親愛なる死よ*1
……それから2か月。夏の盛りになる頃には、ブラックストーン刑務所に新たな所長がやってきていた。
退役した警官であったらしい新たな所長は公正と公平を重んじる人物であるらしい。早速、看守達の労働環境が改善され、賄賂は全て払いのけ、囚人達の食事事情も衛生環境も、改善していった。
また、元所長については、現在、裁判を待つ状況にある。原告は複数の囚人達と、囚人達を支援する団体……レナード達の音楽に感銘を受けた富裕層であり、担当弁護士はエリカ・ブラッドリーである。
囚人達への虐待や所内の劣悪な環境が問題になったことで、贈賄や寄付金の横領についてもようやく捜査が入って逮捕となり、刑事訴訟も進んでいる。
……元所長は逮捕直前まで、『あの囚人達を絶対に許してはならない!』として、レナードを永久に仮釈放の対象から外すよう諸々の手続きをしていた。
どうも、最も派手な『体調不良』を見せてくれたレナードとその補佐をしたエルヴィスに対して憎悪が濃かったらしい。そして、エルヴィスは元々終身刑なので、仮釈放も何もなく、その結果、レナードが攻撃の対象になったのだ。
だが、これに対してレナードは『どうぞご自由に!』と朗らかな笑みを浮かべていたので……所長はより一層の無力感に苛まれ、萎れたナスかなにかのような顔をして、刑務所を去ったのである。
そしていずれ、裁判が終わった暁には、彼自身が囚人としてブラックストーンに戻ってくることになる、のかもしれない。
……と、このようにして、実に完璧に刑務所内の革命を進めたレナードは、今日も元気にピアノを弾いている。
「気分爽快!実にいい気分だよ!」
ぽろろん、と最後の1フレーズを弾き終えたレナードは、何度目になるか分からない笑みを浮かべた。
「新しい所長は厳しいけれど良い人だしなあ。荒くれ囚人共が割と言うこと聞いてるし、本当に理想的な所長だよ。ここ80年で一番いい」
エルヴィスも楽し気に頷いて、笛をぴゅい、と吹く。そして彼らの横では『タンバリンマスター』と畏敬の念を込めて呼ばれるようになった囚人が、ぽんしゃんぽんしゃん、とタンバリンを奏でて『最近の飯は美味くて最高!』と喜びの声を上げていた。
「トイレの配管を錆びさせたり、こっそりネジを外したり、看守をイラつかせておいたり、全員で不健康なフリしたり……色々やったけど、上手くいって良かったよなあ」
「そうだね。まさかここまで上手くいくとは」
皆は頷き合って……だがそこで、エルヴィスが首を傾げる。
「だが、お前が囚人代表ってのはなんか納得いかねえんだよなあ……」
「えっ!?」
……そう。
今、裁判にあたって、レナードが囚人代表という立ち位置になっているのである。
「まあ、もともと音楽のリーダーはお前だったからな。それは分かる」
「うん。僭越ながら、僕も分かる!」
元々、レナードがここまで囚人達を引っ張ってきた。音楽への情熱が、物事を楽しもうとする心が……そして何より、彼自身の音楽の美しさが、囚人も看守も動かした。
今や、囚人達は『あれをやってみたい』『これもやってみたい』と、希望する者が増えている。ブラックストーン刑務所には囚人達のための小さな図書館があったが、そこで勉強する者が増えたり、出所後の夢を語る者が増えたり、良い循環が生まれている。
刑務所内での小競り合いも、減った。不思議なことに、レナードが音楽を始めてから、刑務所の中の雰囲気が随分と明るくなった。
これは紛れもなく、レナードがブラックストーンにもたらした変化だった。
……であるからして、ある種、レナードが囚人代表の立場になるのは、当然のことなのかもしれない。実際、新しい所長も、エリカ・ブラッドリーも、レナードが囚人達に囲まれているのを見てレナードを代表と決めたらしい。
……だが。
「でもお前なんだよなあー」
レナードである。このレナードである。ピアノや音楽のこととなると全てを放り投げてしまいがちな、このレナードである。ついでに、躊躇なくズボンやパンツを脱ぐことでも知られるレナードである。彼の人となりを知っていると、どうにも、『囚人代表』としてどうなのか、という気分になってしまう。
「うん……あの、エルヴィス。僕ってそんなに代表に不向きかな?」
「まあ、ズボンもパンツも脱ぐ奴だから……」
「あれはピアノを守るためだったし、第一、あれ、嗾けてきたの君だったじゃないか!」
「うん、いや、まあ、そうなんだけれどな、俺としてもまさかあそこまで思い切りよく脱ぐとは思ってなかったから……」
半笑いのエルヴィスと、エルヴィスの肩を掴んでがくがくとやるレナードとを見て、周りの囚人達は大いに笑う。
……そんな囚人達の笑顔を見て、ゆさゆさがくがく、とやられつつ、エルヴィスは思うのだ。まあ、レナードは周りを明るくしてくれるから、そういう意味では皆の中央に居た方がいいか、と……。
レナードは『囚人代表』として、弁護士との面会もこなす。
彼自身は『天使に会えるのは嬉しいけれど、ピアノを弾く時間が無くなる!』と嘆いていたのだが、その嘆きを聞いたエリカ・ブラッドリーは『あら!それは大変!ならあなたの作業時間に重なるようにして面会を入れるわね!』と気を利かせてくれたため、レナードは今や面会について『天使を拝んでくる!』とうきうき出かけていく始末である。
「エリカさん。あなたをモチーフに一曲作りたいのですが、よろしいですか?」
「あら、光栄だわ!勿論いいわよ!できたら是非、聞かせてね!……それで、それってどんな音楽になるのかしら?」
……そして面会の内容も、必要事項の伝達やサインが終わった後には、専ら雑談となる。エリカ・ブラッドリーはその辺りが大変大らかな人物であったので、レナードと妙に気が合ってしまったのであった。
「勿論、空を羽ばたく天使のような、軽やかな曲になることでしょう!実は、あなたを初めて見た時、まさに天使のようだと思いまして!」
「あら、あなたアイザックみたいなこと言うのねえ」
「えっ、彼、そういうこと言うんですか!?」
雑談の中に出てきた『アイザック』は、彼の妻をここまで送り届けがてら、一件商談に出向いているそうだ。仲睦まじい夫婦の様子を聞くと、レナードは思わずにっこりしてしまう。
「ふふ、そうなの。アイザックはね、私のこと、天使だって思ってるらしいわ!」
エリカから惚気を聞いてレナードは『素晴らしい!』とにっこりした。こうした話はレナードの糧である。もりもり食べて元気になろう!とレナードは意気込んだ。
「だからか、彼、絶対に私のこと、物扱いしないの。法学校の男の子達とは違ってね!……学校に居た男の子達って、どうしてか皆、女の子っていうものをお人形か何かだと勘違いしてたみたいなのよね。どれだけ綺麗なお人形を飾っておけるかを競い合ってたみたい」
「それは不躾ですねえ……」
「ええ、本当に!」
2人は笑い合う。エリカの方が年上であるし、男性と女性の差もある。だが、彼らは昔からの友人同士のように気安く話した。
「ところで、エリカさん。あなたとアイザックさんの馴れ初めを伺っても?」
「えーとね、まあ、彼はあの時囚人で、私は奉仕作業先の娘だったわ。……ほら、私のパパが花屋で、エルヴィスの友達だから」
レナードは、『ああ、そういえばそんなことをエルヴィスが言っていたなあ』と思い出す。老いた友人が居るのだ、と。
……ということは、エルヴィスがアイザックとエリカのキューピッドだったということかもしれない。レナードは『エルフってキューピッドも兼業するんだね!』とにっこり笑った。
「それで、アイザックは、私を暴漢から守ってくれたのよ。……それでね、私、烏滸がましいかもしれないけれど……私、アイザックを救いたいって思ったの」
「えっ、逆では?」
エリカの話は、面白い。何せ、エリカ自身が面白いので。未知に溢れた魅力的な女性を前に、レナードはうきうきと話を聞き……レナードの後ろでは、見張りの看守も、少々そわそわしながらエリカの話を聞いていた。
「そうよねえ、私も、普通は逆だと思うわ。でもね……彼は、不遇だったせいで罪を犯して、でも、自分の身を顧みずに人を助けてしまう優しい人で、刑務所の中で色々なものを与えられて、だんだん変わっていった人よ。そんな彼を見ていたら、なんだか、ああ、この人が幸せになれる世界でなきゃいけないわ、って、そう思ったの」
「強いですねえ……」
「ふふ、ありがとう。それで、そう思ったら、私が彼を幸せにしたくなっていたのよ。そういうところはママ譲りだったのかも。ふふ」
魅力的である。強く美しく、行動力と愛に満ちた女性というのはこうも魅力的なのだ。レナードは『彼女のための音楽を作り上げなくては!』と意気込む。
「素敵だ……そうか、あなたは天使でありながら、魂を導くワルキューレでもある、と……」
「あなたもとっても面白い人よねえ」
エリカはくすくすと笑って……それから、ふと、レナードを見つめる。
「ねえ、レナード」
「あ、はい」
レナードも頭の中に生まれる音楽から意識を戻してエリカを見つめ返すと、エリカは彼女らしくもなく、少々、気まずげに、言った。
「それであなた……その、体の調子は、どうなの?」
それから、レナードと入れ替わりのようにエルヴィスが面会室に入る。エルヴィスはエルヴィスで、『参考人』としての立場を持っているのだ。何せ彼は80年以上も刑務所に入っているので、『当時の様子』を知るにはもってこいなのである。
今、エリカはエルヴィスに昔からの刑務所の様子を聞いて、前所長が就任してからの刑務所内の変化を記録し、刑務所の外や前所長が付けていた帳簿と裏帳簿を照合し、エルヴィスの話の裏付けを探す、という作業を行っているらしい。
……というわけで、エルヴィスもエリカとの面会を終えて、丁度昼の休憩の時に戻ってきたのだが。
「……どうしたんだい、エルヴィス」
エルヴィスは暗い面持ちであった。レナードが思わず声を掛けるも、エルヴィスはのろのろと顔を上げて、戸惑ったような表情のまま、またのろのろと俯く。
「グレンが、もう長くないらしい」
そして、そう呟いた。
「ああ……エリカさんのお父上だね。僕もそれ、聞いたよ」
エルヴィスの隣に腰を下ろして、レナードは、なんと声を掛けたものか、と迷う。
……エリカの父である、グレン・トレヴァーが余命幾許もないことは、つい先ほどの面会で、エリカから聞いていた。そして、グレン・トレヴァーがエルヴィスの大切な友人であることは、それより前からずっと、エルヴィスによって聞かされている。
「……あいつ、人間だからな。しょうがないって、分かっちゃ、いるんだが」
エルヴィスはのろのろと言葉を紡ぐと、深く、ため息を吐いた。
「何度味わったって、こればっかりは、どうにもなあ……慣れそうにない」
「君は優しいエルフだなあ」
深い悲しみに沈んでいるエルヴィスの背を軽く叩いて、レナードはふと、口を開きかけ、それから、閉じた。どうも、上手い言葉を思いつかない。伝えておくべきことはあるのだろうが、それでも、それを伝えるための言葉が無いのだ。
だが。
「なあ……レナード」
ふと、エルヴィスは、沈んだ顔を俯けたまま、じっと、視線だけをレナードに向けた。
「あの時吐き出してた血は、どう見ても本物の血だった。そして『血を吐いて倒れる』なんて、打ち合わせに無かったはずだ」
エルヴィスの言葉を聞いて、『ああ、そういやそうだったなあ』とレナードは思う。流されてはくれないよなあ、とも、どこか諦めにも似て、思う。
「お前、仮釈放の対象から外されることを恐れなかったよな。あれもずっと不思議だった。……なんでだ?ここに長くいる気は無いように見えるが、その割に長くいることになるような、懲罰の対象になることを恐れない。矛盾してる」
もう答えが出ているのであろうエルヴィスに対して、答え合わせをするのは少々気まずいが、これも無しにただ告白するよりは余程マシというものだ。
「うん……まあ、お察しの通り、僕が刑期を満了することはないだろうからね」
レナードは苦笑しつつ、努めて誠実であれるように、答える。
残酷なことを言っているとは分かっているが、エルフの友人である1人の人間として……いずれ死にゆく人間として、答えなければならない。
「実のところ、僕もそう余命が長い方じゃないんだよ」