親愛なる死よ*6
音楽はいつも、レナードの相棒だった。
嬉しい時には明るい曲を。悲しい時には静かな曲を。音楽は心に寄り添い、心を表現してくれる。
そして、音楽は他者の心、他者の表現でもある。収穫祭でかき鳴らされるギターの弦は、その場にいる大勢の心と共に広場を盛り上げていた。街角で静かに可愛らしい曲を弾いていたあの人は、きっと懐かしさを覚えてピアノに向かっていた。そして風の音はその気候の表現であったし、レナードにそれらを伝えるメッセージのようなものでもあった。
だから、音楽が好きだ。
自分を理解することができる。他人を理解することができる。知らないものを知り、知っているものをもっと深く知って、そして分かち合い、共に在ることができる。だから、音楽が好きだ。
……レナードは、そんな思いでピアノを弾いた。
右手は物悲しい旋律を軽やかに、それでいて静かに奏で、左手は重厚感のある低音域をゆったりと動いていく。
最初の曲である『古城』は静かにレナードの心を表現し、会場の人々の心をレナードのそれに寄り添わせる。
物悲しく静かでありながら荘厳な音楽は、ブラックストーン刑務所の美しさを表すものであり、そのブラックストーンに向かうレナードの心を表すものである。
レナードには、刑務所がこんなふうに見えた。静かで、美しくて……自分の死に場所として文句の無い場所。親愛なる死の気配が静かに漂い、そこに流れてきた数多の歴史を感じさせる、愛すべき古城。
この曲を聞いた人達は、レナードと同じ気持ちになってくれるだろうか。静かで美しいものを見上げて、自分の死を受け入れながら、残りの時間を過ごすことを決めた、あの時のレナードの気持ちと、同じように感じてくれているだろうか。
2曲目からは、他の囚人達が入ってくる。これは前回同様だ。
『エリカの庭に天使は笑う』を囚人達が軽やかに演奏した後は、『白百合の為の葦笛二重奏』をエルヴィスとレナードが吹く。
この2曲はレナードの作曲だが、観客はこれを大いに喜んでくれた。『エリカの庭に天使は笑う』を聞いたエリカ・ブラッドリーは『軽やかなエリカの枝と素朴なお花が思い出されるようだったわ』と喜んでくれたし、『白百合の為の葦笛二重奏』についてはアイザックが『そういや俺、あの庭に百合を植えたことあったな』と笑みを浮かべてくれた。
これはレナードとしても、嬉しい限りだ。自分で納得のいく音楽を作れたことが何より嬉しいが、それが他者に受け入れられるということは、それはそれでまた嬉しいものなのである。そして、自分の音楽が他者の感情や記憶を引き出したのなら、それはもう、至上の喜びなのである。
その後には既存の曲を数曲演奏し、有名な讃美歌をレナードのピアノ伴奏つきで囚人達が合唱し、そして、『タンバリンマスターを讃える歌』を囚人達が歌い、タンバリンマスターがタンバリンを叩いた。
『おおタンバリンマスター、そのタンバリンの音がなんとなく頭に残る、ららららら……』と聞かされた観客達は只々ぽかんとしていたが、美しい和声と繊細ながら大胆なタンバリンの演奏は、歌詞通り『なんとなく頭に残る』のである。
これについて、エリカは『素敵な歌だったわ!』と笑い、アイザックは『頭がおかしくなりそうだ……なんだありゃ』と評した。また、彼らの子供達3人には大変に好評であったので、レナードもタンバリンマスターも、にっこり満面の笑みである。
そうして演奏会は恙なく、全ての演目を終了した。
観客は囚人達の演奏に盛大な拍手を送り、奏者、そして作曲者であるレナードにも敬意を表してくれた。
この拍手を舞台袖で聞いていた囚人達は大いに喜び、『やったぜ!』と笑い合う。
……だが。
「……あれっ、拍手が終わらない」
レナードは、おや、と思う。……会場からは未だ、拍手が聞こえてくる。それどころか、拍手は徐々に揃って、今や観客が息を揃えて手拍子をしているような状態になっていた。
「あー、なんだっけ?確か、人間達の風習でこういうの、あったよな……?」
エルヴィスは首を傾げていたが……レナードには、これが何か、分かる。
「……アンコールだ!」
まさかと思っていたことが、起きてしまった!
アンコールの曲など用意していなかった囚人楽団は、とりあえず、ということで『タンバリンマスターを讃える歌』をもう一度演奏した。観客達は『おおタンバリンマスター、そのタンバリンの音がなんとなく頭に残る、ららららら……』と一緒に歌っていた。どうやら本当に、なんとなく音が頭に残ってしまったらしい。
……だが、流石にこれで締めくくるのはまずいだろう、と判断したレナードは、退場していく合唱団とタンバリンマスターを見送って、1人、舞台上に残る。
「えー、皆さん、本日は本当にありがとう。アンコールまで頂けるとは、思っていませんでした」
舞台の上で喋るのは、緊張する。だが、緊張していて楽しいことを逃すのはもったいない。だからレナードは、笑顔で照明を浴びるのだ。
「僕達は、ほんの1年前……いや、半年前くらいまで、まともに音楽をやっていなかった囚人が大半です。僕は彼らの中では音楽をやってきていた方だったけれど、それだって、プロじゃない。しがない酒場のピアノ弾きでした」
レナードはそう喋ると、舞台袖に引っ込んでいった他の囚人達の方をちらりと見て、にっこり笑う。
……彼らは皆、レナードに触発されて音楽を始めた者達だ。今やすっかり立派な奏者や合唱団になってしまったが、彼らのはじまりを導けたことを、レナードは嬉しく思う。自分が成し遂げたことがここにこうして形になっていることが、死を目前にしたレナードに安堵を齎した。
「そんな僕らが、こういう風に音楽祭を開催できて、こんなにも多くの人々に演奏を聞いてもらえる。これは余りある幸福です。皆さんのご寄付やご理解御協力のおかげです。本当に、ありがとう」
レナードの言葉に、観客は温かな拍手を送ってくれた。
……拍手を浴びて、レナードは思う。
幸福な人生だったな、と。
「えーと……それでは、僭越ながら、最後の演奏は、僕、レナード・リリーホワイトが務めさせて頂きます」
レナードは笑って……観客達を一通り見回してから、舞台袖のエルヴィスの方を見る。
エルヴィスは、きょとん、としていたが……彼に構わず、レナードはピアノの前に座った。
「僕が作った曲です。その内、楽譜を公表したいと考えています。多くの人が、弾いてくれたら嬉しいな」
自分が遺していくものの1つが、これだ。
音楽によって表現される自分の心であり、音楽に引き寄せられる多くの人の心であり……そして、音楽そのもの。
願わくば、この曲が後世に残るといい。これから苦労して譜起こしすることになるわけだが、その苦労分に見合うくらいは長い間、演奏されてほしい。
そして、どうかこの先、この曲を演奏する人達が、レナードが置いていく友人の慰めになってくれますように、と願う。
「それではお聞きください。『終身刑のエルフ』」
……そうして、音楽祭は無事に終了した。
囚人達の演奏は大変に好評であり、また、演奏ではなく音楽自体もまた、評判になっていた。
特に、『終身刑のエルフ』は、レナードが『中々格好良い曲だろう?』と言う通りの魅力的な旋律と、それでいてどこか寂しいような、もの悲しいような気配が微かに漂う曲調とによって好評を博したのである。
……一方、その次に観客の心に残ったのは間違いなく『タンバリンマスターを讃える歌』だろう。音楽祭からの帰り道、何故か『おおタンバリンマスター、そのタンバリンの音がなんとなく頭に残る、ららららら……』と口ずさんでいる客の姿がちらほら見られた。
この『タンバリンマスターを讃える歌』が、タンバリンマスターの出所後を切り開くことになるのは、また別の話だが。
「お疲れさん」
「ああ、エルヴィス!君もお疲れ様!いやあ、最高の演奏会になったね!」
そうして興奮覚めやらぬ舞台袖では、片付けを進める囚人達が笑い合っていた。
一つのものが完成するというのは、よいことだ。達成感がある。自分達にも美しい音楽を生み出すことができるのだと、囚人達を勇気づけてくれるのだ。
「いや、本当に、本当に最高の演奏会だったなあ」
終わった後まで、最高だ。笑い合う囚人達を見て、レナードは心の底からそれを喜び……そして。
「……これが最後でも悔いはないな」
ふと、そう、零した。
「おい、レナード」
エルヴィスはレナードの言葉を聞き咎め、表情を曇らせた。それを見て、レナードは慌てて補足する。
「勿論、次があるなら、それも楽しみたい!勿体ないからね、楽しめるものは全部全部、楽しませてもらうよ!当然!」
別に、今すぐ死にたいなんていうことはない。レナードは楽しいことが好きだし、これから先、楽しいことは多ければ多いほどいいと思っている。次の演奏会があるならそれが楽しみだし、その演奏会は今回以上に『最高!』と思えるものにしたい。
……だが、言葉を撤回することも、できない。
「……でも、最後は突然来ると思うから」
どうすることもできない。レナードは確実に死ぬのだ。エルフを置いて死ぬ人間は、もう、その覚悟を決めている。
「……そうだな」
そして、人間に置いて行かれるエルフもまた、覚悟を決めているのだ。
「まあ……うん、悔いが無いってくらいに楽しかったんなら、よかったよ」
「うん、ありがとうエルヴィス!」
2人は笑い合う。期限付きの友情であろうが、確かにここには友情がある。笑い合っている今がある。いずれレナードが死んだとしても、今のこの瞬間の価値が減じてしまうようなものではない。
そう。死は、決して悪いものではないのだ。それで全てが終わるわけでも、全てが消えるわけでもないのだから。
それを、レナードもエルヴィスも、良く知っている。
レナードの曲は楽譜の形になり、多くの写譜が世に出回ることになった。特に、『古城』と『終身刑のエルフ』は、その旋律の美しさに惹かれて、多くの者が楽譜を買い求め、演奏に興じることになったのである。
これにはレナードもにっこりするしかない。エルフを寂しがらせない努力としては、中々いい線行ったよね、と誇らしく思う。
……また、レナードの音楽はブラックストーン刑務所の運営にも貢献した。レナードは楽譜を安価で売って、その売り上げの全額をブラックストーン刑務所に寄付することに決めたのである。
所長はレナードのこの決断を、少々寂しそうに受け入れて、ただ『ありがとう』とだけ、言ってくれた。
……そうして冬が来て、祝祭の日が近づいてきた頃。
「……あー」
中庭の雪の上に、レナードが吐き出した血が、赤く点々と零れる。
もう駄目かもしれないなあ、と、レナードは思った。