親愛なる死よ*2
じわじわと暑い日差しの下、エルヴィスの前髪が落とす影が、見開かれた森色の瞳に掛かって揺れている。夏の木漏れ日と、その下の木の葉のようなそれを見て、レナードは『美しいなあ』と微笑む。
「僕、内臓のどこだかかが、駄目らしいんだよね」
それから花壇の縁の煉瓦に視線を落としつつそう話せば、案の定、エルヴィスの見開かれた目に、悲しみの色が滲み始める。
それでもレナードは、何でもないことのように説明する。『多分ここらへんがね』と適当に腹の一部を擦りながら話せば、エルヴィスは戸惑いながら、『どれのことだか分からねえ……』と、的外れなのだかどうだかよく分からない答えをくれた。
「そんなにすぐには駄目にならないんだけれど、まあ、3年もすればほぼ確実に死んでいる、っていう具合らしくて……入所前には、余命一年、なんて言われてたんだけれどね」
レナードとしては、もうあの時から一年は過ぎているので、『あの宣告、当たらなかったなあ』と思っている訳だが。
「まあ、そういう訳だ。すごく簡単に言えば、今も、僕は死にゆく内臓を叩き起こしつつ、一緒になんとか生きている、っていう有様で、そして、多分、僕はエルフと比べたらとても早死にだし、他の人間と比べても早死にな部類に入ると思う」
レナードの話に、エルヴィスは只々、悲痛な顔をしていた。現実味が無いのかもしれない。レナードはそれを見て苦笑する。
今までもそうだった。レナードが余命の話をすると、どうにも、皆が暗くなってしまっていけない。
ピアノを弾いていた酒場でもそうだったから、カフェを退職する時にはただ『旅に出る』とだけ言って辞めてきた。
自分のせいで周囲の人が悲しい思いをするのは嫌だったし、彼らにはどうか、『レナード・リリーホワイトは自分の知らないところで今日も楽しくやっているんだろう』と思って、楽しく居てほしかった。
だが、この刑務所の中で言わないわけにはいかないかなあ、とも、思っていたのだ。
何せ、刑務所だ。閉鎖された空間の中では、誰かが『どこかで生きている』なんて、思えっこない。そして、恐らく、レナードは寿命の内に刑期を終えることが無い。
「僕の罪状って、大麻所持だったんだけれど、言ったことあったっけ?」
それからレナードが少々話を飛ばしてそう問えば、エルヴィスはぽかん、とした。レナードは『大麻って知ってる?』と聞いたところ、『育てたことはあるぜ』と返事が来たので、やはりこのエルフはすごいなあ、とレナードはにっこりする。
「いや……初めて聞いたけれどな、お前、大麻って……何だ?売ってたのか?」
「いや、まあ、大麻所持っていうか、大麻、使っちゃったんだけれどね」
レナードがそう言えば、エルヴィスは『ますます分からん』というような顔をした。エルフの中にも大麻を使う者は居るが、エルヴィスは大麻はおろか、喫煙すらしない性質のエルフなので、尚更レナードのことが分からないのだ。
「……えーと、大麻を使うと、痛みが誤魔化せるから。楽なんだよ」
レナードが大麻を使ったのは、真っ当な治療薬が高かったからである。
実のところ、レナードの病は、高価な治療薬があれば進行を遅らせることができる類のものであるらしい。だが、その治療薬にしろ、痛み止め1つにしろ、高くて手が出せなかった。
その点、粗悪な大麻でよければ、路地裏で安く買える。レナードのようなしがないピアノ弾きには、丁度良かった。余命を少しでも伸ばそう、などと望める程には金が無いが、ただその日その日を楽しく生きて適当に死のう、と望める程には強かだったので。
「……お前、まさか、『寝る前に水を飲みたい』って言ってたのは」
そして、エルヴィスはとても察しがいい。流石だなあ、とレナードは笑いつつ、そっと、答えた。
「うん。実のところ、今も痛みが酷い日には隠し持ってきた薬を飲むことがあるんだよ」
レナードは強かなので、大麻を没収されて刑務所に入所することになった時も、うまく大麻由来の薬を入手して、それを持ち込んだ。『痛み止めだ』と言って診断書と共に提出すれば、痛ましげな顔で持ち込みは受理された。
そうしてレナードは、痛みがあまりに酷く、姿勢を幾ら変えても眠れない程の日には、薬を飲んで痛みを誤魔化しつつ眠ることができているのである。それも、薬を飲むための水を工面してくれたエルヴィスのおかげである。
「……そうか、お前が滅茶苦茶陽気なのって」
「え?いや、多分これは地だけれど……?」
が、これはこれ、それはそれ、だ。
レナードが今日も明るく楽しく朗らかに過ごしているのは、大麻も何も関係ない。レナード自身の、性格故である。
「誤解しないでほしいんだけれど、僕、この刑務所に来てから痛み止めを飲んだのなんて、本当に10回かそこらしかないからね?」
「えーと、パンツ脱いだあの日は」
「あの日も素面だったよ。……いや、そもそも、夜、寝る前に飲んだ薬は朝起きる頃には大体、もう効果が切れてるのさ。おかげで起き抜けに痛いこともあって……」
「大麻のせいなら納得がいく、って丁度思った所だったのに、また納得いかなくなっちまったじゃねえか……」
「あのね、エルヴィス。人間っていうのは、こういう意外性に溢れた生き物なんだよ!」
レナードはエルヴィスと話しながら、嬉しくなった。エルヴィスはなんともやるせない顔をしつつも、レナードとの会話を楽しんでくれる。悲しんでばかりではなく、その時の楽しいことを拾い上げてくれる。それが、レナードには嬉しい。
「エルフって、皆、君みたいなかんじなのかな」
あまりに嬉しかったレナードは、ついつい、そう聞いてみる。
「それってどういう意味だ?」
「悲しい話を聞いても小さな楽しさを拾い上げて、笑い合ってくれるような、素晴らしい生き物なのかい?っていう意味さ」
エルヴィスは少し考えて、それから唸り……ふと、『ぴんときた』というように一つ頷いた。
「まあ、そうだな……うん、そうかもしれない」
「おや」
レナードは半分くらい『別に全員がこうって訳じゃない』というような答えを予想していただけに、エルヴィスの答えは意外に思えた。するとエルヴィスは足元の雑草をふにふにと指先で弄りながら、補足を入れてくれる。
「ほら……生き物ってのは、絶対に、死ぬだろ」
「そうだねえ」
「それで、エルフは長く生きるもんだから、そういうのを何回も何回も何回も、味わう羽目になる。……だから、それ以外の楽しいこととか、幸せなこととか、そういうのを見つけて、悲しいことを忘れていかないと、やってられない」
エルヴィスの説明を聞いて、レナードは『なるほどねえ』と頷く。
そう思うと、エルフというのはやはり、素敵な生き物だと思う。悲しいことをいくつも経験しながらにして、その時その時の楽しいことを見つけていける。ある種、エルフの方が人間よりも、刹那的なのかもしれない。
「ねえ、エルヴィス」
まだどこかぼんやりと虚ろな顔をしているエルヴィスを見て、レナードは笑う。自分のせいでこんな悲しい顔をさせてしまって申し訳ないな、とも、どうか、楽しいことも思い出してほしいな、とも思いつつ。
「僕は君と、長く一緒に居ることはできない。君はエルフで僕は人間だし、そうでなくても、僕は残念ながらそう長くない命だ」
話しながら、レナードは『そしてその長くない命だって、多分、最後の方は今よりももっと苦痛にまみれた日々になるだろうな』と予感する。楽しい思い出はあんまり作れないかも、とも。だが、それは言わないことにした。これ以上、このエルフに悲しいことを言う必要は無いだろう。
「けれど、長く友人で居られない一方、君に短い命の楽しさを教えることはできそうだと思っているよ」
そう。レナードがエルヴィスに伝えなければならないのは、楽しいことだ。
人間の、エルフとは同じ時を歩めない業を、どうにかして楽しんでみせることだ。
「死はそう悪くないよ。死は、世界を美しく見せてくれる。少なくとも、僕にとってはそうだ」
「妙な話だけれど、死期が迫ってくると、全てのものが美しく見える。そこに在って当たり前のものが、こんなにも美しいんだって気づけるんだよ」
レナードはそう言って、ほらね、と、雑草の小さな花を指差す。『綺麗だろ?』と。
それにエルヴィスは、『ああ、綺麗だな』と頷いた。ありふれた小さな花の美しさに、今、改めて気づいたような顔をして。
「だから僕は、死を然程悲しんでいないよ。勿論、君と会えなくなるのは寂しいけれどね。けれど今までの分だけでも十分すぎる程に楽しかったし、満足はしてるんだ」
こんなにも世界は美しいのだと、伝えたい。悲しいことばかりではなく、あちこちに楽しいことも幸せなことも、美しいものも、あらゆるものが散らばっている。それら1つ1つを大切に愛おしんでいたら、悲しいことなんかに囚われている暇は無くなってしまうだろうから。
「……そうだなあ。確かに、そうかもしれねえなあ」
エルヴィスはふと、表情をくしゃり、と歪めて、それから、何かを堪えるように渋い顔をしてみせた。
「エルフは、自分の死が遠いから。だから、いろんなものを見ても、多分、人間達みたいに感動できない。長い長い時間っていうのは、ゆっくりゆっくり流れて、その内に目を曇らせちまう」
数度、瞬く。そしてエルヴィスはじっと前を向いたまま唇を引き結び、それからたっぷり数秒後、口角を、にっ、と上げて、笑みの形を作った。
「だから俺、人間と一緒に居ようって思ったんだ」
「……そうだったな。俺は、死と共に居ようって、思ったのかもしれない。だって、それが……死があってこそ、あらゆるものが美しいから」
エルヴィスはそう言いながらもどこか割り切れないような顔をして、髪を夏の風に揺らす。その様子をまた『美しいね!』と思いながら、レナードはにっこり笑った。
「そう!だから、死はそんなに悪くないのさ!……それに、人間は死んでも、その死後に残るものがある。そうだろう?美しい日々が終わった後にも、おまけが残ってるなんて、素晴らしいと思わないか?」
さあ、この調子だ、とばかり、レナードは立ち上がった。立ち上がって……『いや、特に立ち上がる必要は無いな!』と気づいたので、もう一度座る。
「そうだな……僕はきっと、音楽を残していけるね」
それでもどこかウキウキと踊るような心のままに、レナードはエルヴィスの手を握った。
「音楽はいつでも、君の中にある。君の中にずっと昔からあったものだし、僕がこれから残していくものでもあって……音楽はいつでも君の中にあって、君の時間に寄り添ってくれるはずだ。きっと、役に立つよ」
エルヴィスは少しばかり惑うような素振りを見せた。だが、それも振り払うように笑う。
「……そうだな。うん。お前のおかげで、俺は音楽っていうものをこんなにやるようになったし……うん。お前が、その、居なくなっても。それでも、俺の中に残るものは、ある。当たり前って言えばそうなんだけどな」
きっとエルフが幾度も乗り越えてきたのであろうそれをもう一度確かめるようにしてエルヴィスは頷いて……そして、何とも言えない顔をする。
「ああ、お前は……その、なんというか、俺の人生の中でも指折りの、その、こう、残していくものが多い奴っていうか……残っちまうものが多い奴っていうか……」
「それ、褒めてるのかい?貶してるのかい?」
「そうだなあ、パンツ脱ぐ奴の印象は強いってことだよ」
「ああよかった、褒められてた!」
何とも言えない顔のエルヴィスに、レナードは満面の笑みを向けた。この前向きな思考がレナードの持ち味である。
「まあ、そういうわけで……折角なら、もっととんでもなくすごいのを遺していきたいんだよ、エルヴィス!」
「えっ、まさか今度こそ未遂じゃなくてうんこ投げるのか!?」
「いや、そっちの方向じゃない方にすごいのをやりたいね、僕は!」
おほん、と咳払いをして、レナードは両腕を広げた。夏の日差しも、花の香りの乗った温い風も、全て受け止めるように。
「ねえ、エルヴィス。僕はね、作曲したい。エリカさんの美しさを讃える曲は書かなきゃいけないし、アイザックさんの半生を音楽にしてみるのもきっと悪くないだろうね。それから、この愛すべき古城の荘厳な様子を音楽で表現してみたいな。うん。それはこの刑務所に来た時からずっと思っていたんだよ」
思い浮かぶものは、いくつでもある。
この庭の美しさ。野薔薇の花弁の一枚一枚の瑞々しさ。絡まり合った蔦の生き生きとした様子。そしてそこに佇み、幾多の死を乗り越えて尚、楽しいことに満ちているエルフの姿も。全て全て、レナードにとっては音楽の材料である。
そう。レナードの頭の中には、早速、音楽が生まれ始めていた。
「……と、そういう訳だ、エルヴィス。君の時間をちょっとだけくれないかな?」
この溢れ出る喜びで、楽しさで、目の前のエルフを巻き込んでしまいたい。ついでにこの刑務所ごと全て、包み込んでしまいたい。何せ、レナードは楽しいことが好きなのだ!
「……ああ。勿論」
そしてエルヴィスだって、また、楽しいことは好きな性分なのだ。楽しく、美しいものが好きな……人間好きのエルフなのだ。
「では、手始めにそこで真白く輝くような、白百合の美しさを讃える歌から!」
庭に白百合が揺れている。恐らく、次にここの白百合が咲く頃には、もう、レナードはここに居ない。
だからこそ美しい白百合が、ただ、穏やかに揺れている。