親愛なる死よ*3
その日から、レナードの作曲が始まった。
「あー、僕、楽譜を書くの、苦手なんだよね」
そして早速、レナードは苦戦している。
「結構ポンポン作曲してるじゃねえか」
「いや、作曲はできるんだよ。できる。ぽんぽん湧いてくるから。……でも、それを逐一捕まえて、忘れないうちに書き留めていくっていう作業が、苦手なんだよ!」
レナードにとって音楽は、水か風のようなものである。或いは、それらに乗って流れていく落ち葉や花弁、綿毛や鳥の羽。それらの形を崩さないよう、上手に捕まえるのは難しい。丁寧に書き留めていくなんて、もっと難しい!
「あー、それは何か納得できるなあ。確かにお前、そういうの苦手そうだ」
エルヴィスは隣でレナードの手元……次第に出来上がっていく楽譜を眺めつつ、楽しそうに、ふんふん、と頷いた。
……レナードの作曲風景は、傍から見ていて面白いのだ。
レナードはピアノを弾いて、途中まで弾いたところで楽譜に記録しにかかり、忘れた部分はそれを補い、確認するために鼻歌で『ふんふふん……ふふん?ふん……ふーんふふん、ふん、ふん……?』と、少々間の抜けた調子でやっては、至って真剣に首を傾げている。
エルヴィスはそれを楽しく見守っては、時々『さっき弾いてた時はふふんふん、だったぞ』などと教えてやるのだが、それもまた楽しい。
ある程度楽譜が書けたら、今度はそれを確認するために楽譜を見ながらピアノを弾くのだが、生まれたての音楽は、どこか柔く聞こえる。そんな柔くふにふにとした音楽を一頻り味わって、エルヴィスはそっと、音楽室を抜け出した。
エルヴィスが向かったのは、古い古い厨房である。かつて使われていて、しかし今はもうとっくに使われておらず……すっかりエルヴィスの部屋と化している場所である。
そこで、エルヴィスは少々久しぶりにポーションを煮込むことにした。
ポーションは、残念ながら万能薬ではない。ポーションにできることは基本的に、生き物の体が自然に変化する時の、その自然な変化の範囲内に収まる変化を最大限に増強するに過ぎないのだ。
だから、傷を癒すことはできても、自然に治るわけではない病を治すことはできない。
……レナードの病はどうも、自然に治る類のものではなく、そもそも、治療が難しいものであるらしい。だから、エルヴィスができることは……レナードの延命と、彼の苦痛の緩和。それだけなのである。
だが、それが重要だ。レナードが、これから先、もう少しばかり多くのものを遺していくのに、それらが重要なのだ。
そして……レナードの死にエルヴィスが納得するためにも、必要なのだ。
このまま、何もせずになどいられない。強く輝いて燃え尽きていこうとする儚い命を前に、何もしないなど、耐えられない。
エルヴィスは、人間と共に居ることを選んだエルフだ。だから、尚更だ。
「大麻が役に立つなんてなあ」
エルヴィスは、こっそり庭から取ってきていた大麻をそっと、鍋の中へ入れていく。
この大麻は、グレンと一緒に居た頃にあったいざこざの中で手に入れたものだ。それを大切に大切に栽培し続けて、今も庭の一角、葵やら皇帝ダリアやら、背の高い花に紛れるような形でそっと生息している。
大麻は言わずと知れた『そういう』用途の植物であるが、その効能はポーションづくりにも大いに役立つ。
大麻の効果を和らげるよう、地のエレメントを含むパチュリーや麦、芋などを加えていけば、痛み止めのポーションが生まれる。水のエレメントを含む桃やリンゴ、貝殻や魚の骨などを調合すれば、良い夢を見せるポーションだって作れる。逆に、火のエレメントを含むシナモンやイラクサを加えていけば、より強く幻覚を見せたり、狂暴性を増すような興奮剤だって作れるのだ。
エルヴィスは、レナードの残りの人生がそう長くなく、そしてその長くない命でさえも苦痛にまみれたものになることを悟っていた。
……グレンが今、そうだからだ。グレンには、グレンの孫……つまりアイザックの子供の1人が作ったポーションが与えられ、痛みを緩和し、安らかな日々を送ることができている。
不思議なことに、グレンの孫の1人には、エルフでもないのにポーションを作る才能があったらしい。エルフの森に小さいころから慣れ親しんではポーションづくりを極めているため、エルフ達からは『この子、うちの子にしたい!』と言われているらしい。が、『俺はママの子でパパの子だから駄目!』と断り続けているんだとか。
「折角だから美味しくしておいてやるか。アイザックみたいに苦いの苦手だと可哀相だもんな」
エルヴィスは庭の蜂から分けてもらった蜂蜜も足して、味にも気を遣ったポーションを作ってやるのだった。
「甘くておいしい!」
「そりゃよかった」
そうしてレナードは、エルヴィス謹製の痛み止めを服用することになった。蜂蜜とリンゴの果汁で飲みやすくした代物であるので、レナードもにっこりする味わいである。
「薬だって聞いてたから、もっと苦いものだとばかりおもっていたよ。実際、ブラッドリー魔導製薬のポーションを飲んだことがあるけれど、あれは苦かったからね!」
「まあ、気を遣えば味にも拘れるぞ。その分、甘みを足すための蜂蜜とかリンゴとかでエレメントのバランスが変わっちまうから、難しくはなるが」
実際のところ、エルヴィスは簡単にやってのけているが、味付けを気にしたポーションづくりは難しい。アイザックも『飲みやすいポーション』を開発しようと頑張っていたらしいが、今一つ上手くいっていないと聞く。まあ、彼の場合はポーションの生産を魔導機関化する必要があるので、その難しさが加わるのも大きな要因だろうが。
「……で、調子はどうだ?」
「ああ、うん。なんだろうなあ……体のあちこちに刺さっていたトゲが無くなっちゃった、っていうかんじだ!」
そして、エルヴィス謹製のポーションは、無事、レナードの痛みを緩和することに成功したらしい。
「いや、驚いたな!僕、すっかり健康体じゃないかなこれ!」
「そういう訳じゃないから油断するんじゃないぞ。くれぐれも自分が重病人だっていう自覚を持って行動を……あーこらこら飛ぶな跳ねるな踊るな。ワルツのステップを踏むな。あーあーあー俺を女役にするな!いや待て、お前が女役をやればいいって問題でも……あーもういいやあ」
レナードは痛みが癒えた喜びからか、踊り出す。エルヴィスの手を取って、るんたった、るんたった、と楽し気に鼻歌で旋律を奏でながら。そしてまるで自重というものを考えずに。
「久しぶりだよ、こんなに調子がいいの!ありがとう、エルヴィス!」
……こんなにはしゃぐほどに痛みの無いことが嬉しい、というのなら。体に痛みが無いことが久しぶりだというのなら……それは何とも痛ましい話だ。だが、エルヴィスはただ、苦笑するにとどめる。
「そりゃどうも」
これから楽しいことが待っている。レナードは美しい音楽を満足いくまで作っていく。そこに暗い影など落とす必要は無い。
「るんたった、るんた……あっ!新しい曲を思いついた!ちょっとエルヴィス、頑張って記憶してくれ!僕、歌うから!」
「あー、はいはい。あんま期待するなよ」
そうしてまた新たな曲が生まれ始めるのを笑って眺めつつ、エルヴィスはレナードのワルツに付き合ってやるのだった。
夏が終わる頃、ブラックストーン刑務所は、第二回音楽祭に向けて囚人達が練習に励んでいた。
新しくやってきた所長は、『囚人達の情操教育のためにも、奉仕の心を見つめ直すためにも、近隣住民の理解を得るためにも、音楽祭は悪くない催しである。そして自らの努力が報われる経験は、囚人達に必要なものだ』として、音楽祭の開催を進めてくれたのだ。
これをレナード達は大いに喜んだ。エルヴィスはレナードが喜んでいるのを見て嬉しくなった。多くの囚人達が真っ当に行事を喜び、そして、例のタンバリンマスターもしゃぱらぱしゃぱらぱとタンバリンを鳴らして音楽祭の到来を祝った。
そうなってしまえば彼らが行うべきことはただ1つ、音楽の練習である。
「いやあ、こんなに嬉しいことってあるかい!?僕が作った曲を、皆が演奏してくれるなんて!」
そうしてレナードはまたも狂喜乱舞していた。それもそのはず、次の音楽祭で演奏する曲目の中に、レナードが作曲したものがいくつか入ることが決定したのである。
予定されているのは、『白百合の為の葦笛二重奏』と『古城』なるピアノ独奏曲、『エリカの庭に天使は笑う』なるアンサンブル曲、そして『タンバリンマスターを讃える歌』なる合唱とタンバリンの曲。その4曲分である。
特に練習しているのは、『タンバリンマスターを讃える歌』だ。これはタンバリンマスターのタンバリンを中心に、彼のタンバリンの腕に心酔している囚人達のコーラスを加えたユニークな曲であるが、合唱である以上、多くの囚人達の声を1つに合わせていく必要がある。その分練習が必要なので、ブラックストーン刑務所では、毎日のように『おおタンバリンマスター、そのタンバリンの音がなんとなく頭に残る、ららららら……』と奇妙な歌が響いていた。
勿論、そればかり練習している訳にもいかないので、レナードは他の曲も練習した。『白百合の為の葦笛二重奏』はエルヴィスとレナードの葦笛二重奏であるし、『古城』は当然、レナードが1人で演奏するものだ。『エリカの庭に天使は笑う』については他の囚人達が演奏するのだが、その監督を務めるのはレナードである。
こうしてレナードは、毎日毎日、忙しく動き回ることになる。
「いやあ……本当に毎日、君のおかげで何とかなってるよ。ありがとう、エルヴィス」
「ま、そいつはよかったよ」
忙しいレナードを支えたのは、間違いなくエルヴィスと、エルヴィスが作ったポーションであった。
レナードが動き回れているのは、どうしようもない体の痛みを和らげるポーションがあるからなのだ。もし痛み止めのポーションが無かったら、レナードは今頃、忙しく動き回ることなどできていなかったはずだ。
「……やっぱ、悪くなってんのか」
「まあ、それは当然そうだね。症状は時間と共に進行していくものだし」
未だ、エルヴィスはレナードにいずれ来る死を受け入れ切れていないらしい。それに苦笑しつつ、レナードは同時に、嬉しくも思うのだ。
「ありがとう、エルヴィス。君みたいなやつに惜しんでもらえるっていうことは、非常に光栄だよ!」
「あーあ、本当になあ。お前が居なくなるのは惜しいなって、初めて会った日からずっと思ってたんだぞ、こっちは」
エルヴィスは渋い顔をしていたが、『そういえばそうだったなあ!それで君、僕に向かって、終身刑にならないか、なんて言ってきた!』とレナードが笑い出すので、つられて一緒に笑い出す。
……レナードとエルヴィスの間に流れる時間は、もう、そう多くない。特に、エルヴィスからしてみれば、長い長い寿命の中の、ほんの一瞬にすぎないような時間でしかない。
だが、楽しかった。2人とも、残りの時間を楽しく過ごせるように努めていたが、その甲斐もあり、単純に両者が共に面白いこともあり……楽しく、過ごせていた。
そんなある日、ブラックストーン刑務所が、ふと、騒がしくなった。
騒がしいなあ、と思いながら、その日の洗濯当番だったレナードは正面玄関の方を窓から覗いて、そこに見覚えのある魔導機関車が停まるのを見つけた。
……それは、ブラッドリー魔導製薬のロゴの入った、魔導機関車である。
おや、と思って見ていると、その魔導機関車から、アイザック・ブラッドリーが静かに降りてきた。
レナードは駆け出していた。
何が起こったのかを悟って、ただ、エルヴィスを探して、走り回った。
「エルヴィス!」
そうして中庭でエルヴィスを見つけると、エルヴィスはのんびり振り返って、それからレナードの危機感に満ちた表情を見て、首を傾げて……。
「アイザックさんが、来てる」
レナードの短い言葉の中に、エルヴィスはやはり、何かを悟った。
「……それって」
そしてエルヴィスが自分の出した答えを、まだはっきりと自覚できていない内に、かつかつかつ、と忙しなく看守の靴の音が聞こえてくる。
「エルヴィス・フローレイ!」
看守の声もまた、どこか硬い。責務を果たそうとしながらも、任務に徹しきれない、非情になり切れないような顔で、看守はエルヴィスを見つめると……そっと、告げる。
「……伝言だ。『グレン・トレヴァーが死んだ』と」