一章〜非望〜 五百三十五話 無意識の反応
井戸までやって来たアレルは、滑車に吊るされている桶を井戸の底まで落として水を汲む。見ると、その水の透明度は高くかなり綺麗な水の様に感じられた。そこから、アレルは定期的に手入れをしている黒羽根達が、水の鮮度を一定に保つ精霊石の一種であると聞いた浄石でも放り込んでいるのだろうと考える。
そうして、いざ顔を洗おうとしたアレルだったが、精霊信仰的にはどうやるのが良いのだろうと考える。こういった場合、食器を洗う時みたく別の桶に水を移してやるのが良いのかと思って辺りを見渡すと、井戸の裏に丁度良さげな桶があるのに気が付く。
なので、アレルは一旦そちらへ井戸で汲んだ水を移して、それから顔を洗い始める。
(やっぱ、井戸水なだけあって冷たいな)
水に手を入れたアレルは、そんな感想を抱きながらもバシャバシャっと冷たい水で顔を洗う。ヒヤッと、その冷たさに顔の肌が引き締まる様な感覚がするのと共に、少し働きの鈍かった頭がシャッキリとし始める。
そうして、顔を洗い終えたアレルはサイドポシェットに入れてあった香油を使用した水に一滴垂らしてから桶の水を捨てる。そのまま、手にしている桶を元の場所に戻したアレルは、馬車へ戻ろうとするも一度足を止めてメッサー達がいた方へ視線を向ける。
すると、既にメッサーとジェシカの姿は無く、残された二人の黒羽根がどこか暇そうにしていた。それを目にしたアレルは、メッサー達に何事も無ければ良いなと思う。
(連中も、結構危ない仕事してんだよな。大丈夫だと良いが······それはさて置き、朝飯は何を作るかな?)
他にも、悩まなくてはならない事は山積みになっている。それでも、今直ぐにやらなければならないのはアリシア達の空腹を、可能な限り美味い飯で満たしてやる事だとアレルは考える。
先々の事は考えなくてはならないけれど、かといって目の前の事も疎かには出来ない。だから、取り敢えず目の前の事を一つずつ片付けながら、先々の事も考えれば良いのだとアレルは割り切る事にした。そうしていれば、いつかは伸ばした手の先に辿り着く事も不可能ではないのだからと。
(それにしても、アリシア達に何も言わないってのも少し良くないよな。かといって、元黒羽根の話まですれば徒に怯えさせるだけだろうしな)
そう思いながら、アレルは何を話して何を話さないかを決定していく。
まず、元黒羽根の拉致疑惑に関しては話せない。可能性としては大分低いが、まだ別の可能性も残ってはいる。それに、例え拉致されていたとしても、こちらへ影響が無ければ取り敢えず怯えさせるだけの話をする必要は無い。
それとは逆に、街道の状況と国境付近の様子は教えておいた方が良いだろうと考える。何故なら、進む先の状況が判らないのにそのまま進むのは多少なりとも不安も感じるはずだからだ。
ただ、辺境伯に関する話は少し躊躇いが生じる。もし、アリシアへ辺境伯がほぼ味方だと話したとして、それを聞いたアリシアの態度からビットーリオ側へ辺境伯の意思が悟られるのは良くない。そうなって、辺境伯が動きづらい状況になってしまえば巡り巡ってアリシアの首を絞める事になってしまう。
(結局、話せるのは街道関係の話だけだな······)
こういう所が、アリシアに妙な表情をさせてしまう原因なんだろうなとアレルは考える。ただ、それもアエシュドゥスまで辿り着ければ隠し事をする必要もなくなるよなと、アレルは下を向かない様に自身を鼓舞してみせる。
(······本当に情けないな。でも、昼の仕込みとかも考えないといけないし、落ち込んでる暇も惜しいからな)
そうして、一先ずの対応を決めたアレルは、アリシア達のいる馬車へと戻る。すると、そこには表情どころか身体までもを石像の様に固めたミリアと、まるでその瞳を見ただけで石化させられてしまう神話上の怪物の様な眼光を放つメリルの姿があった。
(······髪の毛が蛇じゃないだけマシかな? まあ、こっちが怯えるとメリルも嫌がるし、普通にしないと)
やれやれと、そんな光景にも慣れつつある自身になんだかなと思いつつ、アレルは声を掛ける話題を選ぶ。
「おーい、アンネはまだ寝てるのか?」
「えっ? ······そういえば、少し遅いですね」
声を掛けられたメリルは、スッと瞬時に普段の表情に戻り辺りをキョロキョロとすると、それまで気にしていなかったのか不思議そうな顔をする。その傍ら、今回のものはやられ慣れていないのかミリアの回復が遅く、依然石像の様に固まってしまっている。
「そういや、瑠璃もまだ起きてこないな」
「言われてみれば······でも、あの二人が遅いっていうのも珍しいですね」
「まあ、疲れてんのかもしれないし、寝られる時には寝かせといてやろう」
「そうですね」
そうなると、アリシアと瑠璃が寝ている横で朝食の準備もなんなので、アレルは朝食の準備を二人が起きてからする事に決める。だが、そんな矢先ぐぅ〜っと近くの石像から妙な異音が響く。
その音に、アレルは視線を石像へ向けるも先程から眉一つ動かしていないのが判るだけで、随分と器用な事をしやがるなと思う。
「まったく······本当にこの娘は。すみません、こんなので······」
「ハハ······少しずつ慣れてきてるみたいだから、そんなに気にしなくて良いよ」
そうして、慣れって恐ろしいよなみたいな世間話で場を繋ごうとしたアレルだったが、そこへアレルの意識に直接語り掛けてくる声が届く。
──主様っ、申し訳ありませんでしたっ!
と、瑠璃が何故か謝りながら荷台の幌の隙間を縫って出て来て、真っ直ぐにアレルの前まで飛んでくる。その血相を変えた様子に、アレルは謝る様な事をされたかなと首を傾げる。
「えっと······まずは、おはよう瑠璃。それで、何で謝っているんだ?」
──あっ、おはようございます! あの······ルリは、夜も主様と夜番をすると言っていたのに、こんな朝まで眠りこけていて······。
瑠璃は、後悔の念を抱いているみたいで、アレルの前でシュンとした様子を見せる。それに、アレルは自身の指先を差し出して、瑠璃をそこに止まらせる。
「昨日の夜は、俺も寝ていたし夜明けの数時間前はクリスも代わってくれたから、瑠璃がそこまで気にしなくても大丈夫だよ」
──えっ!? そこの痴れ者が、主様のお役に立ったのですかっ?
そんな、瑠璃の相変わらずなミリアに対する評価に、アレルは苦笑いしつつもちゃんと事実は伝える。
「ああ、こんなんでも一応は役割をこなそうとしてくれてるんだ。少しは、認めてやったらどうだ?」
──うっ······はい、善処します!
瑠璃は、思わずアレルの指から離れて一瞬だけ嫌そうに身体を傾ける。だが、次にはくるりとアレルの前で一回転すると、まるで任せて下さいと言わんばかりに良い返事を返してくる。
しかし、アレルにはどこかそれは表面上の言葉だけにしか聞こえず、たぶん善処はしたけど無理でしたって言うつもりだなと思う。ただ、無理強いも良くないなと思うアレルは、そんな瑠璃に優しく微笑む。
「まあ、無理はしなくて良いからな。夜番も、クリスの事に関してもさ。でも、向こうの連中への説明が面倒だから、そろそろフードの中に隠れてくれないか?」
アレルは、残っている黒羽根達の方を示して言う。
──はい、解りました!
アレルへそう答えると、瑠璃は速やかにアレルの外套のフードの中へとその姿を隠す。そこへ、瑠璃とのやり取りを黙って見ていたメリルが声を掛けてくる。
「あの、ルリさんとは何を?」
「ん? ああ、夜番をすっぽかしてすみませんとか、もう少しクリスへの当たりを考えても良いんじゃないかとか、そういう──」
「おはようっ、皆! ごめんね、なんか私が最後だったみたいで」
と、アレルの言葉を遮ってアリシアが荷台からその姿を現す。そんな、言葉上では慌てた様子ながらも、ローブやその下の服も気崩れた様子が無いので、アレルが瑠璃と話している間に直していたのだろう。
ただ、そうして服を整えた上でフードを被って現れたアリシアに対して、アレルは何故か無意識に片足を半歩引いてしまうのであった。




