清く正しく*1
クラーク・シガーは王国歴336年の冬、ブラックストーン刑務所へやってきた。
吹雪の中を、魔導機関車が進む。舗装された道をごとごとと進んでいくも、車輪の音よりも何よりも、雪風の音が強い。
びゅう、ごう、と、ともすれば魔導機関車ごと吹き飛ばされそうな風が吹きつけ、雪の粒が容赦なく叩きつけられる。おかげで車内は酷く揺れたし、酷く冷え切ってもいた。
そのせいもあり、車内に会話は無い。疲れ切った顔の人間が詰め込まれた車内で、雪風の音にも負けないようにおしゃべりする元気のある者など居ない。
……クラークも、同じである。
酷く疲れ切って、もう、何もする気が起きない。だからただ、車内で座ったまま、目を閉じて眠る姿勢を取る。
今のクラークには、もう気力が残っていない。
只々、疲れている。この世界に、半ば絶望している。
……だが、それでもクラークはブラックストーンへ向かうことにしたのだ。自ら、そう、決めた。
刑務所に着いてみれば、そこは補修されながらも酷く古びた建物があった。まるで遺跡か何かのようですらある。
ブラックストーン刑務所は歴史的建造物の1つに数えられるが、まさにそれを目の当たりにして、クラークはほんの少しばかり、その瞳に気力を取り戻した。
だが、その僅かな気力も、歩いていく内にすり減って、消えていく。
……何せ、寒い。
吹雪は容赦なくクラーク達に吹き付け、玄関ホールに入った後も尚、隙間風となって寒さを齎す。古びた石材越しにじわじわと染み込んでくる冷たさもまた、クラークの気力をすり減らしていった。
「整列!」
そこへ所長の号令がかかる。すると皆、まるでやる気のない緩慢な動作で整列した。大人しく整列するのは、彼らが所長の号令に従う意欲に燃えているからではない。ただ、逆らう程の気力もないという、ただそれだけのことなのだ。
その中でも比較的きびきびと動いたクラークは、顔を上げる。すると壇上には、所長であるらしい人物が立っていた。
「諸君、ようこそ、ブラックストーンへ」
所長はそう挨拶して、クラーク達を見回した。クラークは他の者達と同じように、じっと所長を見上げる。
壇上に立つ所長は、厳めしい顔でクラーク達を見下ろして、だが、その表情には確かに疲れが見える。まあそうだろうな、とクラークは思う。
「諸君らも知っての通り、近年、国内では犯罪者が急増している。このブラックストーンですら独房が埋まり切る状況だ。実に嘆かわしい」
所長が説明する通り、この国はここ十年足らずで随分と荒れた。その結果『犯罪者』が急増し、刑務所は常に満員状態となっている。
そう。歴史あるブラックストーンですら、そうなのだ。この刑務所は国内最大規模。独房の数も国内最大であるのだが、その独房が全て埋まるほどの囚人が今、この刑務所に集結しているということになる。
「……我々にできることは、少しでも再犯率を減らすことだ。このブラックストーンにおいて、囚人達が再び戻ってくることのないよう、徹底した教育を行っていく」
所長のため息交じりの話を聞いて、クラークは内心、これを嘲笑する。思ってもいないことを言うものだな、と。
今、ブラックストーンで再犯率を下げたとして、意味は無い。只々『刑期の長い』囚人が『ひっきりなしに』やってくるこの状況で、再犯率も何もあったものじゃない。今、この国全体に、『正しさ』なんてものはまともに機能していないのだ。
そんな時代のブラックストーンに居られるのだから名誉なことだ、と内心で皮肉って、クラークは濁った眼を所長へ向け続ける。
「諸君らが共に『看守』として働く中で、この状況が少しでも改善されることを祈る」
クラークは所長の挨拶に拍手を送る。
……そう。今日から、クラーク・シガーはブラックストーン刑務所の看守として、ここで働くことになる。
自ら望んで……半ば、他にやりようが無かったことではあるが……それでも自ら望み、そして、芥子粒ほどの希望を抱いて、看守に志願したのだ。
新たに看守として採用された人間達は、施設を一通り案内され、一日の業務を一通り学び、そうして食事を摂ることになった。
その後、風呂に入って、あてがわれた個室で眠る。個室は狭かったが、ひとまずベッドとクローゼットはある。この独房のような個室でも、最低限の機能だけは担保されているというわけだ。クラークはこれで十分だな、と思った。同時に、『こっちが囚人みたいだ』とも思ったが。
「よお」
そうして翌朝、クラークが食事を摂っていると、少々馴れ馴れしい男がやってくる。
「新入りか?」
「ああ」
そっけなく返事をするも、男はまるで気にした様子が無い。クラークはここで人付き合いなど特に望んでいないのだが、相手はそうではないらしい。
「今回、随分沢山、新入りが来たよなあ。ま、増員される分には助かるけどよ」
クラークと同時に採用された看守は、少なくない。看守は今、どこでも不足している。だから今回のように、季節外れに採用が行われるし、クラークのような、大して学がある訳でもなく立派でもない人間が看守になれる。
「ま、お互い頑張ろうぜ。すぐ辞めちまう奴も居るけど、お前はそうならないといいな」
まるで響かない言葉がクラークの意識の上を滑っていく。眠い時に本を読んでいるような気分だ。何にも興味が湧かない。何も、記憶に残らない。
「この仕事は悪くないぜ?休みは少ないが給料は悪くない。お前もそれに惹かれて来たのかもしれないけど。あと、犯罪者共は案外怖くない。適当にぶん殴っておけば大人しくなる奴が多い。それで大人しくならなかったら懲罰房にぶち込んでほっときゃいい」
どろり、と濁った眼で、クラークは男を初めて見た。クラークの意識の表面が、粘ついたものに覆われていく。
「この間も1人、懲罰房に2か月放り込んでおいた。そうしたら気が狂っててさあ。面白かったぜ」
そしてクラークの意識は徐々に、狂気めいた衝動へと姿を変えていく。
「ま、そういうわけで娯楽にも事欠かない。ここは悪くない職場だ。楽しくやろうぜ」
粘土を捏ね上げていくように狂気めいた衝動が形を成していく。理性はただそのまま、泥に沈んでいくように何か……恐らく、世間で『常識』や『良心』と呼ばれるであろうものが姿を消していく。
ただ、衝動が、ゆっくりとクラークを満たしていく。
それでも、クラークの根幹を支配しているものは……ただ、規律と規範。『正しさ』だ。
だが。
「ん?ああ、来たか」
男の意識がふいと逸れたのを見て、クラークもそちらを注視する。
……すると、そこには不思議な光景があった。
「あれは……囚人か?」
「そ。ブラックストーン名物の囚人だ」
片手に手錠を付けられ、脚にも鎖が取り付けられている男だ。枯れ草色の髪をしていて、そして深い緑の瞳の。
「なんで囚人がここに居る?ここは看守用の食堂じゃないのか」
「まああいつはちょっと特別でね」
クラークは不思議に思いつつも、その『特別』であるという囚人の様子を見ていた。すると、囚人は看守の1人によって、大人しく手錠を外されて、それから何かの感触を確かめるように手を握ったり開いたりした。……そして。
「じゃあ、始めますよ」
涼やかな声でそう言うと、何事か念じ始め……彼の周りに、ふわり、と風が起こる。
何事だ、とクラークは焦った。クラークの知らない何かが、ここで起こっている。他の看守達は、新入りこそ戸惑っていたが、他の看守達はまるで戸惑うことも無くこの奇妙な現象を受け入れている。
……そして。
「……暖かい」
クラークは愕然とした。今日もブラックストーン刑務所には隙間風が吹き通り、外からの厳しい寒さが染み通ってきているのだが……今は、それらが気にならない。どうも、クラークの体が目に見えないコートに包まれたような、そんな心地である。
「エルフの魔法なんだとよ」
「え?」
聞き慣れない言葉を聞いて、クラークは驚く。すると馴れ馴れしい男は得意げに説明し始めた。
「あいつはエルヴィス・フローレイ。エルフだからこういう便利な魔法が使えるもんで、冬になると毎朝看守達の為にな、こうやって防寒の魔法を使わせてるんだ。他にも、ポーションを作らせて医務室で使ったりもしてるぜ」
クラークの視線の先で、枯れ草色の髪の男……エルヴィス・フローレイというらしい囚人は、へらりと笑って看守達と何か話している。その間に彼の手には手錠が戻されていく。
「……いいのか、囚人にそのような権利を与えて」
「ああ、問題ない。ほら、あの手錠あるだろ?あれがあると魔法を封じることができるんだとよ。だからあいつは安全だし、ま、どうせ囚人だ。俺達が上手く使ってやらなきゃな」
馴れ馴れしい男の話は意識の外に半分程度放り出しておいて、クラークはじっと、エルヴィス・フローレイを見つめる。
『終身刑のエルフ』の話は、聞いたことがあった。『終身刑のエルフ』なる楽曲が一世を風靡して以来、『ブラックストーン刑務所には本当に終身刑のエルフが居る』という噂がまことしやかに囁かれたのである。だが、所詮はただの噂話だと思っていた。それがまさか実在して、しかも、このように魔法を使うとは。
クラークはなんとなく、エルヴィス・フローレイを視線で追った。
エルヴィス・フローレイはへらへらと笑いながら部屋の隅の方に着席して、看守達用の食事を食べ始めた。どうやら、これが魔法の代価ということらしい。尤も、看守の食事は囚人の食事と然程変わらないのだが。
だが、エルヴィス・フローレイはちびり、とホットワインを飲んでは嬉しそうにしている。酒類は囚人には供されないので、アルコールがすっかり飛んだホットワインであっても、酒好きには嬉しいのかもしれない。
……エルフ、という生き物の実物を初めて見たクラークには、エルヴィス・フローレイは少々物珍しく見えた。結局、クラークはしばらく、エルヴィス・フローレイを眺めていることにしたのである。
看守達の仕事は、主に囚人達の監視である。だが、それ以外にも諸々、囚人達には任せられない雑用をこなすこともある。
クラークが最初に命じられた仕事は、外壁の補修だった。確かに、これを囚人に命じてしまうとそれに乗じて脱獄されかねないので、クラーク他、看守が担当するべき仕事だろう。
幸いにして、今日は雪が降っていなかった。だが、晴れ渡った冬の空の下というのは、雪が降るより余程寒いこともある。正に今日がそれで、クラークは作業を進めながらもどんどん体温を奪われ、満足に指が動かせないまでに冷え切ってしまった。
エルフの魔法が無かったらもっと酷いことになっていただろう。それほどまでに、この地方の冬は厳しい。
この寒さの中では、囚人達も風邪や肺炎で死にかねない。特に、彼らはエルフの魔法の恩恵に与っていないのだから猶更だろう。
だが、刑務所の中庭へ戻ったクラークは、驚くことになる。
そこには、刑務所内部の……つまり、そうそう作業に乗じて脱獄などできないであろう位置の雪掻きをしている囚人達が居たのである。
彼らには特別な防寒具が与えられるわけでもない。一応コートの類は着込んでいるが、それでは到底足りないだろうと思われるような恰好である。そして、やはり、寒い。外気に触れた肌が麻痺していくような気温の中、囚人達は雪掻きに精を出している。
これは、今年の内に何人か囚人が死んでもおかしくないな、とクラークはため息を吐く。
……だが。
「見ろ見ろ!つらら!ここ、でっけえつららできてる!」
「でっけえ!つららでっけえ!」
「馬鹿お前、雪を下ろす時はちゃんと後方確認しろ!モロに雪、浴びちまったじゃねえか!粉雪だからよかったけど!」
「あっごめん」
囚人達は……実に楽しそうに、はしゃいでいた。
何かがおかしい。
ここの囚人達は、何故このように楽しそうにしているのだろうか。この寒さの中で、つららを楽しむ余裕があるとは、一体。
「よお、お前らさっさと雪掻き終わらせようぜ。終わらせたら休憩にしていいってさ」
……それら囚人の中に、1人、見覚えのある枯れ草色の髪を見つけて、クラークは訝しむ。
エルヴィス・フローレイ。終身刑のエルフが、何かしているのかもしれない。
「エルヴィス・フローレイ」
作業が終わったらしい囚人達の元へ、クラークは近づいていく。するとすぐにエルヴィス・フローレイは気づいてこちらを向いた。その、特に敵意があるでもなく、ただきょとんとした顔を見ているとなんとも気が抜ける。
「……あ、新しく来た看守さんでしたっけ?」
挙句、そんなことを言われつつ首を傾げられると、ますます気が抜ける。
「クラーク・シガーだ。……一つ、尋ねたいことがある」
だが、クラークは気を引き締めて、エルヴィス・フローレイに尋ねなくてはならない。
「その魔封じの手錠は本当に機能しているのか?」
エルヴィス・フローレイは、きょとん、としたまま、自分の左手を持ち上げて、そこに在る手錠をじっと見つめ、それからまた、クラークへ視線を戻した。
「ええ、機能してる……と、思いますけど」
「思う、とは?」
「試したことが無いので」
さらり、とそう言って、エルヴィス・フローレイは特に意味も無いだろうに左手をふらふらと振る。その手首に嵌められた片方だけの手錠が細い鎖と触れ合って、ちゃり、と軽い音を立てる。
「これが付いてる時には魔法は使っちゃいけないわけですから。わざわざ試そうとも思いませんね」
「……そうか」
エルヴィス・フローレイの言葉を聞いてクラークは頷き……そして。
「なら何故貴様らは今、その薄着で居られる?」
そう、即座に切り込んだ。
……すると。
「……真面目ですね。他の看守は気づいてもほっとくのに」
エルヴィス・フローレイは、にやり、と笑った。先程までのへらへらした様子はまるで無い。クラークは突然、森の奥で巨木に道を塞がれたような気分になった。
「一応弁明しときますけど、俺は本当に、朝の一回以外は魔法を使ってませんよ。ただ、朝の一回の魔法の効果範囲内に、丁度食堂に居る囚人達が入っちまうってだけで。……それで?どうします?他の看守に言いつけるとか?」
エルヴィス・フローレイの周りには、いつの間にか他の囚人達も心配そうに、或いは少々攻撃的な気配で、集まってきている。彼らの敵意や怯えはクラークへ向けられたものだ。……だが、クラークは怯まない。何故ならクラークは、看守なのだから。
「ああ、この件は上に報告させてもらう」
堂々と、そう、クラークは言った。
見つけた以上は、報告すべきだ。この腐った国の中でも、クラークの手の届く場所ではせめて、『正しさ』を守らねばならない。
「そしてコートを支給させる」
……なので堂々と、クラークはそう続けた。