年上の友達*6
その日の休憩時間、エルヴィスとクラークはどちらからともなくお互いを探し、お互いを見つけ、中庭で話をすることになった。
「エバニの受け売りだが、『正しさ』とは、他者と自己とを繋ぐためにあるのだそうだ」
そしてクラークは開口一番、そう切り出した。
自分がずっと大切に持っていた宝物を人に見せるような気分だ。エバニからもらったこの言葉は、自慢したいような、隠しておきたいような、そんな言葉なのである。
「好き嫌いと正誤は別のものだ。好き嫌いは人によって差があるものだが、正誤については、ある一定の、皆がそれに準じて生きていくためのものがある。規則であったり、法律であったり」
「ああー……なるほどなあ」
エルヴィスが頷くのを見て、クラークは少しばかり、ほっとする。
クラークの根幹を成すこの考え方も、理解してくれる者ばかりとは限らない。そういった手合いも居ることを、クラークは知っている。だから、エルヴィスがエバニの言葉を理解してくれることに、安堵する。
「法を守るということは、好き嫌いの異なる者とも手を取り合って、共に社会を築いていくために必要なことなのだと、エバニは言っていた。だから私は法を学んだ」
更にクラークが続けると、エルヴィスは、こて、と首を傾げた。
「……好き嫌いが違う奴と仲良くやりたかったのか?」
「……元々、人付き合いがあまり得意ではないので」
あまり話したくないことまで説明することになったが、仕方ない。クラークは眉間に皺を寄せつつ正直に答え、その結果、エルヴィスは『そっか!』と笑顔になった。何故笑顔になるのか分からないが、ひとまず、少々馬鹿にされているような気はする。
「まあ……だが、今のこの国において、正しさを守る者は少ない。何せ、国の頂点すらも正しさなど放り捨ててしまっているのだからな」
クラークはため息を吐きつつそう言って、地面に視線を落とす。
中庭の地面には柔らかな草が生え、それがそよそよと風に揺れる様子が如何にも柔らかそうである。クラークは何気なく手を伸ばして、その草をそっと指で撫でてみた。見た目通りの柔らかさを持った草は、そのまましばらく、ふに、ふに、とクラークの指に弄ばれることになる。
「このような、国自体が正しさを失ったような時……それでも『好き嫌いの異なる者とも手を取り合って共に社会を築いていくため』には、何を守るべきなのか、私には分からない」
クラークは考える。『正しさ』は変わってしまったのだろうか、と。
今の国の在り様も、理解できなくは、ないのだ。弱者を強者が貪るやり方は、少なくとも強者の側に立てば理に適ったやり方である。
だが、どうも、クラークは今の国の在り方に疑問を抱かずにはいられない。それは、新たな『正しさ』に適応できないだけなのか、国が正しくないということなのか。
「いや……そもそも、『好き嫌いの異なる者とも手を取り合う』ということ自体に、私は疑問を抱いている」
……そしてそもそもの根幹すら、揺らいでいる。
クラークをずっと支えてきたものは、今、その根幹から全て、揺らいでいるのだ。
「これが理性によるものなのか、感情によるものなのかも、よく分からない。元々、私が私に課した『正しさ』とは、自分を保つための方便のようなものだったのかもしれない。自分が、自分と上手く折り合いをつけて生きていくための、身勝手なものだったようにも思う」
クラークは、今、自分が守ってきた『正しさ』の『正しさ』に疑問を覚えてしまっている。
正しくあろうとしたこと自体、間違っていたのではないだろうか、と。
「だから、私にも『正しさ』が何なのか、分からない」
今ようやくわからなくなったそれを抱えて、クラークは途方にくれている。
「まあ、それはいいんじゃねえのか?身勝手だろうがなんだろうが、あんたは本当に清く正しい奴だよ。それは誇っていいと思う」
だが、エルヴィスはそう言う。慰めでもなく、ただ本当にそう思っているようにそう言う。それがクラークには嬉しく、そして申し訳ない。
「清く正しいことに価値などあるか?」
「あるだろ。少なくとも、まあ、俺にとっては新鮮だし、面白いし」
……申し訳なく思ったクラークだが、エルヴィスの返事を聞いて、幾分、その考えを引っ込めた。エルヴィスにも利があるなら、まあ、それはそれでいいか、と思うことにする。
「それにやっぱり、どんな人間にも言えることだけれど……一本筋が通ってる奴は、それがどういう筋であろうとも、付き合ってて楽しいよ」
エルヴィスは笑ってそう言って、それからふと、その表情を固めてまた考え始める。
「うーん、いや、やっぱりそれも違うか。筋が通ってる、っていうのは違うか。えーと、なんだ?筋を通そうとしてる、っつうか……」
励ましておいて急にその論拠に疑問を覚えるのはやめてほしい。クラークは幾分ひやひやしながらエルヴィスの言葉を待つ。
「うん、そうだ!よし、分かった!……ちゃんと考えて、考えて、一生懸命生きてる奴のことが好きなんだ!」
……そしてエルヴィスから出てきた言葉がそれだったので、クラークは何とも言えない気分になる。『一生懸命生きているというよりは、藻掻いて足掻いてなんとか生きているだけだ』とも思うし、『好かれても困る』とも思う。きっと本来クラークは、エルヴィスに褒められ、好かれるような人間ではない。
だが、エルヴィスに励まされてしまっていることもまた、事実だった。
自分の中の『正しさ』が分からなくなって、迷子のような気分のクラークだったが……それで全てが無に帰したわけではないのだと、思い直すことができる。
……到底そう割り切る元気は無いが、クラークは今、『考えて考えて一生懸命生きている』ということなのかもしれない。
クラークの中の『正しさ』は確かに壊れ崩れていっているように思うが、それはこれから、補強されて修理されて、またクラークを支えるものになるのかもしれない。
そう、未来に微かな希望を抱くことができた。
失われた希望は、芥子粒よりももう少し大きなものになって、クラークの中に返ってきた。
「でも……そうだなあ。もしあんたがちょっと自信喪失してるってんなら、やっぱりあいつらと話せるといいよな」
更にエルヴィスはそう言って笑う。
「なあ、クラーク。あんたにはお節介だろうけれど……もし、あんたが望むなら、エバニに会えるぞ」
「……え?」
エルヴィスの言葉が、すぐに飲み込めない。
クラークはただぽかんとして、エルヴィスを見ていた。エルヴィスはそんなクラークを見て、少しばかり不安そうになりながら、言葉を続けていく。
「うん。エバニが来るんだ。あいつ、上手くブラックストーンに転所できるようにやったらしい」
「え、転所……?」
聞いたことが無い。囚人が刑務所を引っ越す、など。
「うん。転所だ。あいつ、オウルツリー刑務所に居たらしいんだけどな。引っ越せるってさ」
「……ひっこし……?」
只々、クラークはぽかんとしていた。最早、聞いた言葉の意味も分からず、頭の中には何も無く、只々、固まっている。まるで、魔力切れになった魔導機関のように、只々、固まっているのだ。
「その……クラーク。お前、エバニに会うの、嫌じゃ、ないか?」
そんなクラークを見て、エルヴィスは不安そうに顔を覗き込んできた。
その、揺れる森色の目を見て、ようやくクラークの思考は動き出す。
もしまたエバニに会えたら……その時、クラークは、どうなるだろうか。
最初に考えるのは、どう謝罪しようか、ということである。エバニを救うこともできず、自らの信念を抱き続けることもできず、『正しさ』に疑問を抱きつつも何もできない自分を、エバニは許してくれるだろうか。
……そう考えてみれば、自然に、答えは出た。
「……合わせる顔が無い、とは、思う。だが……会いたい」
会いたい。自分の根幹となる教えをくれた人。親よりも親らしく、でも、あくまでも『年上の友人』であってくれたエバニは、きっと……クラークの未熟なところも、能力の不足も、受け止めてくれるような気がする。
「あの人を助けることなんて何もできなかったが、それでもあの人は笑って許してくれるような気がする」
「そうか……うん、俺もそう思うよ。あんたとエバニがどういう関係なのかはよく分からねえけど、でも、そう思う」
エルヴィスも嬉しそうに笑って、そう言う。彼が笑うと、途端に周囲の植物も元気になるような気がする。クラークが手慰みに触っていた草も、心なしか、急にしゃんとしたようだった。
「いや……どうだろうな。不安になってきた」
だが、クラークの考えはぐるぐると渦巻く。
考え始めると止まらない。希望的観測では、エバニに会っても、彼が許してくれるような気がしていたが……クラークはエバニの娘であるオリヴィアを傷つけ、裏切った後だ。オリヴィアにもエバニにも許されないことをしている。
そもそも、エバニがクラークの思うように都合よく居てくれる保証などどこにもない。いよいよエバニもクラークを見限っているかもしれない。
「……大丈夫だろうか」
「あんた、結構臆病だよなあー」
「ああそうだ。私は臆病者だ」
けらけらと笑うエルヴィスを少々憎らしく思いつつ、開き直ってクラークは頭を抱えた。
「……だが、仕方ない。私はエバニのように立派な人間ではないから」
そう。クラークは、開き直れる。
臆病も未熟も、あの人の前でなら、諦めが付く気がする。
「うん、そうだそうだ。お前はこれからまだまだ成長する人間なんだから!」
「エルフに言われると反論する気力も無くなる」
「お、そうか?なら、長生きしてきた甲斐があったなあ」
けらけらと楽しそうなエルヴィスの横で、クラークは只々苦笑する。
……エバニと会った時、どうなるかは分からない。だが、ひとまず、エバニにとってこのブラックストーンがより良い場所であるよう、努力することがクラークには許されている。
そう。クラークは、看守だから。
……看守になった意味が、ようやく、生まれようとしている。クラークはそれを、嬉しく思った。
まだ、クラークが善のためにできることは、残っているのだ。
「よし。エバニが来た時に歓迎できるように、俺は早速、準備してくるかな!」
いよいよ元気なエルヴィスは、そう言って立ち上がる。彼もまた、目標を得て随分と元気な様子だ。
「何をだ?」
「ミード!蜂蜜が採れたから、それを生のまま水で薄めて、発酵させるんだよ」
うきうきと楽し気なエルヴィスがそう言うのを聞いて……クラークは、困った。
自分は看守である。エルヴィスはどうやら、それを忘れているようだが。
「……あっこれ看守には内緒だった」
手遅れになってから思い出したらしいエルヴィスは、緊張の面持ちで、ちら、とクラークを見てきた。
それがおかしくて、クラークは思わず笑う。何百年も生きてきたエルフでさえも、こういう下らない失敗をするものなのか、と。
「すまない、聞こえなかった。もう一度何の準備をするのか言ってくれるか?」
だからクラークはそう言う。『正しくない』と思う自分も居るが、今は、今だけでも、こうしたい気分だったので。
「……えーと、花の世話を頑張ろうって言った!」
満面の笑みになったエルヴィスがそう言うのを聞いて、クラークは、そうか、と頷くのだった。