一章〜非望〜 八百十一話 疲労を感じながら
風詠を使わなくなると、不意に世界から切り離されたみたいな不思議な孤独感を味わう事がある。本来なら、それが普通の筈なのに、風詠が伝えてくるものからは妙な安心感を覚えるものが混じっている。
それはきっと、異世界から来た自身が風詠をこの世界とも繋がれるという証の様に感じている部分もあって、不安定で揺らぎやすい心の弱さを包んで支えてくれる様な何かも感じているからだとアレルは思う。だからなのか、アレルは双剣術のアマデウスも自身のそういう脆い部分の支えにと、風詠を教えてくれたのかもしれないと思ってしまう。
だが、今はそんな風詠を使わなくなったばかりなので、まるで繋がりを断たれたみたいな感覚がアレルの足元をおぼつかなくさせる。確かに、それは疲労の所為もあるのだろう。それでも、精神面の事も多少の影響があるならば、余計にしっかりしないととアレルは気合を入れ直して一歩を踏み出す。
「アレル? そっちで、何をしてたの?」
そこへ、馬車の近くにいたアリシアが声を掛けてきたので、アレルは瞬時に気持ちを切り替えてアリシアが余計なものを感じ取らない様に配慮する。
「ああ、ちょっと瑠璃が他の夜光蝶が残したものがあるって気にしていたから、暫く一緒に見ていたんだ。それのお陰で、この辺は魔物が近づかないらしいから安心してくれ」
「そうなんだ······ねえ、ルリちゃんはいないの?」
アリシアは、アレルの肩に瑠璃の姿が無い事に気付いて所在を訪ねてくる。
「瑠璃は、なんか自分よりも能力が上の集団が残したものだからって、何か学べる所があるかもって一人残って勉強中なんだ」
言いながら、アレルは昼食の準備もしなければならないと馬車の荷台へ足を向ける。しかし、いつもの様に地面を踏み締める感覚が薄く、どこか浮遊感の様なものが下肢に纏わりつく。
やはり、疲労が溜まっている。そう感じるアレルだったが、アリシアが見ているので虚勢を張ってしっかりと歩いてみせる。そんなアレルに、アリシアは置いていかれまいと歩調を速めてアレルの横に並んでくる。
「······ねえアレル、もしかして疲れてない?」
ドキッと、その一言にアレルの心臓が一瞬だけ鼓動を跳ね上げる。しかし、まだ誤魔化す事は可能だとアレルは平静を装う。
「まあ、それは······連戦だったからな、疲れてない訳はないだろ?」
「そう······だよね」
何故か隣を歩くアリシアは、アレルの返事が気になるという訳でもなしに、どこかソワソワした様子を匂わせる。
それに今度は、そんなアリシアの様子が気になったアレルが足を止めてアリシアへ訊ねる。
「何か、気になる事でもあるのか?」
「へ? ううんっ、そんなんじゃないの! えっと、その······気にしないで」
「······まあ、そう言うなら」
アリシアの返事に、どうも腑に落ちない部分を感じるアレルだったが、荷台が目前となっていた事で取り敢えず昼食が先かと頭を切り替える。
「じゃあ、俺は昼食の準備をするから」
そうなると、食べる場所はどうしたら良いのだろうと頭を捻る。通常ならば外で食べるだけなのだが、万が一何かあった時の事を考えると外に並べたものを撤収する余裕が無い。
ただ、現状では魔物の心配が無いのは瑠璃からのお墨付きがあるし、盗賊の方も何も無い上に魔物が多いこんな場所には現れないだろうし拠点になんかもしないだろう。そう考えると、短時間ならば外でも全然問題はないかとアレルには思える。
そんな事を考えながら、アレルが荷台に上がろうと幌へ手を伸ばすと、突然バッと荷台の内側から幌が捲られる。
「わっ!? ······って、アレルさんでしたか」
そう言って、顔を出してきたのはメリルで、捲られた幌の奥にはルチアーノから渡されたバスケットが見える。
そんなアレルの視線に気付いたのか、メリルはアレルの言葉を待たずに説明を始める。
「これは、その······お昼も近いですし、昼食はこれを食べるのならばアレルさんが何かを用意する事もないでしょう? なので、昼食の準備くらいはアタシの方で済ませておこうと······迷惑でしたか?」
メリルは、何故か申し訳なさそうにしながらアレルの顔色を伺うみたいに、首を僅かに傾けて訊ねてくる。
それに対して、良かれと思ってやってくれたなら感謝こそすれ怒りなどしないのに、何でそんな反応をするのだろうとアレルは思ってしまう。ただ、いくら考えても答えの出なさそうな事に悩んでいても仕方ないと、メリルならある程度は自分の事は自分で何とかする筈だと信じる事にした。
「迷惑なんかじゃないよ。寧ろ、疲れているから助かったよ」
「それなら、直ぐに準備しますね」
アレルの返事に、パァっと表情を明るくさせたメリルは、テーブルか椅子代わりの空き箱を抱えて荷台から降りてくる。それを、なんかメリルのそういう反応も珍しいなと思い目で追っていると、そんなアレルの背中にポスっと軽い衝撃が加えられる。
「やっぱり、疲れていたんじゃない」
アレルが振り返ると、そこにはメリルとは反対に、もうッと僅かに頰を膨らませたアリシアの顔があった。
「いや、別に疲れてないとは言ってなかっただろ?」
「そうだけど、それなら疲れてるって誤魔化す事なんてしないで素直に言えば良かったのに」
むぅ〜っと、不満を露わにするアリシアを前に、アレルはこうなるかと思ったから誤魔化したんだと肩を落とす。
「悪かったよ、これからは素直に疲れたって言うから」
「······うん、解った。それなら、少し待ってて」
そう言うと、アリシアはアレルから離れてスタスタスタと荷台の方へと駆けていく。
その後姿に、いつもならもう二言三言言われてしまうのだが、珍しい事もあるものだなとアレルは思ってしまう。しかし、疲労が溜まっている時に何もせず待っているのは余計に疲れる気がする。なので、アレルは何か変わった事はないかと周囲を見渡す。
馬車の近くではメリルが昼食の準備をしており、どこか機嫌も良さそうに見える。そこから、視線を馬車の前方へと移すとミリアが馬達に餌と水を与えている。そこで、ルビー種にも与えなければと思ってそちらを見ると、ルビー種は何やら近くに生えていたクローバーらしき雑草を食べていた。
「······」
その姿に、ルビー種なら頭も良いし水が欲しくなったら貰いに来るかと、好みもあるだろうしもう暫く好きにしておく事にした。そして、最後に離れた所でヒラヒラと宙を舞っている瑠璃に視線を向けると、瑠璃は未だに何かを学び取ろうと必死な様子を見せていた。
そこへ、爽やかな風がアレルの頰を撫でていき、不意に視線を空へと向かせられてしまう。すると、そこには数日前にミッテドゥルム辺りを通っていた頃とは打って変わって、澄み渡る青空が視界一杯に広がり陽光が仄かに身体を暖めてくる。
そんな、不意に訪れた穏やかな時間の流れに、眠気を誘われたアレルはアリシアはまだかなと欠伸を漏らしてしまう。




