年上の友達*5
……その日、クラークの記憶はすっぽりと一部、欠落することになった。車内で飲みなれない酒を飲んで、疲れた体へ一気に酔いが回って、心身共に疲れ切っていたクラークは最早体裁を考えることもできず、車内で丸くなってそのまま寝た。
そして起きたら、医務室に居た。
……痛む頭と怠い体を抱えて起き上がると、枕元に書き置きがあるのが見つかった。
そこにはアレックスのものらしい荒々しい文字で『疲れが出たのか車酔いしたらしい、ってことにして医務室に運び込んどいたぜ。ちなみにお前は今日は非番だ。寝てろ』と書いてあった。記憶を辿れば、確かに音楽祭の翌日はクラークの非番の日であるので、クラークは安堵と諦めのため息を吐いて、再びベッドへ戻る。
ぐらつく視界の端に時計を見つけて時間を読めば、日付を回って少しした時刻であった。到着は20時ごろの予定だったので、恐らく、クラークは医務室に運び込まれてから4時間程度は寝ていたことになるか。
クラークはぼんやりと、音楽祭であったことを思い出しかけ、しかし、途中でそれを放棄した。
感情も記憶も、整理するにはあまりにも……体調が悪い。
クラークは生まれて初めての二日酔いを経験し、いよいよ全ての気力と体力を失って、ただ、眠る以外の選択肢を放り捨てることになったのである。
あまりにも不健全な就寝であったが、クラークには丁度良かったのかもしれない。こうでもなければ、クラークは考えに考えて、碌に眠れもしなかっただろうから。
酒と疲労によって二度目の熟睡を経験したクラークは、明け方に目を覚ました。
体は動かせる程度に回復していたので、のっそりと医務室のベッドを出て、そこで帳簿に必要事項を記入する。医務室を使用した者はここに使用記録をつけることになっているのだ。
一通り必要な措置を終えたところで、クラークは少し迷い……中庭を通って看守の宿舎へ戻ることにした。
中庭を通らない方が近道ではあるのだが、今は少し、外の空気を吸いたい気分だった。それに、この時刻なら囚人は皆、寝静まっている。誰かと出くわす危険も無い。
中庭に出ると、吹き渡る風が微かに甘やかな香りを載せていた。薔薇の香りだろう。今丁度、中庭の花壇には薔薇が咲き誇っている。
初夏とはいえ、明け方の空気は冷たい。今のクラークには、このくらいの冷たさが丁度いい。風の中をふらりと歩いて、クラークは中庭を横切っていく。
……自分の中の『正しさ』が矮小なものだということくらい、分かってはいたが。それでもその『正しさ』を守ることで自分を保ってはいたが。そして、そんなことをしても全くの無駄だと、知っていたが。……今、それら全てが崩れそうだ。
クラークの中で支えになっていたものが崩れて全てがどうでもよくなったら、全てを破壊しにかかってしまいそうだ。普段、法と規律と理性、そして憧れだけで保っている自身が、いよいよ狂気に呑まれていきそうで、クラークはただ、眉間に皺を寄せる。
……いっそのこと狂ってしまいたいような気分ではあったが、そうもできない。結局のところ、クラークは臆病なのだ。狂ってしまう勇気すら無い。今も、一晩おいて多少冷静になってしまったものだから、もう、どうしようもない。
「……始末書を書かねば」
クラークは薔薇の咲き誇る明け方の庭で、結局、そんなことを呟いた。
法と規律の守護者としても生きられず、全てをひっくり返してしまう度胸も無いクラークは、今日もまた、ただの看守として一日を始めることになる。
あんなことがあったというのに、結局、何も変わらないのだ。クラークも、世界も。
部屋に戻って真っ先にシャワーを浴びた。敢えて湯は出さなかった。初夏の明け方に浴びる冷水のシャワーは罰めいてすらいたが、そうして体が冷え切ってしまえば、また一歩、クラークの意識は狂気から遠ざかった。
休日ではあったが、看守の制服に着替えた。帽子を被って、鏡を確認する。
そこには、立派なただの看守の姿がある。法を学んだかどうかなど関係なく、弁護士になるはずだったことも関係なく、友人を救えないことも関係なく、ただ、看守として、クラークはここに居る。
その事実は厚い膜のようになってクラークを様々な感情から切り離した。どこかぼんやりとしながらクラークは事務室へ向かって、始末書の様式を取りに行く。
「お、おい、クラーク。お前、今日は非番だっつっただろうが」
そこへ丁度通りがかったアレックスが、『なにをやっているんだこいつは』とでも言いたげな顔でやってくる。
「始末書は今日中に書いておきたかったので」
クラークがさも当然とばかりにそう返せば、アレックスは深々とため息を吐き、それからクラークの手にあった始末書の様式を取り上げ、くしゃくしゃと丸めて投げ捨てた。
「そんなもんは要らん。囚人を一発ぶん殴ったくらいで一々始末書にするんじゃねえ」
「ですが規則上、囚人へのみだりな暴力は禁じられています」
「ありゃ『みだりな暴力』じゃねえ。必要だった奴だ。そういうことにしろ」
納得がいかない。如何に他の看守が囚人に暴力を振るうことに躊躇いが無かったとしても、クラークはそうではない。クラークだけでも、規則を守ることには意味がある。そう、クラークは思っていたい。
「じゃなきゃ、エルヴィスの立つ瀬がねえだろうが」
……だが、アレックスにそう言われて、クラークはまた、自分の中で『正しさ』が揺らぐのを感じた。
「……彼の怪我の具合は」
「あ?んなもん問題ねえに決まってるだろうが。あいつを何だと思ってる?『どうせ罰せられねえもん』っつって開き直ってポーション煮込んでるエルフだぞ?自前のポーションでとっくに完治させてる」
アレックスが鼻で笑うのを聞いて、よかった、とクラークはひとまず、安堵した。……同時に、エルヴィスに『気遣われている』という状況に、また不甲斐なさと惨めさを感じもするが。
「……ま、始末書なんざ書こうとする元気があるんなら、エルヴィスに会ってこい」
アレックスはクラークの背をばしりと叩いて、そう言った。
「な。どうせ俺には話したくねえんだろうが。お前は」
「……はい」
クラークが素直に頷けば、アレックスは『言ってくれるねえ』と苦笑した。
誰かに自らの惨めさを話して聞かせるなど、ぞっとする。聞かされる方も楽しくはないだろうし、クラーク自身が何よりも楽しくない。わざわざクラークの人生初の自棄酒の原因となった惨めさを、掘り起こしたくはない。ようやく一晩経ってそれが埋もれてきたところなのだから。
……だから、エルヴィスにも、会いたくは、ない。だが、会って謝罪すべきだということもまた、分かってはいる。
「ほら、飯いくぞ。早めに食って、それから囚人用の食堂、行ってこい。エルヴィスも元気に飯食ってるはずだから」
アレックスにそう言われて、また、クラークは『はい』と素直に頷く。
自分が惨めな思いをするだけならそれはそれでいいだろう、と割り切ることにした。また、クラークの意識を、分厚い膜が覆っていく。
クラークは朝食を摂った。食欲はまるで無かったが、無理矢理詰め込んだ。クラークの様子を見てアレックスが多少心配そうな目を向けてきていたが、それに構わず、クラークはさっさと下膳して、囚人用の食堂へ向かう。
……すると。
「あっ!クラーク!大変なんだ!ほら、来てよ!」
囚人の一人が、クラークを見るや否やクラークを引っ張って食堂の隅へと連れていく。
「エルヴィスが萎れちゃってるんだ!」
「……エルフは萎れるのか」
「いや、物理的な話じゃなくて気持ちの問題だと思う!」
どうしていいものやら結論を出しきれない内に、慌てた囚人はクラークをエルヴィスの傍へと連れていく。……エルヴィスは確かに、萎れていた。しゅんとして、俯きながらちびちびと朝食を摂っている様子は、正に、萎れた植物のようだ。
「……エルヴィス」
近づいたこちらに気づく様子もないエルヴィスへ声を掛ければ、エルヴィスは、はっとして顔を上げる。手から取り落とされたフォークが床にぶつかって、からん、と音を立てた。
「クラーク……その、本当に悪かった。昨日は、その、言い過ぎた。言わなくていいこと、言った。ごめん」
「何も気にすることは無い。規則を破ったのは私だ。みだりな対囚人暴力は禁じられているのに、それを破った」
クラークは伝えるべきことをさっさと伝える。クラークがいつも通りの調子に見えたのか、エルヴィスは少しずつ、元の調子を取り戻していく。まるで、水を与えられて陽の光を当てられた植物のようである。
「……すまなかった。怪我は」
「怪我は無い。元々、大したモンじゃなかったし、ポーションもあるし……その、大丈夫だ。あんたが気にすることなんて、何も……」
エルヴィスは、ほ、と息を吐いて、それからじっと、クラークを見つめる。
「……ごめんな。俺、ああいうの苦手で」
ああいうの、とは、とクラークが首を傾げていると、エルヴィスは眉根を寄せながら、机に向かって話し始める。
「人間と付き合ってても、人間の気持ちがよく分からないことがあるんだよ。人間に見えてるものが俺には見えてないっていうか……うん」
「お前に見えているものが人間に見えていないだけだ」
エルヴィスの言葉に、クラークは思わず苦笑する。自嘲であったかもしれないが、幾分、先程よりは気分がマシだった。長寿のエルフがこのように悩むとは驚きである。所詮、人間はエルフのような視点は持てないが、それをエルフが気にすることもないだろうに。
「……まあ、苦手、なんだけど、さあ……でも、何も言わないっつうのも、苦手というか、性に合わねえっつうか……」
エルヴィスはクラークをちらりと見て、唸る。言うべきか言わないべきか迷っているらしい。珍しいこともあるものだ。多少強引にも思えるエルヴィスも、このように迷うらしい。
「私は冷静だ。何を言ってくれても構わない。もう手を上げるようなことはしない」
仕方なく、クラークはエルヴィスの隣の席に座った。座ってしまえば、そうそう手が出るようなこともできないだろう。
そして、我を忘れて手を上げるようなことは、しない。もう二度と。……そういう気持ちでいたところ、エルヴィスは『いや、殴ってくれるなら殴ってくれた方が、俺としては気が楽なんだけどな……』と何とも言えない顔をした。
「うー……あー、うん、いいや。よし。言う。言うことにする」
結局、クラークに負けたエルヴィスは、クラークを真っ直ぐ見据えて、言った。
「お前の『正しさ』が、俺にはよく分からない!だってお前、なんだか辛そうだから!」
意を決して言ったのだろうエルヴィスに対して、クラークは自分でも驚くほど冷静だった。
「そうだな。私にも分からない。分からなくなった」
そして、そう認められたのは、自棄酒とかすかに残る二日酔いのおかげだったのかもしれない。