一章〜非望〜 六百五十七話 少しだけ噛み合わない想い
窓から入る西日が、部屋へと戻るアレルの身体を照らしてくる。日はすっかり傾き、もうじき夕刻に差し掛かる様な時間帯になってきている。そんな西日に目を細めながらもアレルは、今から急いでカルラスへ向かい交渉をしたとしても、上手くいかなかったからといってツェーンへ向かう事は無理だろうなと感じる。
それにしても、ルチアーノから聞いた話は、メッサー達に任せておけば大丈夫だと思っていたアレルにとって衝撃的だった。なんせ、アレルにしても『蜃気楼』の名をメッサー達の前で出したのはほんの僅かな可能性に対してだったのに、ルチアーノの話を聞いてからでは本当にこの一件に絡んでいるのではないかと思えてしまう。
──もしも、本当にそうだとしたら?
その考えが頭を過ぎり、アレルは思わずピタリとその足を止めてしまう。そこへ間が悪いというのか、流れる雲が再び太陽を隠した事でアレルの身体を影が包み込む。
アレルには、メッサー達の様に目に見えないものとの戦闘を想定した技術なんて無い。それ故に、実際に『蜃気楼』なる暗殺者と対峙すれば数秒と掛からず殺されてしまう可能性がある。それでも、まだ自分が殺されるだけならば、ただ自分が弱かっただけだと諦めがつく。しかし、自分が殺される様な状況では近くにアリシアもいるはずで、そのアリシアの死を想像してしまったアレルは得も言われぬ恐怖を感じてしまう。
何故かは解らない。自分よりも、他者の死を恐れるなんて馬鹿馬鹿しいにも程がある。しかし、自分ではどうしようもない恐怖が自身の内から溢れてきているのを、アレルは確かに感じている。
あの花が咲く様な笑顔が、あの暖かさを感じる微笑みが、普段は凛とした通る声が、心躍る時に弾むようになる声が、絹糸の様にサラリと美しい蒼銀の髪も宝石の様に輝く氷青の瞳も、触れれば壊れしまいそうな華奢な身体も全て、血化粧に穢され血溜まりの中で無残な骸に成り果てる。
その過程を想像してしまったアレルは、ブルブルと震え出す身体が言う事を聞かなくなった為に両手で自身の肩を抱く様にして何とかしようとする。
自分よりも他人が死ぬ事を恐れるなんて、まやかしや欺瞞、そうでないのなら誰かの為に命を懸けるという状況に酔っているだけの自己陶酔だとアレルは己に言い聞かせる。それでも、まるでその考えが間違っていると訴えでもしているみたいに、身体の震えは止まってくれない。
それならば、一体この震えの意味は何なんだと改めて思うと、まさかといった考えが不意に頭の中に湧いてくる。それは、アレルにとってまさに青天の霹靂で、どちらかと言えばそれを否定したい気持ちの方が強い。何故なら、その考えを認めてしまえば否応なしにこれからの自分の認識が改められてしまうから、そうなる事で変わってしまう何かを変えないまま己の奥底に沈めて置きたい。
そう思い続けても、アレルの中に湧いた考えはいつまで経っても消えてはくれない。それ故に、アレルはその考えを認めざるを得なくなってくる。どんなに否定しようとも、決して消えずに自らへその想いを訴え続けてくるそれは、アレルの中でアリシアの事が他人とは思えなくなってきているという事実であった。
そう、自分よりも他人が大事なんていうのが単なる欺瞞でしかないのなら、今アレルの身体を震わせている感情は他人に対するものではないという事になる。加えて、記憶喪失が原因なのかは判らないが、アレルは自身の生死にそこまでの関心が持てていない。勿論、死への恐怖が無い訳ではないが正直死を目前にでもしないと実感が持てない程度ではある。
ならば、自ずと震えの答えなんて解ってもくるはずで、アレルは己の死よりも身内の様に感じている存在を失う事に恐怖しているのだった。人の想いに時間なんて関係ないとは、誰が口にした言葉だったか。アレルは、その言葉の通りにこれまでの短い期間でアリシアの事をそこまで身近な存在と感じるまでになってしまっていた。
ただ、それも当然と言えば当然の話で、居場所も帰る場所も無いと思い込む自分に対して居場所を作ってあげたいと思ってくれている相手を、自らの想いを否定したいからと他人だと断ずる様な薄情さをアレルは持ち合わせてなどいない。しかし、そうして一度認めてしまえば簡単な話で、思い返せばここまで来るのにどれだけアリシアの事を優先していたのか数えるのも馬鹿らしくなってくるとアレルは思う。
それでも、身体の震えだけは止まってはくれず、その情けなさにアレルは自らへの怒りを募らせる。もう、依頼だからと自らの想いを誤魔化す事も出来ないし覚悟を決めるしかないんだとアレルは自分に言い聞かせ、震える身体をそのままに右拳を握って力を込める。
──ゴズッ!
直後に、鈍い音を響かせてアレルは自らに喝を入れる為に放った右拳を、自身の額からゆっくりと離す。すると、アレルの狙い通り自らの弱気を追い出す事が出来たのか、ピタリと震えが止まり窓からも陽の光が再び差し込み始める。
殴った額はジンジンと痛み、それに使った右拳も妙な疼きが僅かに残る。それでも、どこかスッキリした様な気分のアレルはしっかりとした眼差しで前を向く。そして、これから先どんな障害や危険な敵が待ち構えていようとも、自らの全てを用いてアリシアを守り通すんだという決意を胸にアレルは一歩を踏み出す。
その決意が、これからの自分にどんな変化を齎す事になるのか、アレルにはまだ判らない。それでも、今まで自分を散々誤魔化してきた感情に決着をつけた事で、どこか不安定だった足元が定まった様な気がしている。そうして、アレルは新たな気持ちで覚悟を改めて、アリシアと瑠璃の待つ部屋へと戻るのであった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
──時は少し遡り、アレルがルチアーノと出て行った後の部屋。
残されたアリシアは、またこれだと自身のベッドへ腰掛けながらため息を吐く。いつも、アレルが自分達を守る為に隠れて色々とやっている事はアリシアにも解っている。
「アレル自身は、もしかしたら気付かれていないとでも思っているのかもしれないけど、そんな事ないんだからっ。ねっ、ルリちゃん?」
憤慨する気持ちを吐露しつつ、アリシアは自らの気持ちを抑える為に瑠璃へ声を掛ける。すると、瑠璃は小物入れから出てきてアリシアの目の前で浮遊する。
「······ルリちゃんだって、アレルに無理して欲しくないよね?」
チカチカと、瑠璃は羽を二回明滅させて肯定の意思をアリシアへ伝えてくる。そんな瑠璃の反応に、アリシアは更にアレルへの憤りを募らせて再びため息を吐いてしまう。
アレルは、いつも一人で色々なものを背負いながら、必死になって足りない部分を補おうとしている。ただ、ミリアも言っていた通りに、誰よりも軽いと感じている自らの命を顧みずに自身を蔑ろにしながら。
それをどうにかしたいと思いつつも、アリシアはミリアに今は見ている事しか出来ないと言われている為にもどかしさを感じてしまう。一体、どうしたらアレルは自分の事を大事にしてくれるのだろう。そう思っても、アリシア一人で悩んだ所で答えなんて出なくて、このままではいつかアレルがいなくなってしまうのではないかという不安ばかりが大きくなる。
(でも、どうしてアレルの事をこんなに気にしてるんだろ?)
そこで、アリシアは不意にそんな事を思ってしまう。勿論、アレルの境遇を鑑みて色々としてあげたいと思う気持ちに嘘などない。
それでも、その気持ちをちゃんとした言葉にしようとすると、急にそれがどういった想いに由来するものなのかが解らなくなる。ただ心配しているのか、それとも同情し憐れんでいるだけなのか、もしかしたら自分でも気付いていない何かがあるのか、今のアリシアには解らない。
しかし、初めて会ったあの時に、アリシアは確かにアレルならば大丈夫だという根拠のない確信を得ていた。それは、アレルにも言った通り安心感だったのかもしれない。ただ、アレルにも伝えていないが、アリシアの中にはあの時確かにアレルとの奇妙な繋がりの様なものを感じていた。
世間的には、それを運命などと呼ぶのかもしれないが、アリシアとしてはそんなあやふやなものの所為で危険な事にアレルを巻き込んでしまったなどとは思いたくなかった。あんな、自分の事を大切に出来ないくせに他人である自分達を必死に守る人だと知っていれば──そこまで考えて、アリシアは首を左右に振って例え知っていても自分はアレルに縋ってしまっただろうと自らの卑しい部分に表情を曇らせる。
どういう訳だか、解らないはずなのに離れ難い。
それだけはハッキリしているのに、その理由だけが未だ胸の内で形を得る事なく不定形な想いのままに漂っている。
もしかしたら、このままアレルと一緒にいればその想いにも形が与えられる時が訪れるのかもしれないとアリシアは思う。すると、そこへ表情を曇らせていたのを心配したのか、瑠璃がアリシアの顔の前でヒラヒラと華麗に舞って見せてくれる。
「ルリちゃん? ひょっとして、励ましてくれてるの?」
チカチカと、瑠璃は羽を二度程明滅させながらアリシアの前で舞い続ける。それに、アリシアはフッと力を抜く様に微笑むと自らの手を差し出す。
「ありがとう、ルリちゃん。私は大丈夫だから、こっちにおいで」
そう言うと、瑠璃は舞を中断してアリシアの差し出す手に止まりに来る。
「ルリちゃんも、アレルの事が心配なはずなのに、私の事まで気にさせちゃってゴメンね。······どうせ、またアレルは何か背負い込んだみたいな顔して帰ってくるんだろうな」
アリシアから見たアレルは、いつもそうだった。誰かと話をしにいくと、決まってアレルは表情には出さない様にしているけど、ペンダントからはどこかアレルが隠している悲壮な何かをアリシアは感じている。
でも、だからといってこちらがそこを指摘する様な事をすれば、アレルの事を困らせてしまうだけなのでそんな事はしない。なので、そろそろ帰ってきそうなアレルの為に、アリシアは勘の良いアレルに悟られない様に気持ちから笑顔を作り始める。
──コンコンコン。
「アレルだ、開けて良いか?」
そこへ、丁度アレルが帰ってきたので、アリシアは口角を上げて自らの気持ちに蓋をする。それから、アリシアは自らの不満の解消の為に、アレルを驚かしてやろうとベッドから立ち上がり扉の近くへ移動する。
「うん、良いよっ」
そう答えると、解錠の音がした後でガチャリと扉を開けてアレルが部屋の中へと入ってくる。
その表情は、やはり何かを決意した様な顔をしており、アリシアのペンダントにもいつもの感じが伝わってくる。それに、やっぱりかと思いつつも、チクリと痛む胸を無視してアリシアはアレルへ笑顔を向ける。
「おかえり、アレルっ」




