年上の友達*4
祭の後片付けというものは、どうも物悲しい。先程まで賑やかだった会場は、もう客もおらず、ただ囚人達が屋台を片付けていくのを看守が監督し、時に手伝っているばかりである。夕暮れの中、長く伸びた影が石畳の上を行き交うのを、クラークはぼんやりと眺めていた。
「よお」
そんな中、石畳に落ちる影の一つがこちらへ向かってきて、クラークの前で止まる。クラークが顔を上げれば、案の定、エルヴィスが居た。
「……その、呼んじまって悪かったな。あんた、オリヴィアのことも知ってるみたいだったから、つい」
エルヴィスは少々気まずげにそう言って、ふ、と一つ息を吐き出した。
「あんた、弁護士になる予定だったのか」
「……予定になんて何の意味も無い」
答えになっていないことは分かっていながらも、クラークはそんな風に答える。
今は、誰かとやりとりをしていたい気分ではなかった。ただ1人、薄闇の中でじっと俯いていたい気分で、要は、エルヴィスとこれ以上話していたいとは思わない。
「なんかさ、納得がいったよ。あんた、確かに法律を守るのに向いてるよなあ。多分、看守にも向いてるんだと思うけど」
エルヴィスが苦笑しながらそう言うのを聞いて、そうでもない、と内心で思う。
法を守るのには、きっと、向いていない。法を守るのに向いているのは……もっと、何もかもに疑問を覚えずに居られる者だ。クラークは今のこの国に疑問を抱いてしまっているから、法を守るのに向いていない。
そして、それでいながら、法を破るのにも向いていない。そんな度胸も能力も無い。
……そう。クラークの性質は、積極的なものでなど構成されていない。ただ、消極的に『何でもない』だけなのだと、クラークは思っている。
「ちらっと聞いちまって悪いけどさ。あんた、弁護士になればいいじゃないか」
エルヴィスがそう持ち掛けてくるのに、クラークは少々の反感を覚えた。
簡単に言ってくれるものだな、と憤りにぐらつく自分と、ああ正にその通りだ、自分がそうできないだけだ、と自棄的に諦める自分とが、それぞれに暗い目でじっとこちらを見ている。そんな気分だ。
「やりたいことがあるなら、やりゃあいい。どうせ人間なんてすぐに死んじまうんだから」
「それができる人間ばかりではない。何も成せない人間が大半だ」
エルフにとっては、人間などすぐに死ぬ生き物だろう。だが、人間にとっては、そうではない。
残念なことに、クラークには明日があり、明後日があり……1年後も10年後も、まだ、残っているのだろうから。それを、『すぐ』だなんて思うことは、できそうにない。クラークは人間なのだから。
「……なあ」
それでもエルヴィスは、クラークに続けて問う。
「あんた、オリヴィアのこと、突っぱねてたけどさ。あれ、本心か?」
「……どういう意味だ」
これ以上話したくないが、ここで立ち去る訳にもいかない。立ち去るという考えすら、どこか遠い。クラークは自分の中で、どろりと粘ついたものが意識を覆っていくような感覚を味わう。全てに現実味がなく、全てが遠い。
「あんた、エバニの逮捕に納得がいってないんだろ?ラウルスについても。……弁護士になって、オリヴィアと一緒に、それを正すって気は無いのか?」
のろのろと、濁った目をエルヴィスに向ける。足元に落ちていた影法師は、いつしか夕日と共に薄れて消えていた。宵闇の暗さが、クラークの目をより一層、暗く彩る。碌に何も映していないような、クラークの目を。
「なあ、クラーク。俺はあんたが、オリヴィアの手を取るんじゃないかって思ってたんだ」
碌に反応しないクラークに対して、エルヴィスはどこか焦れたように言葉を重ねていく。
「あんたはそれを望んでるんだと思ってた。エバニについても、ラウルスについても……あんたが本当にやりたいことがあるんだと、思ってるんだが、違うのか?」
クラークはエルヴィスの言葉をどこか遠く聞きながら、徐々に、徐々に、また自分の中で何か、粘土を捏ね上げるように衝動が形作られていくのを感じていた。
それでも、クラークを繋ぎ止めているものは、クラークの中の『正しさ』である。それが、それだけが、今のクラークを『まだ』繋いでいる。
……だが。
「オリヴィア、泣いてたんだぞ」
どこか責めるような響きを伴ったエルヴィスの言葉を聞いて、クラークの中で、何かがぶつぶつと音を立てて切れていく。意識が、理性が、どんどんと粘ついたものに沈んでいき……そして、代わりに顔を出すのは、狂気だ。
「なあ。あんたにとっての『正しさ』は、ムショの中の規則を守るだけに使うような、ちっぽけなものなのか?その『正しさ』は、オリヴィアを……」
クラークは拳を振りかぶり、エルヴィスの頬へと真っ直ぐ振り抜いていた。
誰かの驚きの声やざわめきが、徐々に、クラークの意識を引き上げていく。
見下ろした先、石畳の上に倒れたエルヴィスを見て、エルヴィスの森色の目が困惑と後悔を湛えてクラークへ向けられているのを見て、ざっ、と、冷水を頭から浴びせられたように体が冷えていく。
初めての経験だった。
こんな風に、自分が『正しくない』と誰にでも分かるような行いに走るのは、初めてだった。
こんな風に理性を手放すことも、そもそも、誰かを殴ったことだって。
……自分が先程手放した理性が、クラーク自身を非難してくる。自分が裏切ったばかりの『正しさ』が、クラークをいよいよ見放そうとしている。守っている限りは守られるなどと夢見ていたが、それすらもう、クラークは自らの手で打ち壊してしまった。
自分がしでかしたことに、そしてこんなことをしでかす自分自身に、クラークはいよいよ、絶望する。
「おい!何が起きた!?」
そこへ、聞き慣れたアレックスの声が飛んでくる。余程慌てているらしく、老看守は走ってこちらへ向かってきていた。
「お、おい、エルヴィス!お前、何がどうしてこうなってる!?」
「いや、俺は大丈夫だ。ちょっと、言っちゃいけないことを言っちまったんだ。だから……」
そしてエルヴィスも混乱しているらしく、弁明にも説明にもなっていないようなことを口走りながら、また、ちら、とクラークを見上げた。
……だが、今更理性を取り戻したクラークは、ふ、と目を逸らす。
「……始末書を書いてくる」
「お、おい、クラーク!」
「すまなかった。正しくない行いをした」
クラークは、心配そうなエルヴィスの声を背に、その場から立ち去った。
何もかも。何もかも、上手くいかない。
帰りの魔導機関車の中でも、クラークは沈んだ気分で居た。
自分の惨めさを再確認させられるのは、流石に堪えた。他ならぬオリヴィアから突き付けられた惨めさと、その後エルヴィスから突き付けられた惨めさと、そして、自らの自業自得で味わう羽目になった惨めさと。
それらに晒されたクラークの気力は最早、塵芥程度にも残っていない。
「おう、どうしたクラーク」
「……特にどうとも」
そんなクラークを心配してか、アレックスがやってきた。だがアレックス相手に何か話す気力があるでもない。クラークを気遣うような、優しい声に見合うことは何もできない。
「お前はいっつもそうだなあ。何かあると、何も喋れなくなっちまう。だろ?そろそろ俺も、お前のことが分かってきたぜ」
だが、アレックスは『やれやれ』とばかりにため息を吐いて、クラークの隣へどっかりと腰を下ろした。この老看守はどうも、多少偏屈と評される割に面倒見がいいというか、お節介焼きというか。どちらにせよ、今のクラークにはまるでありがたくないのだが。
「話してみろとは言わねえ。だが、抱え込んで潰れるようなことはするな」
「ええ」
だが、アレックスは多少暑苦しくはあるものの、湿っぽくはない。こういうところは、ラウルス・ブラッドリーに多少似ている。あの人もこんなところがあった。沈んでいるクラークを見て構いに来て、クラークが構われたがっていないと分かると、ただ隣に居て、時々手慰みにクラークの頭を撫でるような、そういう。……逮捕されていい人ではなかった。
ラウルスを思い出し、ついでにエバニを思い出し、そして芋蔓式にオリヴィアのことを思い出し……またクラークは沈む。気分の落ち込みには際限がない。
「ま、いいだろ。折角だ、ちょっと付き合え」
……が、落ち込んでいくクラークの前に、どん、と瓶が置かれる。
「……これは」
クラークは目の前のそれを見て、ぽかんとする。
この瓶が何かは、分かる。酒の瓶だ。よくある安酒の。生憎、クラークは酒を飲む趣味が無いので、付き合いでほんの少し口にしたことがある程度でしか、それを知らなかったが。
「飲むぞ」
「……職務中では」
「あ?もう職務は終わっただろ。移動中は勤務時間外だ!どうせ移動時間の分は残業の手当がつかねえんだからな!だから囚人の護送は護送係の担当であって、俺らの担当じゃねえよ。酒飲んでたって文句言われる筋合は無いね!」
アレックスはそう言ってにやりと笑うと、早速、瓶を開けて中身を飲み始めた。豪快な飲みっぷりである。クラークは全く未知のものを見るような気分でアレックスと酒瓶を見つめた。
そうしてクラークがぽかんとしていると、他の看守達が『なんだなんだ』『酒か?なあアレックス、俺にも一本』などと寄ってきた。彼らもアレックスの言うところの『勤務時間外』の看守達なので、クラークが苦言を呈すべきではない。
……そうしている間に、アレックスとそれなりに仲の良い看守達が揃って酒の瓶を開け始める。元々、クラークとアレックスが乗っていた車両にはアレックスを厭わない看守しか乗っていなかったので、たちまち、車内は酒盛りの様相となる。
誰かが屋台の残りものらしい肉の串焼きやローズマリーポテトを出してくれば、いよいよ車内は賑やかに飲み食いの場となってしまった。クラーク1人がぽつんと取り残されているような有様だ。
「なあ、クラーク。お前も一本、いっとけ」
そして、そんなクラークに、アレックスは酒の瓶を差し出してきた。
「嫌なことがあったらコレは悪くねえ薬になる。どうだ?」
……思うところはある。職務時間外だったとしても、倫理的に義務が生じないわけではないだろう、とも、自分1人でもそれを守るべきだろう、とも、思う。
だが、規則から考えてしまえば、業務の対価としての手当が発生しない以上は業務の義務は無いものとすべきだ。そして今のクラークには、倫理を守る気力が無い。そしてそもそも、『正しさ』はついさっき自ら壊してしまったばかりだ。
……結局。
「おっ!お前、案外いい飲みっぷりじゃねえか!」
クラークは、誘惑に負けた。
この際、落ちるところまで落ちてやりたい気分だったのかもしれない。