一章〜拠り所〜 四十九話 小銀貨二枚の価値
早めの夕食を終えて、カーペンターを後にしたアレルは、人気がなくなるまで時間があると判断して再び商業区の方へと足を伸ばす。
商業区では、既に営業時間が終了している所も少なくなかったが、これからが賑わう時間の商業区南側は楽しげな喧騒で大いに盛り上がっていた。
(確か、南側の居住区とも接しているんだよな。日当たりも悪くて、夜は騒がしい······なんか、長く暮らすと精神疾患でも抱えそうな感じだよな)
アレルは、居住区がある方に目を向けながら思う。
しかし実際には、南側の居住区──それも、商業区と隣接している区画には住民がそれ程多くはなく、そこに住んでいる者達の多くは歓楽街で働く者達だ。
そこでは、勤務時間が日暮れから深夜に及ぶ為日中に睡眠をとる必要性から、日当たりの悪い方が都合が良いと考える者もいる。職場が近く、日中は日が当たらない、それに家賃も安い。歓楽街で働く者達にとって、これ程都合の良い場所もないのだろう。
そういう事情で、元は住民の苦情から作られた歓楽街が理由で一部需要ができ、苦情も当時に比べれば存在しないと言ってもいい程に減っていた。
そんな事情を知る由もないアレルは、時間を潰す為に賑わっている方へと歩いていた訳なのだが、知らず知らずにその歓楽街へと足を踏み入れていた。
酒に女に金、トラブルに巻き込まれそうな要素しかない場所に迷い込んだアレルは、そういった場所を嫌っている事もあり、早々にその場を立ち去ろうとする。
──そうした直後の事だった。
「テメェ!? 商売女のクセにぃ、〜ィっく······口答えなんてェ、してんじゃねぇゾ!」
「キャアァァ!?」
アレルの眼の前で、赤ら顔で大柄な男が、えらく薄着の女性を突き飛ばしていた。
「この──」
そして、赤ら顔の男が感情のままに薄着の女を殴りそうになった瞬間──
「止めろ。事情は知らないが、女を殴るのは見過ごさない」
と、流石に我慢出来なかったアレルが、赤ら顔の男の振りかぶった腕を掴む。
「んだァ!? 関係ねぇ······奴がよぉ、〜ック、あ〜首を突っ込んでくるんじゃ······ねぇよオォ!」
赤ら顔の男は、そう怒鳴りつけながらアレルの手を力づくで振り解く。
その呼気からは、酒の臭いが強く漂い、アレルの不快感を更に高める。
「うるせぇよ、酔っ払い。あと、酒クセェから喋んな、口を開くな、呼吸もするな。さっさと、家に帰って寝てろ」
不快感から、言葉遣いが荒くなったアレルは、その憤りをぶつけるみたいに赤ら顔の男を罵倒する。
すると、プルプルと震え出した赤ら顔の男は、ギュッと拳を固く握り締める。
ただ、これを怒りに震えているのだと解っていても、アレルは更なる燃料を投下する。
「何だよ? 小便なら、トイレに行けよ。テメェが漏らすところなんて見たくねぇからさ」
瞬間、ブチッと赤ら顔の男の堪忍袋の緒が切れる音がした。
「ブッ殺すぞッ!! テメェ!」
赤ら顔の男は、右腕を耳の後ろまで引いて、アレルを殴ろうと襲いかかる。
だが、それは俗にいうテレフォンパンチといったもので、そんな大振りのパンチがそうそう当たるわけもなく、パンチの瞬間アレルは赤ら顔の男の懐に潜り込む。
それからアレルは、曲げた膝から伸ばした際の力を上半身へ、上半身から右腕へとスムーズに伝え、赤ら顔の男の顎下を掌底で突き上げる。
「グペッ!?」
マヌケな声を漏らしながら、顎下を突き上げられた赤ら顔の男は、その衝撃に堪らずたたらを踏む。
それにアレルは、見下げた視線を送る。
「何だ? 舌でも噛んで、死んでくれれば楽だったのに」
「······この野郎ォォッ!!」
アレルの余計な挑発に、最早冷静さなど微塵もない赤ら顔の男は、闘牛の様にアレルへと向かってくる。
右左、右左と、わざわざテンポ良く交互に力任せなパンチを繰り出す赤ら顔の男に、アレルはまるでリズミゲームでもしているかの様に、飄々とそれを躱し続ける。
その間、アレルは下肢へのローキックや顎下への掌打を繰り返す。しかし、赤ら顔の男が大柄なのとアルコールが入っているせいか、その効果は薄い。
(クソッ、無駄に耐久力が高いな。かといって、酔っ払い相手に身体強化なんて使えないし······そうなると、最後が酷い絵面になるかもだけど、仕方ないか)
アレルは、そうして赤ら顔の男のパンチを避けながら、気乗りしない方法を覚悟する。
「このッ、ウロチョロといい加減に──」
すると、絶好のタイミングで痺れを切らせた赤ら顔の男が、一際大きく利き腕を引く。
それとほとんど同時に、アレルは沈み込みながら赤ら顔の男の懐へ飛び込む。
そして、今度は先程とは違い、アレルは拳を固く握り締めてアッパーの要領で伸び上がる。
──ボゴォ!
直後、固い拳を赤ら顔の男の鳩尾に抉り込んだアレルの手からは、やたらと鈍い感触が返ってくる。
「ウッ······グエェェッ」
アレルの攻撃に、一歩二歩と腹を抑えながら後退る赤ら顔の男は、身体をくの字に曲げる。
それから、赤ら顔の男は足を止めると、突然何の前触れもなく白目を剥く。
(あっ、やべっ)
赤ら顔の男の様子から、後の反応が予測出来たアレルは、飛び退いて赤ら顔の男から大きく離れる。
そのすぐ後、赤ら顔の男の両頬が膨らんだかと思えば、赤ら顔の男はそのまま口腔に溜まった胃の内容物を吐き出した。
ビチャビチャビチャ、と自身の足元に吐瀉物の水たまりを作った赤ら顔の男は、気を失っているせいか四肢から力が抜けて自らが作ったそれに頭から倒れ伏せる。
「うわぁ······」
その様子に、ドン引きしながらも、アレルは赤ら顔の男が呼吸出来ているのを遠目に確認する。というのも、気を失っていると吐瀉物が気道を塞ぎ、窒息する事もあるからだ。
ただ、その可能性がない事が判ったアレルは、尻餅をついたまま成り行きを見守っていた薄着の女性に手を差し伸べる。
「怪我はないか?」
「あっ、はい。大丈夫です」
薄着の女性は、アレルの手を取るとそのまま立ち上がる。
その際、アレルの鼻腔を錆びた鉄の様な匂いが掠める。
「ん?」
一瞬、薄着の女性が怪我を隠しているのかとアレルは思ったが、見た感じそんな様子は見られない。それ故に、アレルは薄着の女性の容姿がそんな幻覚を運んだのだと判断する。
──その肩より少し長い、酸化した血液の様な赤黒い赤褐色の髪色によって。
「あの、ありがとうございました」
そうして、アレルが自身の思考に沈んでいたところに、薄着の女性が頭を下げる。
それに、アレルは忘れないうちにと、サイドポシェットから手探りで小銀貨を二枚手に取る。
「悪かったな、客を一人駄目にした」
そう言って、アレルは手にした小銀貨ニ枚を、薄着の女性に手渡す。
「えっ!? これは、どういう······?」
薄着の女性は、そんなアレルの行動の意味が解らずに困惑してしまう。
対して、アレルは勘違いさせない様に努めて冷静に話す。
「別に、アンタを買おうって訳じゃない。客を一人駄目にした、賠償金みたいなものだ。一人分が、どの程度か知らないが足りるか?」
「あっ、そういう······はい、それならば問題ありません」
アレルの意図が理解出来たのか、薄着の女性は遠慮がちにアレルから受け取ったものを懐に仕舞う。
(······場所と格好から察するに、街娼ってやつか? ちゃんとした店に所属すれば、こんな事に巻き込まれる事もないだろうに。まあ、色々事情があるんだろうな)
アレルは、薄着の女性の仕草を見ながら、そんな事を思う。
「まあ、お節介なのは分かるが、そういう仕事をするなら自衛の手段ぐらい確保しておけよ」
「あっ······はい、そうですね。気を付けます」
余計なお世話のアレルの忠告ではあったが、薄着の女性は本当に申し訳なさそうに答える。
その言葉を受けて、アレルは倒れている赤ら顔の男はそのままでいいかと放置して、薄着の女性に背中を向ける。
「ソイツの事は、放っておけよ。じゃあな」
そう最後に言い残し、アレルはその場を立ち去った。
(まったく、アリシア達といいパメラといい、女難が続くな)
と、アレルは自身のめぐり合わせを呪いながら、夜の街へと歩いて行った。




