かが足りない。きっと、一生、この穴がふさぐことは永遠にない。並んで植えられた花を見つめる。かつてこの花を見ていた時、私は子供だった。何も知らなかった。何もかも、世界は私のものだと本気で信じていた。だけど、違う。今となっては苦しいくらいに知っている。私は取るに足らないたった一人に過ぎなくて、何者にもなれない。
「……シオン? シオンじゃないの? どうしたの、帰って来たの?」
聞き覚えがある声がして、私はぼんやりと視線を花からその人へ移す。
見覚えがあるようなないような、可愛らしい女性がそこにはいた。私は彼女の名前を思い出せないことに罪悪感を覚えながらも、
「久しぶり」
と答える。彼女は私の返事を聞いた途端に明るい表情になると、
「家族の人は戻ったこと知ってるの?」
と尋ねた。私が首をふると、彼女は「だったら呼んでくる」とすぐに来た道をかけて戻って行く。その少し後には、彼女は両親だけでなく、親戚も、親しかった人たちも、そこまで親しくもなかった人たちも、村にいたほとんどの人たちを連れてきて、戻ってきた。
両親にはさすがに連絡が行っていたらしい、帰ってきた事情も話さずにいる私に何も言わずに抱きしめてくれた。友人たちはひっきりなしに向こうでの生活がどんなものであったのかを訪ねてくる。
「向こうで良い人はできたの?」
「女王様ってどんな人だった?」
「やっぱり食べ物もおいしいのかしら」
交わされる会話は懐かしい響きを持っていて、わたしはようやく深く息を吸うことが出来た。そして気づく。ああ、私は緊張していたんだ。七年も離れていたこの村で、また出迎えてもらえるかどうか、本当はとても怖かったんだ。そう思った途端、遠い昔に彼らと遊んだ光景が一気に蘇ってきた。ようやく顔と名前が一致した彼女たちを見て、私は出来る限り昔と同じように微笑んで会話に溶け込んでゆく。
社交界で交わされる華やかな会話とは違う、取り繕うことも飾り立てることもしなくて良いそれは、私がずっと探し求めていたものである気がした。そんな和やかな感情を一気に変えたのは、誰かの純粋な疑問だった。
「どうして急に戻ってきたの?」
返事につまる。どう答えたら良いのか分からなくなり、私は一瞬の惑いの後言った。
「ひどいわ、聞かないでよ。クビになったのよ、もう私に仕事はないんですって」
取り繕ったその言葉に、一斉に笑いが起こる。良かった、合っていた。私も彼女たちと一緒に笑いながら、ふと視線を感じて目線を上げる。
少し離れた場所から、誰かと話すでもなく、私に話しかける機会をうかがうでもなく、ただそこで私を見つめているだけの青年がいた。あ、と思う。声をかけようと思ったけれど、私が見ていることに気づいたのか、彼は興味をなくしたように目を逸らしてしまった。
この村に戻ってきてから、数日が経った。私は何をするでもなく、ただ毎日教会へ通い、いるかどうかも知らない神に祈っている。別に私は熱心な教徒というわけでも、信仰心が深いわけでもない、他に祈る対象を知らないだけだ。私は生きている。今日も生きていて、明日も明後日も生きていて、そしてきっと一年後も二年後も生きているのだ。生きている人間にはいくつかの義務があると私は思う。だったら、私の義務はこれだ。命ある限り、一生、あの人の安寧を祈り続けることだけだ。
窓の外を見て日が落ちてきたことを知る。私は静かに立ち上がり、重い扉を開くと外へ出た。強い風が吹きつけた。巻き上げたわけでも、宝石を飾ったわけでもない、ただ適当に下したままの茶色の髪が風に持ち上げられて視界に映る。ドレスを着て丁寧に作り上げた私の髪を美しいと言ってくれた人はいくらでもいた。だけどこのままで綺麗だと言ってくれたのはたった二人だけだ。
花の香りに誘われて、教会の庭園へと足を運ぶ。まず私の目に入ってきたのは、花ではなくその人だった。先日視線を逸らされたことを思い出しながら、私は何やら作業をしている彼の隣に並んで座った。
「久しぶりね、ロータス」
風が冷たい。私は肩にかけていたショールを取ると、私より薄着をしていた彼にかけた。ロータスの手が止まる。今度は目を逸らされなかった。
「お母さん、元気?」
ずっと心配していた。彼は幼い頃から母親と二人暮らしだ。私が十四歳でこの村を出て行った七年前、彼の母親は重い病気だった。村の医者は早々に匙を投げ、あのままだったら彼は遠からず天涯孤独の身となっていたはずだったのだ。
「……元気だよ。シオンが帰ってきたことを聞いて会いたがってる」
記憶にある声よりも少し低い落ち着いた声が返ってきた。けれどそんなことよりも、彼の返事に嬉しくなる。
「ああ、良かった。お医者様呼べたのね」
都で働き始めて初めての給金は、両親に断りを入れてから全額彼の母親に渡した。毎日のように顔を合わせて、実の娘のように可愛がってくれ、自分の病気の方がずっと大事なのに、都に呼ばれたという私の方を気遣ったあの人を、どうにか助けたかったのだ。そして、それよりもずっと彼を一人にしたくなかった。
「ありがとう。助けてくれて」
彼はそう言うと立ち上がった。
「お礼なんていらないわ。また会えることができそうでありがたいのは私の方よ。……もうお仕事は終わりで良いの?」
彼は今教会の庭園の花の管理を仕事にしているらしい。作業台の上に置かれた土や水差しが目に入る。
「もう良いよ。どうせあと少しで暗くなって作業できなくなる」
ロータスを追うようにして立ち上がる。目線を合わせるには見上げなければならないことに気づくと、七年の年月の長さに笑いがこみあげてきた。
「……何がおかしいの」
訝し気な表情をした彼に、私は答える。
「だって最後にあった時は、私よりも少し目線が低いくらいだったのよ、あなた。今となってはこんなに見上げないといけないのね。七年って長いわ。……なんだか、置いていかれた気分」
ロータスは昔と同じように考えが読めない無表情のまま、ショールを私にかけ直した。
「着ていてくれて良いのに。ロータスの方が寒そうだし」
彼は小さく首をふると、距離が近づいたついでとでもいうように私を抱きしめた。
「ずっと会いたかった」
耳元で囁くように言われると、くすぐったくて笑ってしまう。小さな頃からこうだった。距離は近いけれど、不快ではない。むしろ、まだ私も誰かに必要としてもらえるのではないかと思えて、嬉しくすらある。私は七年間の間にどこか傲慢になってしまっただろうし、長年会っていなかったために気まずさもあったけれど、彼は気にしないでいてくれるようだった。
「家も隣なのだし、これからはいつだって会えるわ。また昔のように仲良くしてもらえる?」
彼は頷くと、作業台の上に置かれた小さな青い花を私の髪に飾った。……これでいい。これがいい。私には宝石も銀細工もいらない。
けれど、日常と平穏を取り戻そうとするたびに、あの声が頭に響く。私一人だけ、穏やかな日々の中でささやかな幸せを見つけてしまうのは、どうしてもあの人に申し訳ない。心のどこかで、私は一生不幸せでいなければならない気がしている。
そんな想いを浅いため息で一旦頭の隅に追いやると、私は笑ってロータスに別れを告げた。
それから私は数日に一度、教会からの帰り際に庭園に寄るようになった。
他愛ない会話にロータスは昔と同じように、頷きと相槌を返してくれる。彼は、決して自分から多くを話すような人ではないけれど、その分こちらの話をきちんと聞いてくれる人だ。最初はどこかぎこちなかった会話も、何度か交わしていくうちに、友人同士の気安いものに変わってゆく。
私はどこか、この人を身内として見ているところがある。難しい年ごろの子供が親に反抗するようになるのは、心のどこかで「多少酷いことを言っても、この人は自分を決して見捨てはしない」という確信を持っているからに他ならない。かつての彼もそうだ。病気の母親にあたることができない彼が、自分の苦しみをぶつけ、未来が見えない絶望の道連れに選んだのは他でもない私だった。だからだろうか、私もそれを彼に返しても、受け止めて、受け入れてもらえると信じてしまえるのは。
そんなことに気づいてしまってから、気安い会話は何度か脱線するようになった。
「久しぶりに戻ってきたら、仲が良かった子たちは皆結婚してしまっていたわ。向こうにいた頃はそうでもなかったけれど、ここでは私、完全に行き遅れなのね」
言ってからしまったとは思ったけれど、発言は取り消せない。こんなの愚痴でしかない。彼に言ってどうにかなるような話でもない。元々、それをなんとなく分かっていながら、そうではない道を選んだのは私自身だ。……だって、その先に、明るい道が続いていると疑わなかったのだから。
そんな時、彼は何も言わない。ただ、近くにいてくれる。肯定するでもなく、否定するでもなく、相変わらず無表情のままだ。
私はロータスが、決して自分から私の事情を深くは尋ねて来ないことを良いことに、彼と会う度に、あれがうまくいかない、これが好ましくない、誰も私を分かってはくれないと、鬱憤晴らしのような会話を一方的に話すようになってしまっていた。時々我に返り、彼に謝りの言葉を告げれば、ロータスはその度に、
「会いに来てくれるだけで嬉しい」
と返した。
そんなある日のことだった。いつものように、長いこと教会で祈りを捧げて、帰り際にロータスのところに寄ると、彼はふと思いついたようにそう訊いた。
「どうして毎日教会へ来ているの?……シオンはそんなに信心深いわけでもないでしょう」
いつか訊かれるだろうとは思っていた。けれど、踏み込んでくれるなとも思っていた。私はなんと返そうかしばらく迷ったあと、
「ある大切な人のために祈っているの」
と答えた。
「……へえ、そう」
興味があるのかないのか、判断しかねる反応が返ってきた。なんだか責められているような気分になり、私は弁明するように続けた。
「別に誰かがそうしろって言ったわけではないの。私がそうしたいと思って祈っているだけなのよ。私、きっとあの時何かを失ったのね。今はただ、あの人のために祈ることだけがこれからの私の人生だと思うの。」
……本当に?
自分の言葉が虚構のように思えてしまった。
毎晩繰り返される光景と、あの人の最後の言葉が私を襲う。
『シオンだけは分かってくれるって信じていたのに』
……私は浅ましくもあの光景から解放されたくて、こうして祈っているのではないか。直視したくない現実と思い切り目を合わせてしまって、身動きがとれなくなる。
今もなお、あの人の唯一無二だという肩書が欲しくて、あがいているだけではないのか。もう二度と、私はあの人に会うことはできないというのに。
頭が痛い。抑え込んでうずくまった私に気づくと、ロータスは珍しく焦ったような表情で私を覗き込んだ、
「どうしたの、大丈夫?」
「違う、違うのよ。……信じたくない、あれは嘘よ。私のせいなの? どうして私を置いて、あなたは行ってしまったの!」
叫ぶように言い切ってしまってから、そして我に返った。彼は驚いて私を見ていた。
ああ、駄目だ。うまくいかない。ロータスの前では、私はまるで小さな子供のような振る舞いばかりしている。今だってきっと、思うままに全てぶちまけてしまえば、あの日からずっと私に憑りついて離れないこの苦しみから彼は救ってくれるのだろう。
でも、これは言えない。彼にも、誰にも言えない。
私は静かに立ち上がると、彼の腕を振りほどき、逃げるようにして家へ帰った。
七年前のことだった、一枚の手紙によって、私の人生は大きく動きだした。
都から届いた大仰なその手紙には、私をとある御令嬢の話し相手兼世話係として引き取りたいという内容が書かれていた。
私はこの辺鄙な村で、金持ちなわけでも貧乏なわけでもない、それなりの家で育ち、平凡な日常を愛していた。たった一つ他の人と違うところを挙げるならば、母が貴族の家系の出身だったということだけだ。別にそれを気にしたことはなかった。母も父も二人とも、人並みに私を愛し、それでいて人並みに自分たちの娘との距離を保っていた。私は他の子供たちとおなじように笑い、泣き、時に親や学校の先生に反発し、そんな自分のことを嫌いながら愛しているただの十四歳の少女だった。
聞けば、これまでも何度かうちに遊びに来ていた親戚の女の子が、その御令嬢だった。私はこの時初めて、母が恐らく私とは異なる幼少期を過ごしたらしいことに気が付いた。
当時私は本当にただの子供だった。ドレスも宝石も、憧れた。華やかな音楽も、おいしい食事もダンスパーティーも、私の心を虜にしてやまなかった。父も喜んでいた。「大出世だ」と言い、友人たちに嬉し気に話していた。ただ、母だけが、「断った方が良い。やめておきなさい」と言った。あの時、この村で、冷静に現実を見ていたのは母一人だった。
結局私は母の反対を押し切って、村の人全員に見送られ、宮中へあがることになった。
思い描いていた華やかな世界がそこにはあった。
私が世話係として仕えていた人は、お姫様のような人だった。花が咲くように微笑み、鈴を鳴らすように笑った。彼女は私を誰かに紹介するとき、いつも私を友人として紹介した。私自身も世話係とはいいつつ、彼女のことをまだ満足に言葉も話せなかった小さな頃から知っている三歳年下の親戚の可愛い女の子だと認識する癖は最後まで抜けなかった。私たちは、主従関係というよりは、どちらかというと友人同士だった。そんな関係を誰も咎めなかったものだから、まるで私も貴族の一員になったかのように、彼女の隣で振舞って過ごしていたのだ。
そんな風に何年か過ぎたころ、彼女の結婚が決まった。お世辞にも良い相手だとは思えなかった。悪い噂は絶えなかったが、良い話はあまり聞かない、そんな男性と彼女は結婚した。
別に仕えていた女性が結婚したからといって、私の毎日はあまり変わらなかった。相変わらず彼女は花の妖精のように可愛らしく、美しく笑っていた。私はやっぱり彼女からかけられる言葉に、それまで通り笑って答えるのが仕事だった。もうこの頃には私は、どんなに美しいドレスや首飾りを、どんなに素敵な男性から贈られても、何も感じなくなっていた。それよりもダンスパーティーで交わされる華やかな会話の下にある本根を探る毎日に疲れてしまっていた。
けれど、このまま終わることを受け入れてもいた。
それからしばらくして、彼女の妊娠が発覚した。私はその時、私が都に来た時に十二歳だったその女の子が、もう十九歳の女性になっていたことに気づいて、驚いた。あの村を出て、七年も経っていたのだ。改めて、彼女が子供を産んでも、あるいは私が誰かと結婚しても、最後まで変わらずにこの美しい人と一緒にいようと誓った。……本当に、本気で、私は誓ったのだ。
その先も続いていたはずの明るい日々は、誰かがどこかで掛け違えて狂い始めた。私の生まれ育った村が、そして私が七年間住み慣れた都があるこの国は、もうずっと隣国と仲が悪かった。だけど、それがどうなることでもないと、私も、そしてこの国に住む皆も、きっと隣国の人たちも皆少しも疑わなかったのだ。けれど、ある日、何かが狂った。
この国は隣国と戦いを始めてしまった。私は村にいる家族と友人が心配だったけれど、美しい彼女が、
「どうにもならない、大丈夫よ」
と言ったのを聞いて、それもそうかと思い、どこか他人事のように戦況を聞き流すようになった。
結果として戦いは大して長く続かなかった、別にどちらの国が勝ったわけでも負けたわけでもなかった。いつの間にか静かに過ぎ去り、関わりのなかった人々はすぐに忘れ去った。
ただ、不運なことに、私が仕えた美しい彼女が結婚した相手はこの国の騎士だったのだ。
船の中とは思えないほどの大きなダンスホールで、私はその日も優雅に椅子に座って可愛らしく微笑んでいた彼女の隣で、仰ぐでもなく閉じるでもなく扇を手の中で持て余していた。
「踊ってこないの? あの方、あなたをさそっていてよ」
彼女がおかしそうに言うのを、なんとなくかわしながら、私は今日のドレスはあまり好みではないものを選んでしまったなんて、呑気に思っていたのだ。
私がその男のしつこさに折れて、一曲くらいなら相手をしてあげようかと彼に近づくために一歩踏み出したのと、船上で見張り役をしていたはずの船員が急いでホールに駆けこんできたのはほとんど同時だった。
「奥様、奥様! 旦那様が」
彼が運んできた衝撃的な知らせは、一瞬で船中を混乱に陥れた。自分の愛する夫が戦死したという報せを受けて、彼女は泣き伏した。
当然、ダンスパーティーなんて雰囲気ではなくなり、華やかだったはずの船内は暗く思い空気に変わった。
「私は、この報せを信じないわ。きっと何かの間違いで、あの人はまだ生きているはずよ」
彼女は報せが届いてから二日間、そう自分に言い聞かせるように言うと、努めて普段通りの振る舞いを続けていた。
けれど、四日経ち、五日経ち、その間に新しい報せが何も届かなかったことを聞いた彼女は、望みも薄れたのか涙をこぼした。美しいその人が泣いているのを見るのは、まだ彼女が五歳の頃、花畑の中で足を取られて転んだとき以来だった。その時とは理由も状況も全く違う。私は一人残された彼女を思うと悲しくて、慰めの言葉も浮かばず、一緒になって泣いた。
悲しみに暮れて数日を過ごした後、私は彼女に呼ばれた。
「こんなに何日も報せがないのだもの。やっぱり本当にあの方は死んでしまわれたと信じるしかないと思うの」
私はその言葉に頷くことも答えることもできなかった。
「もう数か月もしないうちに子どもが産まれるわ。私、三人で築いていく幸せな家族を夢見ていたけれど、この子を一人で育てていかなければならないのね」
彼女の言葉に私は顔を上げて首を振った。
「一人じゃない、一人じゃないわ。私が一緒にいます。ずっと一緒にいるわ」
彼女は少しだけ微笑むと、耳を疑うようなことを言ったのだ。
「いいえ、もう無理よ。……だってね、夢の中にあの方が出てくるの。夢の中だけじゃないわ、寝ても覚めてもずっとそう。これから一生、あの愛しい人の幻影を見ながら、私生きてなんていけない。あの人は船の上で戦死したと聞いたわ、海に落ちて亡くなったんですって。私もこの船から海に飛び込んだら、あの方にまた会えるかしら」
冗談だろうと思った。だけど彼女を見ていれば、冗談ではないことが確かに伝わってしまった。
「いいえ、だめよ。そんなことを言っては。私はあなたの良き友であろうとずっと思ってきました。これまで七年間、村に残してきた親も友人も、大切な人たちを何度も思い出したけれど、一度も戻ることはせずに、毎日あなたの隣にいたわ。そんな私の思いをどうして分かってはくれないの? 確かに辛いかもしれない。だけど、何もあなたまで死ぬことはないじゃない」
私は彼女を愛していた。大切な友人で、妹のような存在だった。彼女も何度も私を大好きだと、愛していると言ってくれた。大丈夫、この人は私を選んでくれる。あんな男よりも、私と一緒に生きることを選んで……そうだ、どうして彼女まで死ななければならない? そもそも初めから、私はあの男が好ましくはなかったのだ。
「……そうよね、止めてくれてありがとう。私もあなたと一緒にいたいわ。もう夜も遅いし、戻って寝ることにしましょう。こんなに夜に呼び出してごめんなさいね」
彼女がいくらか落ち着きを取り戻しつつも、寂しそうにそう答えたのを聞いて、私はなんとか彼女を元気づけたいと思った。
いや、違う。元気づけたかったのではない。あの男が恨めしかったのだ。私は彼女と七年一緒に居た。なのに、彼女と出会ってたった一年の男のために、彼女一人を愛しぬくこともできない男のために、私の大切な人が命さえ捨てようとしているのを見て、なんとか言ってやりたくなっただけだ。
「そうよ、あなたは知らないの? 旦那様、あなたの他に何人も愛人がいたの、私は知っているわ。結婚しておきながら、そういうことをする、あなたにはまるでふさわしくない人だったのよ。もう、忘れましょう。あなたに合う人はもっと他にいるわ」
私が思わず口走ってしまったのを聞いて、彼女は信じられないものを見たような顔をしてから、恨めし気に言った。
「どうしてそんなことを言うの。信じられない。私がそれを知らないでいたとでも思っていたの? 旦那様は私を決して愛してなんかいなかった。知ってたわ、知っていたわ。それでも私は愛しているの、あの方が好きなのよ」
彼女はそう言うと、出入り口がある方からは反対の方向に走り出した。一瞬、私には彼女がどうしてそちらに向かって走るのかが分からなかった。
「シオンなんて嫌いよ。愛する人を忘れてしまおうなんて簡単に言うような酷い人だとは思っていなかったわ。だったら、あなたも私を忘れてしまえば良い。私もあなたのことなんてすぐに忘れてあげる。……シオンだけは分かってくれるって信じていたのに」
次の瞬間にはガラス張りの大きな窓は開け放たれ、彼女の長い金髪がほどけたと思うと、もうどこにも彼女はいなかった。腰が抜けるという経験は、それが初めてだった。私はなんとか立ち上がると窓へ駆け寄り、彼女の姿を見ようと乗り出して海を覗き込んだ。
そしてそこに、彼女が来ていた桃色のドレスも最後に見たあの美しい金髪も、何一つ確認できないことに気づいて絶望したのだ。
私が殺したのだと思った。私があんなことを言わなければ、彼女はきっと思い直していたに違いない。あの時彼女をこちらに引き戻せたのは私だけだったのに、私は自分の嫉妬心のために、結果として彼女の背中を押したのだ。
事態に気づいた人たちによって私は窓から引き離され、彼女の捜索が始まった。しばらくして、彼女の亡骸は見つかった。寒い日だった。冷たい海の中で、私が愛したその人は、美しい姿そのままに、重いドレスに引きずられ、溺死したのだ。
彼女がいなければ、私が都に残る必要はどこにもない。私の仕事は彼女の話し相手となり、世話をすることだったのだから。彼女の両親にさっさと暇を出されると、私は七年前に来た道を戻るしかなかった。
あれから毎日、私は夢を見る。
あの日と同じ桃色のドレスに身を包み、旦那様に貰ったという銀細工とサファイアの首飾りをして、長い金髪を丁寧に結い上げて、彼女は見る人全てを魅了するような美しさで微笑んでいる。
私たちはあの船の上にいる。そして『シオンだけは分かってくれるって信じていたのに』という呪いのような言葉を残し、彼女は窓から飛び降りる。あの絶望の光景は、毎晩私を襲う。
自室のベッドの上で、私はまた今夜も始まるであろう悪夢を想い、小さくため息をこぼす。これが私の罪だ。私が一生抱えていかなければならないものだ。
今日はロータスの前で取り乱してしまった。彼は優しい人だから、きっと心配してくれていることだろう。明日、朝早くにでも彼に謝りに行こう。
部屋を暗くするためにろうそくの火を消そうと近づいたとき、ふとそこに置かれた花瓶に気が付いた。数日前にロータスがくれた花だ。枯らすのが惜しくて花瓶に入れてとっておいてあったのを、すっかり忘れていた。小さな青い花は、数日前に彼からもらった時とほとんど変わりなく、そこにあった。
その日、私はいつもと同じように彼女の夢を見た。やっぱり私が愛した美しいその人は、あの日と同じように桃色のドレスを着て、微笑んでいた。
ただ、いつもとは違うことがあった。私たちがいたのは船の上ではなかったのだ。花畑だった。そう、ちょうど、私が生まれ育ち、そして七年ぶりに戻ってきたこの村のように、辺り一面、見渡すかぎりの花だった。
彼女は私に近づくと、幼い頃よくそうしていたように、飛びつくようにして私に抱き着いた。思わず倒れ込みそうになりながら、なんとか踏みとどまって彼女を抱きしめ返した。
「大好きよ。私、あなたのことずっと忘れないから、だから」
彼女が怒っているのではない声を聞くのは久しぶりだった。私は泣いていた。涙もろいと言われて育ったけれど、どうして今涙が出てくるのかはよく分からなかった。
「———」
ああ、あなたは一体今何といったの。夢のような光景は、私の声が彼女に届くよりも前に、すぐに消え去ってしまった。
次の瞬間、私は自室のベッドの上にいた。そんなに長く眠った覚えはなかったけれど、窓の外には太陽が昇っている。
私はクローゼットを開けるといつものように黒いワンピースに伸ばした手を止めて、どう考えたってこの村には不釣り合いの青い華やかなドレスに手を伸ばした。花瓶に活けられた青い花を少しだけ頂戴すると、この間彼がしてくれたように、自分の髪に飾った。
「おはよう、ロータス、昨日は取り乱してごめんなさい」
教会に入るよりも前に、庭園で仕事をしている彼に声をかける。
彼は私を見て、そして少し笑った。
「会いに来てくれるだけで嬉しい。……シオンはきっと、誰かのために祈るよりも、自分のために笑っている方が良いよ」
彼は決して深く事情を尋ねてくることはない、私もどうして取り乱したのかは言わない。
それからというもの、私の悪夢はやんだ。我ながら都合の良い夢を見たことだと思う。別に彼女に許されたなんて思いあがってはいない。きっと、私は一生この痛みを抱えて生きてゆく。これは誰にも渡すことはできない、私だけのものだ。彼女の最後の言葉も、窓から落ちた瞬間も、記憶にはずっと残っている。
ただ、自分の中で、一つの折り合いがつけられたような気がしていた。彼女のことを思い出す時、彼女の安寧を神に祈るとき、私は必ず心の中で彼女に話しかけるのだ。
大丈夫、私はあなたを決して忘れない。
最後までお読みいただきありがとうございました。