親愛なる死よ*4
中庭の隅、野薔薇が生い茂ってまるでテントのようになっている一角で、エルヴィスはじっと、野薔薇の枝を見つめていた。
そしてレナードは今、エルヴィスを1人にしておかない方がいいような気がして、なんとなく、そんなエルヴィスの隣に座っている。
エルヴィスは何も話さなかった。ただ野薔薇の枝を見つめているばかりのエルヴィスを見ていても、レナードに何かができているとは思えない。だが、それでもレナードは頑なに、ここに居る。
「……この野薔薇、グレンが植えたやつだったんだ」
そうして何分経ったか、沈黙が流れ切った後に、ようやく、エルヴィスはそう、ぽつんと話した。
「この庭を作り始めたのが、グレンだった。最初にこの庭に植えたのが、イラクサとローズマリーと、この野薔薇だった」
ローズマリーもイラクサも、共にこの庭に生えている植物である。ローズマリーはともかく、イラクサなどが何故こんな庭に植わっているのか疑問だったが、どうやら、そういった思い入れのある植物だったかららしい。
「そっちにアイリスの花壇があるだろ。あれは、グレンが出所してから最初に寄付してくれたやつだった。あいつの奥さんの名前が、アイリスっていうんでね。あいつ、アイリスの花が一番好きだ、なんて惚気てくれて……」
ふと、エルヴィスは当時のことを思いだしたのか、笑みを浮かべて……それからすぐ、その笑みが萎れていく。
「……ついこの間のことみたいなのに」
エルフにとって、人間の寿命はあまりに短い。そして、その存在をすぐに忘れ去ることができない程度には、長い。
グレン・トレヴァーは、エルヴィスにとって、忘れがたい存在であった。大切で、大切であったからこそ、喪えば悲しみばかりが残る。
「大分無理してくれたって、分かってるんだ。グレンは本当に長生きしてくれた。人間にしては本当に、本当に、長生きだった。アイリスが死んでもあいつは気丈に生きてたし、俺が行く度に話してくれて、でも、それが結構無理してたんだってことも、分かってた。これ以上を望んじゃいけない、とも……」
エルヴィスが俯く。俯いた顔を膝の間に埋めるようにして、体を丸めてしまう。
「……でも、まだ生きててほしかった」
吐き出した声は震えて、滲む。その声も、声にならないような音も、1つ1つが空気を震わせて、風の音に混じって、溶けていく。
その時だった。
「あ」
こつん、と、地面に何か、小さく硬い物が落ちる音が聞こえる。
おや、と思ってレナードがエルヴィスの方を見ると、エルヴィスは、戸惑うような、焦るような様子で、地面に落ちたそれを隠すように拾う。……だが。
こつん、こつん、と、立て続けにもう2粒。
エルヴィスの目から零れた涙が宝石になって地面に落ちたのを、レナードは目撃してしまった。
「あ、うわ、えーと」
エルヴィスの目からは中々止められないらしい涙がぼろぼろと零れ、それらは零れた端から宝石に代わって、こつんこつんと落ちていく。
野薔薇の葉に遮られて散り散りに届く優しい日差しがそれらの宝石を煌めかせる様子は、この世のものとは思えない程に美しい。
『うわやべ、どうしよ、止まんね』とエルヴィスが慌てる中、レナードはただただぽかんとしながらそれを見て……叫んだ。
「美しい!」
悲しみも戸惑いもあったが、それ以上に、美しいものを見た感動がレナードを満たしてしまった。その感動は確実に、レナードを悲しみの底から掬い上げる。
が、そんなレナードを見て、ぽかん、としたエルヴィスは、ぽろ、と涙を零してから、涙を止めて、ただ苦笑いを浮かべた。
「……お前、本当にこういう奴だよなあ」
最後に零れた涙一粒は涙のまま地面に染みて消えていく。レナードはそれを見て『どういう仕組みなんだ!?』と驚いたが、それを見てエルヴィスはまた笑う。
「助かったぜ。お前のツラ見てたらなんか、気が紛れた」
「えええ……僕としてはもう少し、さっきの美しい光景を見ていたかったのだけれど」
レナードは先程の光景をしっかりと記憶の中に刻み込む。透き通った宝石に煌めく木漏れ日。そして何より、零れる宝石よりも更に美しい、エルフの瞳。一度見たら生涯忘れられないであろう、美しい光景だった。
「まあ、君が泣いているのは良いことじゃないからね。僕を見て気が紛れるっていうなら光栄さ!」
だが、レナードとしては、美しい光景をもう一度見たいとは思えないのである。何せ、このエルフの友人が悲しみに暮れている様子は、あまりにも悲しいので。
「うん……まあ、お前、良い奴だよなあ」
「そうかい?まあ、そうだね!僕って良い奴さ!」
エルヴィスは、未だ潤む目元を袖で拭うと、レナードが『ついでに時々どうでもいい奴!』と笑うのを見て、また少しばかり笑う。これを見てレナードは安心した。どうやら、自分がここに居て、多少は良くなることがあったらしいので。
エルヴィスが落ち着いてきたところで、レナードは改めて、先程の光景について聞くことにする。不躾かもしれないなあ、と思いつつも、好奇心は止められなかったし、エルヴィスだって、見て見ぬふりをされるのは居心地が悪いだろうと思われたので。
「それにしても、『エルフの涙は宝石になる』っていうのは本当だったんだね。てっきり、作り話だとばかり思ってたよ!」
「あー、うん、そうなんだよなあ……くそ、お前に見られる羽目になるとは思ってなかった!グレンにだって内緒にしてたってのに!」
「えっ!?ごめん!でも見ちゃったよ!ふふふ、得した気分だ!」
悔しがるエルヴィスを見てにこにこと笑って見せれば、エルヴィスはため息を一つ吐いて、先程零れた宝石の1粒を指でつまんで眺めつつ、解説してくれた。
「エルフはな、涙っつうか、感情が凝って宝石になっちまうんだよ」
「感情が?」
不思議な話だ、と思う。まあ、エルフという生き物は魔法の生き物である。現に今、そうした不思議な現象の1つを目の当たりにしてしまった以上、信じざるを得ないが。
「玉ねぎを切ってる時とか、欠伸した時とかに出る涙とか、そういうのは宝石になんかならねえ。感情が籠っちまうわけじゃないからな。ただ……本当に、どうしようもないくらい悲しい時に出た涙は、こうなっちまうんだよ」
エルヴィスがつまんでいる宝石を、レナードはしげしげと眺める。眺めていたら『見るか?』と1粒渡してもらえたので、改めてじっくりと観察してみる。
それは、きらきらと煌めく透明な宝石だった。まるでそうしたカットを施したかの如く、不規則ながら綺麗に整ったいくつかの面で構成されている。
エルフの悲しみは、このように美しいものであるのだ。そして悲しみの色は、どうやら透明であるらしいなあ、とレナードは思う。
そしてやはり、『ああ、美しいなあ』とも。
「……君、よかったね。今まで内緒にしておいたのは正解だったと思うよ。そうじゃなきゃ、こんな美しいもの、すぐに狙われてしまうね。例えば、前所長は間違いなく君を見逃さなかったと思うし……」
エルフの悲しみが凝ったというこの宝石は、あまりに美しい。見ていると目が離せなくなってしまうような、心を揺り動かされるような、そんな宝石なのだ。だからこそ、危ない。
「そうなんだよなあー……だから俺達エルフは、人間の前じゃ絶対に泣かねえようにしてるんだ。欲に目が眩んだ人間は、エルフを捕まえて酷いことし始めるからな。そうなると自分だけじゃない、他のエルフまで巻き込むことになっちまうし……」
なんとも不幸なことだなあ、と、レナードは思う。
感情が凝って宝石になる、という美しい性質を持ったばかりに、更なる悲しみと災禍を呼び寄せてしまうとは。そして、そうならないよう、人前で涙を零せないとは。
エルヴィスは複雑そうな顔で、宝石の1粒を眺めている。『俺も久しぶりに見たなあ、これ』とのことだ。涙を流さないようにと生きてきた彼の歴史を思うと、どうにも悲しい。
だが、レナードは前向きである。
「……つまり僕は、とてもとても、幸運だったということ?」
エルヴィスが今まで涙を流せずに生きてきたことは不運なことだが、それはそれ、である。
レナードが先程の美しい光景を見て、この美しい宝石を見ることができたのは、非常に幸運であった。レナードにとっては!
「そうだな!ついでに俺にとっては一生の不覚だったっつうことだよ!」
どこか恥じらうように怒るエルヴィスを見て、レナードはついついにっこり笑う。自分の10倍以上長生きしているというのに悔しがるエルフを眺めるのも、中々オツなものである。
「そうかあ……うーん、しかし、少しだけ、グレンさんが羨ましいなあ」
それからふと、レナードはそう零す。エルヴィスはきょとん、としていたが、レナードからしてみれば、これは大変なことなのだ。
「自分の死が、こんなに美しいものをこの世に零れ落ちさせた、っていうのは……人間の立場からすれば、素晴らしく光栄なことだと思うな」
グレン・トレヴァーと同じように、そう遠くなく死を迎えるレナードは、その時を思って、笑う。
「……グレン・トレヴァーは確かにここに居たんだね」
レナードは、会ったことのない人物に思いを馳せる。ここに居て、終身刑のエルフと知り合い、そして、随分と無理をして、少しでも長くエルフと共に在れるように、と頑張った人物。
終身刑のエルフに、何十年ぶりかにして、悲しみの涙を零させた人物。
そして、この素晴らしい庭を生み出した人物だ。
「まあ……すごい奴だったよ。面白い奴だったし。まあ、この庭を見りゃ分かると思うけれど……」
エルヴィスはそう言って、それから顔を上げて……野薔薇の向こうに広がる庭の、数々の植物を見て、しばらくそのままで居た。
そのままで居て、それから……ふと、笑う。
「……うん。そうだな。庭を見れば、グレンが居たの、分かるもんな」
レナードは、どこか嬉しそうなエルヴィスを眺めて、『少し元気になったならよかった』とにっこり笑う。
エルヴィスにこんな顔をさせているグレン・トレヴァーという彼は、果たして一体どんな人だったんだろうか。思い描けば、微かに楽しく、だが、その人物がもうこの世に居ないことが只々悲しい。
そしてもうじき、自分もこのようにエルヴィスを悲しませることになるのだな、と思うと、どうにも、やるせない。
……そう。もうじき、レナードも、グレン・トレヴァーと同じように、死ぬのだ。
「……あっ、もしかして僕が死んだら、君、宝石零してくれるかい!?」
ということで、レナードはそう、目を輝かせた。
「えええ……」
エルヴィスは、何とも言えない顔をした。
「僕が死んだ後にこんなに美しい宝石が生まれるってことかい!?光栄だよ!ありがとう!」
「いや、どうだろうなあ……なんか、お前のために宝石零すの、悔しくなってきたからなあ……」
エルヴィスが何とも言えない顔で拗ねたようなことを言うので、『そこをなんとか!』と拝む。
……もし、その時が来て、本当にエルヴィスが涙を零してくれたなら、それはレナードにとって、非常に光栄で、非常に嬉しく、そして、ちょっぴり申し訳ないことである。
だから、その時には今日の会話や妙な悔しさでも思い出してもらって、苦笑してもらえたらいいな、と思う。
……それはそれとして、1粒くらいは悲しみを零してくれたらいいなあ!とも思うが。でも、1粒でいい。悲しみなんて、1粒でいい。後は全部、苦笑くらいでいい。
ただ、『変な奴がいたなあ』と笑ってくれたら、レナードにとっては、それが一番、嬉しい。