一章〜非望〜 四百三十話 変化を受け入れて
身体の支配を取り戻したアレルは、ようやく自身と周りの状況を確認出来る様になる。目の前には唖然とした表情を向けているロバート、足元には足の周りだけ放射状に倒れた雑草、見上げた空にはやけに高く感じる雲が漂う。
まるで、直前までの体験が全て夢の中での事だったみたいに、五感で感じる現実が不確かな感覚を洗い流していく。ただ、酷く疲れたと感じる精神的な疲労だけが、マスラオを始めとした経験が夢ではなかった事を物語っている。
そうして、状況の整理を済ませたアレルが終わったと感じた途端、四肢から急激に力が抜けてその場にペタンと尻もちをつく。更に、そのまま座っている事すら出来ずに、アレルは動かなくなった四肢を投げ出して仰向けに倒れる。
「アレル様ッ、大丈夫ですか?」
そこへ、マスラオと対峙していた時とは違い、クラウスを装う余裕が出てきたロバートが駆け寄ってくる。でも、アレルの方は妙に清々しい疲労感に加えて首すらまともに動かせないので、天を仰いだままの状態で応える。
「······一応、大丈夫って言えば良いのかな? 身体がピクリとも動かない以外、特に問題はないし」
「その、身体を動かせないというのが問題なのでは?」
「いや、これもマスラオが俺の身体を使った反動なんだろ······しばらくすれば、動けるようにもなるさ」
確かに、マスラオは言っていた。反動は、決して傷付けるだけのものではなく、ましてや命を脅かす様なものでもないと。それならば、少し休めば動ける様にもなるだろうとアレルは呑気に笑みを浮かべる。
共に在ると、鋼は打たれる事で強くなると、焦らなくても強くなれると背中を押す様に消えていったマスラオの言葉が、昨日からアレルに纏わりついていた曖昧な不安を払拭してくれている。それも、まるでその豪快な笑いで笑い飛ばされてしまったみたいな軽やかさだけを残して。
それ故なのか、アレルはどこか安堵にも似た気持ちに包まれ、身体が動かない状況にも関わらず口元には笑みが浮かぶ。でも、それは傍から見ていたロバートにとっては気味の悪い事だったのかもしれない。
「本当に大丈夫なのでしょうか?」
アレルの顔を覗き込み、身体の心配というよりもどこか頭の心配をしているみたいな物言いをしてくるロバート。それに、多少気分を害されたアレルは、いつもの調子で皮肉屋の一面を覗かせる。
「よく言うよ、マスラオに良いようにやられてたくせに」
「マスラオ? 先程まで、私が相手をしていた御仁のお名前でしょうか?」
「聞いてなかったのか? ······そういや、悪魔か何かと勘違いしてやたらと殺気立ってたもんな」
アレルは、そう言ってロバートがマスラオの名前を聞いていなかった理由を決めつける。ただ、その姿をアレルの視界に入れたロバートは、アレルから視線を外して空を見上げる。
「······確かに、最初こそは殺気立ちも致しましたが、アレル様の身体を通してその強さが私などでは届きようもない場所にあるのだと思い知らされました。そういえば、反動が治まったら教えてやってくれと言われた事がいくつか御座います。なので、この後のお楽しみにして下さい」
それは、本当に楽しみになるのかと、アレルは午後から始まったロバートとのやり取りを思い出し不安になる。ただ、それよりもアレルはロバートの話から気になる言葉を拾って訊き返す。
「なあ、マスラオは腕を組んだまま何もしてなかったよな? そんなんで、マスラオの強さなんて判るのか?」
「充分過ぎる程に、で御座います。あれは、一見完全防御に見えましたが、おそらく本来の目的は攻撃への転用でしょうね。まあ、それがどの様なものなのかは見当もつきませんが、準備段階で遊ばれていたのは確かで御座います」
「ロバートが、そこまで言うなんてな」
接していた感じ、マスラオからは確かな自信と経験に裏打ちされた安心感が感じられた。更に、あのあけすけな笑い声のお陰で妙な不安や警戒なんてものも纏めて吹き飛ばされた感じすらしている。
そんな事を思うアレルは、不意に一言だけ漏らす。
「······もう少し、ちゃんと話してみたかったな」
「あの······アレル様は、心の中というか精神の中と表現するのか正しいのか······とにかく、ご自身の中で対話をされていたのでは御座いませんか?」
「ああ、話はしていたよ。でも、互いの事を話している暇なんてなかったからさ。······まあ、そのうち話す機会もあるとは思うけどさ」
そうして、晴れやかな笑みを浮かべるアレルだったが、そのアレルのどこかを不思議に思ったのかロバートが再び顔を覗き込んでくる。
「あの、アレル様······驚かずに、聞いて頂きたいので御座いますが」
「ああ、何かマスラオから伝言でも預かったか?」
「いえ······いや、それも御座いますが······その、アレル様の瞳の色がほんの僅かに琥珀色掛かっております」
「は?」
何の冗談かと、アレルは素っ頓狂な声を漏らすが、動けないアレルの前にロバートは懐から取り出した掌に収まる程度の大きさの鏡を向けてくる。丁度、瞳の見える位置に出された鏡に映し出されたものにアレルはその顔を驚きに染める。
パッと見は、確かに黒瞳と言える色味をしたままだ。しかし、中庭に差し込む日差しがアレルの顔を照らすと、その光を反すみたくアレルの瞳は僅かに琥珀の輝きを宿す。
「······マジか」
今までは、こんな所に気付く事は無かったし誰かに言われる事も無かったので、アレルは先程の経験が身体に及ぼした影響なのだろうと思う。ただ、変化してしまったのなら仕方ないと割り切るも、他にもどこか変化していないか気になりアレルは身じろぎするが未だ身体は動かせない。
そんなアレルの様子に、何かを察したロバートは一通りアレルの身体を観察してくる。直後に、ロバートは安堵なのか呆れなのか判別しづらいため息を吐く。
「一応、外見からはこれといった変化は見られませんよ」
「そっか······なら、良いんだけどな」
そう呟くアレルは、無理に動かそうとしていた身体から力を抜いて軽く息を吐く。
「あの、何故そこまで気にしておられるのでしょうか? 確かに、自らの身体に変化が現れれば驚く事ぐらいは解りますが」
「······変化なんてあったら、無駄に心配させるかもしれないだろうが」
自惚れかもしれないが、そんな目に見える変化があったならアリシアと瑠璃が騒ぎそうだと感じる。それに加えて、メリルなんかは原因を調べるとか言い出しかねない。そう考えるアレルは、瞳以外に目に見える変化が無くて心底安堵する。
「アレル様は、本当にご自分よりも他者の事を最初に考えられますね」
「うるせえな」
どこか皮肉めいたロバートの一言に、アレルは不貞腐れた反応を返す。ただ、そうしていながらも、アレルは心の中で自らの変化について考える。
マスラオの言葉が正しいなら、この先アマデウスとしての力が発現した際にもこれまでより大きな反動がある事が予想される。しかし、それはアレルを鍛える為のものでもあるという言葉もあったので、その反動の増大自体がマスラオの用意した枷によるものの可能性も残っている。つまりは、自身の成長次第で反動を抑えられるかもしれないという考えにも繋がる話だ。
全ては可能性で、今は何一つ確かな事は判らない。それでも、どこか前向きに物事を考えられる様になったのは些細な事は豪快に笑い飛ばす、そんな誰かの影響なのかもしれないとアレルは思うのであった。




