自由を歌う鳥*2
その日の内に、材料が集まった。
風のエレメントのためのアカシアの綿毛は無かったが、中庭に面した食堂の換気扇のあたりを見てみれば、そこに巣を作っているらしい鳥の羽が落ちていたのでそれを使う。
水のエレメントはグレンのシャツのボタンだ。白蝶貝はエルヴィス曰く『上等な水のエレメントをたっぷり含んでいて、しかも安定してる!』とのことだったので、上手く働いてくれるだろう。
そして、それらに合わせて、以前グレンが持ち帰ってきたローズヒップを使う。
薔薇は、枝は火の要素を含むらしいが、花には水の要素も含むらしい。そして、果実には当然、水の要素が含まれる、と。
既に乾燥してしまっているローズヒップだったが、それでもその香りと酸味に多少は水のエレメントが残っているらしく、粉にして水で練れば、魔法の模様を描くためのインクとして使えるようになった。
決行は、週末だ。
自由時間を得た2人は中庭で落ち合い、そこでキャッチボールなどをして暇を潰す囚人達を眺めつつ、できる限り高い場所へと向かう。
「できれば刑務所の外に出たいところなんだがなあ。高い木に登れば、成功しやすいのに」
「まあ、流石にそれは難しいさ」
2人はまず、洗濯室へ向かった。そこでは既に洗濯のための魔導機関が稼働し終わっていた。今日の洗濯当番は、今日の仕事をもう終えているらしい。
「この扉を開けるの、久しぶりだな」
がらんどうの洗濯室を通り抜けて、エルヴィスが手を掛けたのは、扉。屋外へと続く、扉である。
「開けたこと、あるのか」
「そりゃあな。31年前は洗濯魔導機関なんて無かったから。洗濯当番はでっかい鍋に湯を沸かして、石鹸を煮溶かして、そこで服を煮て……って洗濯してたんだぜ」
エルヴィスはけらけらと笑いながらそう話す。グレンにとっては、遠い過去の話だ。グレンが生まれるより前の話など、聞いても現実味が無い。それと同時に、やはり、このエルフが200年以上生きているということについても、どうも実感できないのだ。想像がつかない、と言うべきなのかもしれないが。
「で、苦労して洗った服を干すのはこっち、ってわけだ」
エルヴィスが押すと、扉は、ぎぎぎ、と盛大に軋みながら開いていく。
……開いた扉から、ひゅう、と風が吹き込んできた。そして、扉の向こうに、青空が広がっている。
エルヴィスが扉の外へ出ていくのを見て、グレンもそれに続く。扉の外には錆びた鉄板でできた階段があり、どうやら、建物の壁に沿うようにして階段が伸びているらしいことが分かった。
かつん、かつん、と、鉄板を踏む音を響かせながら、2人は上へ上へと進んだ。赤錆びた鉄階段はなんとも頼りなげだったが、2人の体重をきちんと支えていてくれた。
階段を上がっていくにつれ、視界はどんどん広くなっていき、青空がより近く、より美しく見えるようになる。ひゅう、と時折強く吹く風も、どこか爽やかに感じられる。
「……いい眺めだな」
何故だか、現実味の無い光景だった。グレンは、そういえばこんなに広い空を見るのは久しぶりだ、と思い出す。
グレンが見る青空は、中庭から見るものだ。四角く、刑務所の建物によって切り取られた空。見上げればそこにあるが、同時に自分が閉じ込められていることを実感させられるような、そんな空だ。
このように、遮るものなく空を見るのは何時ぶりだろう。奉仕作業をしに刑務所の外へ出た時には空を見ることもできたはずだが、あの時はとにかく植物探しに必死で、空を見る余裕なんて無かったようにも思う。
春先の空は、どこかぼんやりと優しい色合いをしている。吹き抜けていく風はまだまだ冷たいが、どこか、春めいた香りを乗せているようにも思われた。
久しく感じていなかったこれは、きっと、開放感だ。
グレンは思わず笑みを漏らしながら、エルヴィスの後に続いて、階段を上がっていった。
「ここ、囚人が立ち入っていい場所なのかな」
「ん?まあ、禁止されてないんだからいいだろ。少なくとも洗濯魔導機関が導入されるまでは出入り自由だったからな。まあ、それを知る奴ももう、死ぬか出所するかしちまったから、皆に忘れ去られてるわけだが……」
2人はそんな話をしながら、屋上を踏んだ。
屋上は広々として、ほとんど何も無い。一応、転落防止の柵が設けてあるのと、すっかり錆びついた物干し竿の残骸がいくらか転がっているのと、それくらいだ。他にあるものといえば、上に広がる青空だけ。空がどこまでも、美しかった。
かつてここで洗濯物を干していたというのならば、きっとさぞかしいい眺めだっただろう。強い風に翻る洗濯物は、きっと、青く広い空によく映える。
「さて、早速始めるか」
エルヴィスは深呼吸の後、早速、屋上の床に魔法の文様を描き始めた。
ローズヒップと水で作ったインクと、鳥の羽で作ったペンで、複雑な模様が描かれていく。芸術のようなそれを見て、グレンは感嘆のため息を漏らした。エルフが使う魔法というものは、なんとも神秘的で美しいものだ。
「よし、それじゃあ、この上に……と」
そして、その上に白い粉を練って作ったインクで、模様が描き加えられていく。この白い粉は、かつてグレンのシャツのボタンだった白蝶貝だ。
「この模様、雨に流れてしまわないか?」
「ん、大丈夫だ。雨を受けたらむしろ活性化するようにしておいた。魔法ってのは繊細なもんだが、壊れやすいってわけでもない。丈夫に作ろうと思えば丈夫に作れるもんさ」
エルヴィスはそう言いつつ、恐らく、補強のための魔法なのであろう模様を、こちらは土や砂、そしてナツメグの粉やジャガイモのでんぷんなどで描いていく。それらが土のエレメントを含む素材であることは、グレンにもなんとなく理解できた。
「……じゃ、やってみるか」
そしていよいよ、魔法が動く。
エルヴィスが何か祈るように集中すれば、描かれた模様がふわりと光り、そして……。
「よし、来たな!」
鳥が、やってくる。
柔らかな春先の日差しに白い羽を煌めかせて、鳥が数羽、飛んできていた。
グレンにもいくらか、見覚えがある。かつて、自分が住んでいた町でも見かけたことのある鳥だ。恋人と一緒に図書館へ行った時に図鑑で調べて、遥か南とこの国とを行き来している渡り鳥なのだと知った。人間には到底移動できないような距離を飛んでやってくるのだ、と知って、『鳥も大変だな』と思ったことを覚えている。
「渡り鳥が戻ってきたみたいだな。丁度いいところに来てくれた」
エルヴィスは晴れ晴れと笑いながら、鳥達を待ち受ける。やがて、屋上まで飛んできた鳥達に、エルヴィスはパンの欠片を与え始めた。エルヴィスが昨夜の食事からこっそり取り分けて持ち帰ってきていたパンだ。
「よしよし、遠いところからよく帰ってきたな。たっぷり食べてくれ」
エルヴィスが話しかけると、その言葉が理解できているかのように、鳥達はエルヴィスの手からパンの欠片を啄み、ぴぴぴ、ちちち、と囀り合う。
実によく慣れた様子の鳥を見て、グレンは只々、驚かされた。
「いや、凄いな。野鳥がこういう風に懐くなんてね」
「こいつら、そこそこ賢いからな。その賢さを少し刺激してやれば、こういうやりとりくらいはできる」
エルヴィスは事も無げにそう言うが、グレンには一生かかってもできない業である。試しにそっとグレンが指を伸ばしてみたところ、鳥は見事にグレンを警戒して、エルヴィスの肩や頭へ移動し始めてしまった。
この様子にエルヴィスは笑っていたが、グレンとしては少々悔しいような、そんな気分である。まあ、エルフは森の民であり、他の動物達の隣人である。人間よりエルフが動物に好かれるのは、仕方のないことなのだ。
「さて……じゃ、早速だが、ちょっとお前達に頼みたいことがあるんだ」
そうしてパンをたっぷりと与えた後、エルヴィスは鳥達に言って聞かせた。
「薔薇の枝を持ってきてくれ。できるだけ若くてのびのびとした奴がいい。それが難しいようなら、花の種を持ってきてほしいんだ」
エルフの言葉は鳥に通じるものなのか、はたまた、魔法の力なのか。鳥達はつぶらな黒い瞳をエルヴィスに向けつつ、首を傾げたり、ぴょこ、と少々跳ねてみたり、羽を遠慮がちに伸ばしてからぱたりと閉じ直したり、思い思いに過ごしている。それでもその目は全員分、エルヴィスへ向けられているのだから、やはりエルフの魔法とは面白いものである。
「ここに、時々パンを置いておいてやるよ。だからお前らも、ここに時々、薔薇の枝や花の種なんかを置いておいてくれ。勿論、無理にとは言わないけどな。どうしても腹が減ってたら、枝も種もナシでも、パンを食べていっていいから」
エルヴィスはそう言って鳥達を撫でてやると、鳥達はぴぴぴ、と鳴いて、そして、エルヴィスの指先をそっと甘噛みした。野鳥がこのようにすぐ人慣れするのを目の当たりにすると、なんとも信じがたいものがある。まるでおとぎ話の世界だな、とグレンは思った。幼少期に読んだ童話の挿絵の中には、森の中の野原に座って指先に小鳥を停まらせたお姫様の絵があった。目の前の光景は、正にああしたメルヘンである。生憎、エルヴィスはお姫様ではないが。
「よし、よし……いい子達だな。羽を休めたら、もう行っていいぞ」
エルヴィスがそう声を掛けると、鳥の内の何羽かは飛び立っていき、何羽かはもう少し休んでいくことにしたのか、エルヴィスの近くに集まって、のんびりと過ごし始めた。
「あー……エルヴィス。上手くいった、みたいだね?」
一応上手くいったのだろうな、と思ってグレンが聞いてみると、エルヴィスは周囲をふわふわと鳥に囲まれながら、朗らかに笑って頷いた。
「ああ。上手くいった。こいつら、中々話の分かる奴らだし、気のいい奴らだ。いい友達になれるな」
果たして、本当に鳥が花の種や薔薇の枝を持ち帰ってくるかは分からなかったが、ひとまず、鳥がここへ遊びに来るようになったということは確か、らしい。
「ところでこいつら、ふわふわだなあ」
エルヴィスは楽し気に、鳥の内の一羽の胸毛に指を埋めている。いかにも柔らかそうだ。
……そして、それを眺めていたグレンの足元に、少々警戒心が薄いらしい鳥が一羽、やってきた。『私はエルフじゃないぞ』と言ってみるのだが、その鳥の警戒心の無さは相当なものらしい。人間であるグレンにも懐っこく寄ってくるのだ。
なので試しに、そっと手を伸ばしてみるも、その鳥は逃げない。魔法の効きが良すぎたのかもしれないな、などと思いながら、グレンは、さて、どうしたものか、と考え……。
……結局、ふわ、ふわ、と鳥の胸を撫でてみる。鳥はくすぐったそうに身をよじった。
柔らかい。グレンの手には、柔らかな羽毛とその下にある温かな肉、そして更にその下で脈打つ心臓などが感じ取れた。
思いの外、それが心地よかった。自分以外の命、自分以外の体温に触れ、その柔らかさと温かさを確かめていると、なんとも、気持ちが落ち着いてくる。
グレンは動物より植物が好きな性質だったのでペットを飼うようなことは無かったが、ペットを飼っていたかつての同僚達の気持ちがなんとなく分かってしまう。
……鳥は撫でられて気持ちが良かったのか、それとも魔法が効きすぎたのか、すっかり安心しきって微睡んでいる。その仕草が何とも可愛らしかったので、グレンはもう少々、鳥を撫でていることにした。
それから一週間。グレンとエルヴィスは時々、自分達のパンを持って屋上へ上がり、そこで鳥達のためにパンを置いておくことにした。まだ鳥達は花の種や薔薇の枝を持ち帰ってはこないが、一羽、芽吹きかけの柳の枝を持ち帰ってきたものは居た。これは期待ができそうだ、と、グレンとエルヴィスは日々そわそわ過ごしている。
……そして、それと同時に、グレンは例の試みに挑戦することになる。
「ああ、緊張するな……君、重くないか?」
グレンは、例のやたらと警戒心の無い鳥の脚に、恋人へ宛てた手紙をそっと括り付けた。
果たして、本当にこの手紙は届くだろうか。
グレンの心配を他所に、鳥は早速、羽ばたいていく。恋人の家までは、大分遠い。渡り鳥である以上、然程苦にならない距離かもしれないが、それでも遠いものは遠いのだ。一日二日で進める距離でもないだろう。
「そんな顔するな。大丈夫だ。あいつらだってバカじゃない」
エルヴィスはそんなグレンを励ましながら、手近な鳥を撫でてやった。
「ま、のんびり待とう。一週間や二週間なんて、大した時間じゃないさ」
「そうだね……エルフになった気分で、待つことにするよ」
こんな時、寿命の長さ故に気の長い友人がいると助かる。グレンはエルヴィスののんびりとした調子に合わせて自分を落ち着かせながら、鳥が無事に手紙を届けてくれるよう、祈る。
神などもう信じていないくせに、こういう時には祈る。
……そう。少々優しい気分になれるような時には、祈る気分になりもするのだ。