一章〜非望〜 五百六十六話 緊張が緩んだ中で
扉をノックすると、しばらくして中から返事が返ってくる。その明るい声に、アレルは自身が抱える懸念や不安を悟らせてはならないと、気を引き締め直す。
「アレルさんですか? 待ってて下さい、今開けますから」
それから、ガチャリと解錠される音がした後でスッと開けられた扉の中からメリルが顔を出す。ただ、そのどこか上機嫌そうな表情にアレルは首を傾げる。
「お待たせしましたっ」
「ああ······ありがと。というか、なんか機嫌良さそうだな」
「あっ、判りますか? なんか、ここの浴室って他の宿よりも良い物を置いていて久しぶりに満足してしまいまして」
言いながら、その浴室の事を思い返しているのか、メリルは片手を頬に当てて仄かに恍惚とした表情を浮かべる。
それに対して、アレルは要人保護施設だからかと、一応貴族であるメリルを満足させるだけの設備に感心する。ただ、そうなるとメリルがこれなのだから、ただでさえ風呂の有無を気にするアリシアはさぞ喜んでいるだろうとアレルは思う。
「へえ、それは良かった」
「あっ! そういえば、宿代はいくらでしたか? あの、アタシも半分払うので」
と、メリルは大事な事かの様に忘れない内にと扉を開けたまま言ってくる。しかし、実際には支払いなどしていないアレルは、取り敢えず中に入れてくれとメリルと部屋の中に入って扉を施錠する。
その際、扉が木製の見た目の割には重すぎる事に気が付き、間に鉄板でも挟んでやがるなと心の中でハインリヒにやり過ぎだと文句を言う。
「それで、支払いの事なんだけど······実は、小銅貨一枚すら払っていないんだ」
「どういう事ですかっ!? また、アレルさんが何かしたんですか?」
扉を閉めた所で話したせいか、アレルの言葉に過剰反応したメリルはドンッとアレルの背後の扉を平手で叩く。それに、アレルはこれが所謂壁ドンってやつかと思うも、話に聞く程良いものではないなと感じる。
ただ、メリルって割と沸点低いよなとか、最早隠さずに本当の事をメリルだけには話しても良いかなとか思うも、メリルはメリルで自身とは別の重荷を背負いそうだと考え直したアレルは急いで屁理屈を捏ねる。
「ちょっと待ってくれ、誤解があるのを訂正させて欲しい」
「······良いでしょう、話して下さい。た・だ・し、嘘をついたら許しませんからねっ」
まるで恋人にでも向ける様な甘い笑顔で、メリルは表情とは真逆の幻聴までもが聞こえてくる怒気を放ってくる。それに、ヤダこの娘怖いなどと心の中でふざけたアレルは咄嗟に整えた理屈を口にする。
「この宿って、実はロバートから紹介された宿でさ、それでカウンターの前で色々話している内に無料で良いって事になったんだ。意外と気前良いよな、あの強面のオッサン」
ハインリヒを強面のオッサン呼ばわりするアレルは、色々話したのは本当だし宿代が無料なのも本当なので嘘は口にしていないと自身を正当化する。しかし、そのあまりに真実味の無い話にメリルからは疑いの眼差しを向けられる。
「それ、本当なんですか?」
「何なら、俺の所持金が減ってるか数えるか?」
「そもそも、アレルさんがどれくらい持っていたか知りません!」
「じゃあ、下のオッサンの所に本当に無料か訊きに行くか?」
「······口裏を合わせているかもしれないではありませんか」
そう、やっていない事を証明するのは、それこそ一部始終を監視し続けてでもいない限り難しい。こういうのを、俗に悪魔の証明と言うのだが、それを知っててメリルに仕掛けるあたり自身の方が悪魔だなとアレルは思う。
しかし、これはメリルだから何とかなっている訳で、相手がアリシアだとこうはいかない。妙に勘が鋭いアリシアが相手だと、最初の時点で嘘だと言われて面倒な事になる。だからこそ、アレルは嘘にならない嘘をついた訳なのだが、アリシア対策で嘘が上手くなっている事になんだかなと思ってしまう。
ただ、そんな押し問答を続ける事に疲れたのか、メリルは大きなため息を吐いてからくるりとアレルへ背中を向ける。
「もう良いですっ! どうせ、アレルさんはアタシにお金を出させるなんて事許してくれないんですから」
「いやいや、流石に金無し暇なし食うもの無しだったら、姉さんの世話になるけど?」
つい、ノリでそんな事を口走ってしまったアレルは、流石に怒られるなと思って身構える。しかし、メリルは声を荒げる事などせずに、むしろ穏やかな声で後ろ手を組みながら振り向かずに返してくる。
「じゃあ、そうなった時はちゃんと言って下さいね。お世話してあげますから」
「あ、ああ······」
その予想外の反応に、アレルはまさか自身の方が遊ばれていたのかと、妙な敗北感を感じてしまう。
(いや······本当に、人の事って解らない事だらけだな。まあ、それも当たり前か。周囲の状況や環境が変われば、その中にいる人も変わるんだから一部分を知ったからって全部を知った気になるのは傲慢だって確か前にも思ったし。ただ、メリルにはこういう一面もあるってだけの話だ)
そう、間違っていたのは決めつけを押し付ける事で、必要なのは相手を知ろうと興味を持ち続ける事なんだとアレルは身の程をわきまえる。自分には、その人の全てを一瞬で理解する様な特殊能力なんて無いのだからと。
「それでは、アレルさんも早く浴室で汗を流して来て下さい。アタシ達の中で一番疲れているんですから、今夜は早めに寝て身体を休めないといけませんよ」
そこへ、ベッドの前でくるりと振り返ったメリルが、人差し指を立ててアレルへそんな事を言ってくる。だが、どこか一矢報いたいという気持ちがアレルをふざけさせる。
「キメツケ、ヨクナイ。ボク、ツカレテナイヨ」
と、ロボット調の声色でアレルは直前で得た教訓を口にしつつふざける。ところが、対するメリルは穏やかだった笑顔がみるみると怖さを感じるものへと変貌し、人差し指を立てていた右手で拳を握り直す。
「アレルさ〜ん、ふざけていると本気で怒りますよ〜」
「あ······解った、直ぐに準備するよ」
やはり、これぐらい許してくれるだろうという決めつけは良くないなと反省しつつ、アレルはそそくさと自身のベッドへ足を向ける。それから、まず篭手を外し始めるアレルだったが、そこで今日は戦闘を行った事を思い出し慌ててメリルの方へ顔を向ける。
「······何か?」
ニコッと、首を傾けるメリルはやはり迫力を秘めた笑顔を浮かべており、アレルは無防備だったせいか気持ち仰け反ってしまう。
しかし、ここで負けてはいけないとアレルは奮起し、自らの要求を通そうとする。
「あのですね、今日は騎士剣もナイフも使ったので手入れなどをですね、汗を流す前にやらせて頂ければと思いまして······」
「何で、そんな言葉遣いをしてるんですか? もうっ、またそうやってふざけるんですから······良いですよ、好きにして下さい」
メリルは、プイッと拗ねたみたいに顔を背けると、ポスっとベッドへ腰を掛ける。そんなメリルを気にしつつ、篭手を外したアレルはそれをサイドテーブルに置いてから手入れ道具を荷物から手にする。
それから、アレルは騎士剣も手にして手入れ道具と一緒にベッドの上に置いて、サイドテーブルのダガーもベッドの上に置く。続けて、ソードクラッシャーとナイフ帯を帯剣ベルトごと外して同様にベッドの上に置いてから、アレルは装備の手入れを始める。




