一章〜出逢い〜 一話 記憶喪失とフード女
──あの時、私が助けを求めなければ、こんな結末にはならなかったかもしれない。
でも、あの日をやり直せたとしても、出逢わないという選択が出来ない自分を、きっとこの先も──
──私は、許す事が出来ない。
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よく馴らされた、土が剥き出しの幅広な道。広がりを遮る高層建築が一切存在しない、何処までも蒼い空。澄みきった空気に、草木が風に揺れる音だけが鼓膜を揺らす。
そこには、その場に佇む青年がよく知るコンクリートで舗装された道路も、背の高い高層ビルも、公害で汚れた空気に鬱陶しい街の喧騒も無かった。
青年は、自身の両手で身体中を確かめる。
履き慣れたスニーカーにジーンズ、ロングTシャツの上から半袖のシャツを羽織っている。手荷物はなく、ジーンズの右後ろのポケットには財布が入っている。
青年は、その自身の様子から、コンビニにでも行くつもりだったのだろうと推測する。
そこまで考えて、一度天を仰ぎ見る。そして、青年は自身の現在地よりも重大な事を呟いた。
「俺は──誰だ? 何処で何をしていたかも、自分の名前すら思い出せない」
青年は、頭を抱えて蹲る。
自分が日本人で、どんな文化圏で暮らてきたかは解る。所謂、一般教養ならば覚えているが、自身に関する記憶だけがごっそりと消失してしまっている。
「まあ······思い出せないなら仕方ない。現状をどうにかしよう」
青年は立ち上がり、再び辺りを見渡す。
そして、青年は思う。ここは、明らかに日本ではない。
何故なら、辺りの植物が日本で植生していない。加えて、空を飛ぶ鳥も大きさは青年が知るものと大差がないが、その羽根は見たことのない配色をしている。
(······タイムスリップは無いな。絶滅したものの中にも、見える範囲の動植物は存在しなかった筈だし······未来に跳んだって感じもない。だとすると、別次元······パラレルワールドもしくは異世界転移か? まあ、何にしろ俺は途中でとんでもない『落とし物』をしちまったって事だな)
青年は、諦めがちに空を見上げる。
(とにかく、情報収集のためにも動くしかないか······)
青年は、おもむろに財布からコインを取り出して、親指で真上に弾く。
表が出たなら右へ、裏なら左へ向かう。
そう決めた青年は、その動作が余りにも自然過ぎた為、きっと自分はこんな風に適当に物事を決める様な人間だったのだろうと感じた。
「······表、右だな」
青年は、コインを財布にしまい、コインが指し示した方角へ歩き始めた。
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角の生えたウサギ、尻尾で胡桃の様なものを叩き割るリス、カメレオンの様に景色に溶け込むアライグマだかタヌキの様な謎生物等々、林道に入ってから早々に自身の常識を粉々に砕ききった生物達に、青年は辟易していた。
この流れで、胴体がなく頭から手足が生えている人間がいる様な世界だったら、本当に嫌だと青年は思う。ましてや、言葉も通じなかったら、出会って五秒で戦争だと肩を落とす。
──ガサガサッ
すると突然、青年に向かって物音が近づいてくる。その物音は、まるで二足歩行の生物が、がさ藪を駆けている様な、何かから逃げている様な感じのするものだった。
青年は、万が一の為に何が出てきてもいい様に身構える。身体を半身に、重心をやや後ろに掛けて、すぐに逃げられる体勢をとる。
──ガササッ、ドサッ!!
がさ藪から姿を現した物音の主は、抜け出す際に躓いたのか、青年の前に両手と両膝をつく形で転がり出てきた。
それは小柄で、骨格から子供か女性。しかし、地味なローブで全身を覆った上に、フードまで被っているので、どちらかまでは判断出来ない。
ただ、人間である事は間違いない。
「ハァ、ハァ······早く、誰か──」
フードの人物は、両手両膝をついたまま呟く。
その声から、女性である事、それと相手の言葉が理解出来る事を、青年は確認した。
青年は、警戒しつつも、声を掛けるべきか悩む。
もし、ここが日本で記憶喪失でなかったなら、手を差し出して気遣う言葉を掛ける事も出来ただろう。
しかし、ここは日本ではない。平和ボケが、死を招く危険性がある。
もしかしたら、相手は一見普通の女性に見えるが、挨拶代わりに『貴方の命を頂戴、ワタシお腹ペコペコなの~』とか言ってくるクレイジーでサイコな人物の可能性すらある。
さてどうするかと、青年が思った時だった。
それまで、両手両膝をついたまま息を整えていたフード女が、顔を上げて青年の存在に気が付いた。
「······人? 騎士鎧も身に付けていない? ······あの、急に不躾な事をお願いしますが、どうか私達をお助けくださいッ‼」
「······はぁ?」
青年は、間抜けな声を出して首を傾げる。
(まず、フード女の置かれている状況が判らない。次に、『私達』と言ったが、俺の前にはどう見ても一人しかいない。更には、仮に彼女達助けるとして、何から助ければいいか分からない)
そんな状態では、首を縦に振る訳にはいかないと、青年は思う。ただ、フード女が切羽詰まった状況だと言うのだけは、青年にも理解出来た。
「あのな、一つだけいいか?」
「はい」
「まず、人に対して何か頼むなら、フードくらい脱いだらどうなんだ?」
何故か、青年には現状に関わらず、その礼儀を失した態度が気になった。
青年は、もっと訊くべき事もあるだろうに、頭の硬い頑固親父かと、自身にツッコミを入れる。
「これは······仰る通りなのですが······」
フード女は、正座の様な体勢のまま、まるで脱がされんと抵抗するみたいに両手でフードの端を握り締める。
そして、フード女はそのまま縮こまる。その縮こまった様は、まるで自身がいじめているかのような罪悪感を、青年に抱かせる。
その居た堪れなさから、青年は自身が折れた方が早いなと確信する。こうして、警戒されたままでは、フード女も何も話してはくれないだろう。
そう思った青年は、自身から先に警戒を解き、危害を加える気がないと示す為に、両手を上げる。
「そんなに嫌なら、そのままで構わない。······どうせ俺は、どっかで自分の記憶を落とした間抜けだ。アンタが、手配中の極悪人だろうと、逃亡中の逃走犯だろうと、分かりはしないからな」
「記憶喪失······本当に?」
青年に、記憶がない事を知ったフード女は、フードの端を握る力を弛め、青年の顔を見上げる。
「初対面のアンタに、嘘を吐くメリット······利益が無い。だいたい、この道の先に何があるかも分からないで歩いている」
青年は、自身が向かっていた方角を指差して言う。
すると、フード女はゆるゆると立ち上がり、首を傾げる。
「······確か、この先は林を抜けると、立入禁止の危険区域しかありませんよ?」
「えっ⁉ 嘘だろ? うっわぁ······適当に歩けば、町か村にでも着くかと思ってた」
青年は、ここで初めて気が付く。
ついさっき、平和ボケがどうのと思っていたにも関わらず、道の先に町村があるという考えこそが平和ボケそのものであったと。
まさに、顔から火が吹き出しそうだったが、フード女が知らない事をいい事に、青年はポーカーフェイスを貫き通す事にした。
「······プッ、フフッ······記憶が無いというのは、本当のようですね。この先には、コルトという有名な街がありますよ」
フード女は、軽く握った手で口元を隠して上品に笑いながら、自身が語った嘘を訂正する。
「······」
青年は、フード女の言うことを素直に信じた自身の迂闊さと、フード女の強かさに憤りを感じて、ジト目を向ける。
そして、この女の強かさがあれば自分の助けは不要だろうと思い、その場から青年は立ち去ろうと決心した時だった。
──ガシャ、ガシャ
草木を掻き分ける音よりも、厚い金属同士が擦れ合う重々しい音が、青年達に近づくのが聞こえた。
青年が、耳をすまして音の出所を探り、それがフード女の後ろからだと気付いた、まさにその瞬間だった。
「キャア!!」
「見つけたぞッ、逆賊アリシア!!」
悲鳴と共に、フード女──アリシアと呼ばれた少女が、薄がりから伸びた手に、片腕を掴まれていた。
青年が、アリシアを捕えた手の先を目で追うと、金属鎧を身に着けた大柄な男が姿を現した。
「フハハハ、この女を連れ帰れば、ようやく俺も本物の騎士に──」
「おい、放せよ」
「グフオォォ!!」
青年は、アリシアが悲鳴をあげた瞬間、アリシアを捕える鎧男に詰め寄る。
そして、鎧男が被る兜が目元を晒すタイプなのをいい事に、その両目目掛けてチョキを繰り出した。
──所謂、目潰しだ。
鎧男が、アリシアしか見ていなかったせいか、青年の目潰しは鎧男にクリーンヒットした。そして、鎧男はアリシアの腕を放して、叫びながら両手で目を覆う。
その隙に、青年はアリシアを自身の背に庇い、鎧男と対峙する形を取る。
「あの······今のは?」
「あ? 今のは、さる高名な武道家に育てられた異星人が、その幼少時に編み出した闘法の一つだ。ちなみに、全部で三つある」
「イセイジン? あの、何でその事は覚えているのでしょうか?」
アリシアは、自身が襲われた状況だというのに、随分くだらない事を訊くのだなと、青年は思う。
「知らん。自分の事に関しては、一切覚えてはいない。それに、この辺の地理や世界情勢なんかもサッパリだ。虫食い状態の記憶で、どうでもいい事ばかり残ってんのかもな」
「そうですか······」
そう言ってアリシアは、青年を盾にするみたいに鎧男から身を隠す。
「き、貴様ァ!! その女の捕縛が、王の勅命だと知っての狼藉かぁ⁉」
アリシアが青年の背に隠れた直後、鎧男は涙目になりながらも腰に携えた騎士剣を抜き放ち、その切っ先を青年に向けて叫ぶ。
狼藉なんて言葉、時代劇でしか聞いた事ないなと、青年は刃を向けられているにも関わらず、呑気に構える。
(コイツがその気なら、剣を抜くと同時に斬りかかってくればいい訳で、それをしてこない以上ビビる必要はない。剣は、戦う為のもので脅しに使う様なものではない。それが、解っていないコイツには、そこまでの脅威を感じない)
そこに、しびれを切らした鎧男が声を上げる。
「ええい、何とか言ったらどうなんだぁ!!」
「何とか」
「!!!!!!!!」
青年の挑発に、鎧男は顔を真っ赤に染め上げて、騎士剣を握る手を激しく震わせる。
「可笑しな格好だからと、出方を窺っていれば調子に乗りおって······ならば、望み通り斬り殺してやるわぁ!!」
「──ッ!?」
鎧男の怒声と共に、その手に握られた騎士剣が、振り上げられた事で反射した光を煌めかせる。
同時に、鎧男と青年のやり取りを静観していたアリシアは、血が流れる事を予期して咄嗟に目を背ける。
そんな中、全体を俯瞰していた青年は、鎧男の影の中で何かが蠢いた事に気付く。
何故かは解らない。
解らないが、影の中で蠢く『それ』は、自分を斬ろうとしている鎧男なんかよりも余程危険なものだと、青年自身の本能が警鐘を鳴らしている。
そして、『それ』の狙いが判った瞬間、青年は咄嗟に叫んだ。
「ッ!? 剣を捨てろっ!!」