一章〜非望〜 四百四話 深淵の底は未だ見えず
まずは、左手でのナイフ投げの習得に取り掛かる。最初は基本形として、柄を持った投げ方で的の近くから無回転で刺さる様に投げる。それで、上手く的に刺さったなら一歩から三歩程離れてもう一度同様にして投げる。
それを繰り返して、的に刺さらなくなった所でその投げ方はどの程度離れても大丈夫かを記憶してから、ナイフの持ち方を変えて再び的の近くから同様の事を繰り返す。その一連の流れを、左右の手で覚えた持ち方の全てで試していくと何となくではあるが、アレルは的に刺す感覚と自身の得意不得意が理解出来る様になってくる。
「成る程、アレル様はやはり存外良い感覚をお持ちで御座いますね」
「そうなのか?」
「ええ、昨日鋲を投げた時は才能の欠片も無いと思いましたが、獲物がナイフになったらそれなりになられました」
鋲に関して酷い評価を受けながらも、アレルはあんな特殊兵装に分類される物なんて初見で使いこなせる奴なんているかと、心の中で文句を言う。ただ、自身の当て感が褒められた事に関してだけは素直に嬉しさを感じる。
ところが、続くロバートの言葉で、アレルはそれがぬか喜びだった事に気が付き激しく後悔する。
「では、射程距離が倍になるまで、同じ事を反復致しましょうか」
「······」
それも、さも当然の如く冗談ではない事が解る様にロバートは平然と的に刺さったナイフを回収してくる。
対するアレルは、既に疲労が腕に溜まりつつあるので、ロバートの鬼畜とも思えるやり方に絶句する。しかし、ここで何かを口にしようものなら、更なる地獄を目にする事になりそうだったのでアレルは口を噤む。
「それでは、持ち方を最初に戻して先程刺さらなくなった位置から始めましょう」
「······ああ」
アレルは、湧き上がる文句の数々を呑み込んで、再びナイフ投げに没頭する。ただ、先程までと違うのは両腕に疲労が溜まっている事だ。今までの様に、腕の力を頼りに投げても力が入り切らずに途中で軌道が歪んでしまう。
そうして、急に刺さらなくなったナイフに、アレルは一度瞑目して自身の身体の状態へ意識を向ける。
(クソ······剣の素振りなら、ここまで腕が重く感じる事なんてないのに、どうしてなんだ? やっぱり、普段使わない筋肉を使っているから余計に疲労が溜まるのか? ······もういい、この際だから腕が疲れない様に力を抜いて投げてやれ)
そう思ったアレルは、目を開くと一度腕をだらりと脱力させてから投擲の構えを取る。込める力はナイフを支える指先と、腕を振る一瞬とナイフの軌道を固定する瞬間だけにする。
そんな投げやりな方法で、腕をしならせシュッと素早く投げたアレルは、その結果に驚きの声を上げる。
「は······何で?」
そうして投げられたナイフは、それまでよりも速い速度で的まで迫りドスッと鈍い音と共に、これまでで最も深く的に突き刺さる。その結果に対して、呆然としているアレルにしばらく黙って見ていたロバートがようやく声を掛けてくる。
「余計な力を抜いたからで御座いますよ」
「どういう事だ?」
アレルは、理由を知っている口振りのロバートに問い返す。それに、ロバートはフフッと実に愉快そうな笑みを返す。
「実のところ、アレル様は最初から力み過ぎだったのですよ。本来なら、そんな状態ではまともに刺さらないというのに、力任せでバスバス当てるのでどの様に指摘するかで悩みました。まあ、結局腕が上がらなくなるまでやって頂ければ良いかと思い、黙っていたのですがね」
ロバートは、アレルが失敗し続けていた理由を話すも、アレルはそのどこか皮肉めいた話し方に直感が働く。
「······あっ!? お前、さっき褒めたのも皮肉だったんだろ?」
「おや、お気付きになられましたか? ですが、本当にアレル様は良い感覚をお持ちだと思いますよ。レイラとジーナなどは、腕が上がらないと口にしたりコツを教えろと煩かったですからね。まあ、その点アレル様は自らコツを掴みなさったので、二人よりは良いものをお持ちで御座います」
「言っとくけど、さっきの今ではもう騙されないからな」
「騙すつもりなど御座いません。ただ、ちゃんと説明をするならば余計な力が入っていると、却ってナイフは的に刺さりづらくなりますし、速度も落ちてしまいます。更に言うと、それは回転させて投げる際には如実に表れます。ですが、ご自分で気付かれたのですから、今後その感覚を忘れる事も無いでしょう?」
「······まあな」
ロバートの言う事は、アレルにも簡単に理解出来る。要は、自転車と同じ理屈なのだとアレルは思う。
初めて補助輪無しで自転車に乗る際、ジャイロ効果で回転する物体は速度が増す程にそのままの状態で回転し続けようとする力が働くから、余程の事がない限り転ばなくて済むと説明されても実際には乗れないだろう。中には例外もいるだろうが、理屈だけを説明されても実際には行えない事の方が多い。
だからこそ、何度転ぶ事になろうとも身体で覚える事が重要であり、そうして覚えた事は忘れる事が無いのだとアレルは思う。つまり、ロバートの言う事はそれと同様の事を言っているとアレルは理解する。
「では、正しい投げ方を身体で理解したところで、再び最初から全ての持ち方でナイフを投げていきましょうか」
「······は?」
そこで、再びアレルの投げたナイフを回収してきたロバートが、さも当然かの如くアレルに反復練習を強いる。そんなロバートに、無理解な表情を向けるアレルは流石に一言文句を言う。
「いや、そこは回転させる投げ方に移るところじゃないのか?」
「アレル様こそ、何を仰られているので御座いますか? 覚えたてだからこそ、数をこなして精度を高めるべき時なのです。さあ、要領が掴めればナイフだけでなく剣でも槍でもお構いなしに投げられる様になりますので、どんどん投げていきましょう」
「ああ······今日中に、そこまでいければ良いよな」
一切の譲歩を見せないロバートに、全ての抵抗を諦めたアレルはコツを掴んだぐらいでは地獄の一丁目は抜けられないのだと悟る。最早、これは精神の修業である禅に繋がる何かなのだと割り切り、アレルは無心でナイフを投げ続ける。
手元のナイフが無くなれば、速やかにロバートによって回収された物が即座に補充される。その際に、もう良いとも止めろとも言われないのでアレルはこれがロバートの満足するまで続けられるものなのだと思う。なので、アレルは自分はスイッチを切られるまでナイフを投げ続けるロボットなのだと自らに言い聞かせる。
そうして、アレルの中で時間の概念が極限まで希薄になり始めた頃、不意にロバートからナイフを一本投げ渡される。
「アレル様、正面の的へ」
ふわっと、山なりに投げられクルクルと回転しながら自身に向かってくるナイフがアレルには止まって見える程にゆっくり感じられる。なので、適当にそのナイフの刃先を指で挟んで、アレルはそのまま正面の的へと投擲する。
──ドスッ!
「お見事で御座います」
無意識な上に反射で行った為か、その動きは一切の無駄が無く流れる様な速さだったので、アレルは自分の事ながら自身で行った感覚が薄く戸惑ってしまう。だが、地獄の鬼コーチ状態のロバートには、そんなアレルの状態など関係はなかった。
「アレル様、今のが出来たのならば一先ず基礎は習得出来たと考えてよろしいでしょう。無意識下で、咄嗟に行えてこそ実戦で役に立つというもので御座いますからね。さて、それでは続けてアレル様がお望みの回転させる投げ方へと移りましょうか」
その言葉に、休憩もないのかとか腕も上がらないんだがとか一応の文句はあるアレルだったが、どうせ口にしたところで更なる地獄が待っているだけだとして何も言わない事にする。そうして、ロバートの言葉に無言で首を縦に振ったアレルは、そのまま地獄の二丁目へと足を踏み入れるのであった。




