花と音楽の革命*6
そうしてブラックストーン刑務所には、見学客がやってきた。
「ようこそ、ブラックストーン刑務所へ!」
……所長が明るくそう挨拶する後ろでは、如何にも疲れ切った看守達が愛想笑いを浮かべている。
見学客達はそれを見て、少しばかり、不穏なものを覚えた。
刑務所の中は、より一層、不健康な雰囲気に満ちていた。
「お、おい、何をしている!」
見学客の案内を行っていた所長は、通路に倒れていた囚人を見てぎょっとする。囚人はぴくりとも動かない。看守達が慌てて駆け寄り、囚人を抱え上げて奥へと連れていった。
「あの、今の人は……?」
「え?ああ、持病のある囚人でしてね。いつものことなんですよ」
所長はそう言って誤魔化したが、どう見ても、不審である。見学客達は顔を見合わせて、ひそひそと囁き合う。『これ、大丈夫か?』と。
通路の先で見学客達を待ち受けていたのは、囚人達の作業室である。大人しく真面目な囚人達だけを選りすぐって集めたこの作業室であるならば、見学客に見せるにも問題は無いだろうと思われた。少なくとも、先程のように突然倒れている者などは居るはずがない。
「こちらが作業室です。いくつかの部屋に分かれて、囚人達はそれぞれに作業を行っています」
部屋に入ってすぐ、所長は安堵した。ひとまず、囚人達は倒れることもなく、至って真面目に作業していた。
……だが、皆一様に顔色が悪く、疲れた様子である。よろよろと歩き、所長の見ていないところでは座って休み、そして見学客には隈の濃い顔に貼り付けたような笑みを浮かべて挨拶する。そんな囚人達の様子を見ていれば、嫌でも異様な雰囲気だと分かる。
「あの、所長。ここの囚人達は健康状態があまり良くないのですか?」
「いえ、そんなことは。健康診断はきちんと受けさせていますし、消毒作業も規定通りに行っていますので」
見学客の不審の目をいくつも向けられて、所長は慌てる。慌てて囚人達を睨みつけるが、囚人達はそれからそっと視線を逸らして、しょんぼりとした様子ですごすごと引き下がっていくばかりである。これではいかにも、普段から囚人を威圧して従わせているように見えるではないか。
何故急にこんな態度を取るのだ、と所長は苛立つが、その苛立ちを表に出すわけにもいかない。ただ看守に『こいつらをどうにかしておけ』と指示して、次の見学場所へ向かうしかないのである。
次に向かった先は、庭である。
ここならば、何も問題は無いだろう。今は作業時間中で、囚人達は誰もいない。そして何より、中庭にはエルフが世話をする美しい庭園があるのだから。
「こちらの中庭では、囚人達が休憩時間中に軽い運動をしたり、談笑したりしています。勿論今、彼らは作業時間ですので、ご覧の通り閑散としていますが」
特に何もない、荒れた土を踏み固めた中庭の様子を見て、見学客達は『まあこういうものか』と頷く。ようやくまともな施設の紹介ができる、と、所長は安堵した。
「そしてこちらがブラックストーンの庭園です。美しいでしょう」
……そしてその中庭の奥に、一番の見どころがある。今は丁度季節がよく、薔薇が咲き乱れてそれはそれは美しい様子であった。これには見学客も感嘆の声を漏らす。
「この庭園は、誰が維持しているのですか?庭師を雇っているとか?」
「いいえ、園芸が趣味の囚人達が集まって世話をしています。植物を育てることは囚人達の心の在り様に良い変化を齎しますからね」
「素晴らしい!囚人だけでこのような庭園が維持できるとは……」
元々、今日やってきた見学客達は、この庭に惹かれてやってきた者が多い。そこらの城の庭にも引けを取らないブラックストーンの庭は、見学客の目を大いに楽しませ、彼らを満足させた。
……だが。
がしゃん、バキン、と大きな音がしたかと思うと、続いて、水が噴き出す音が聞こえてくる。
「……これは?」
恐る恐る確認しに行くと……美しい庭の近く、刑務所の外壁に這っているパイプの一部が、錆びついて、破損していた。昨日のトイレでのアレのように。
それからはまた、大変だった。
看守達が慌ててやってきて、なんとかパイプの破損を直そうとする横を、所長はなんとか、見学客を連れて室内へ戻る。
見学客達は『施設の修繕はあまり行っていないようですね』と既に不信感を隠そうともしない。それに所長は『先程のパイプは既に使われていないものだったのですが、何か手違いがあって水が流れ込んだらしく』などと誤魔化して、次の見学場所である食堂へと向かう。
食堂にも囚人は居ない。囚人が居ない時間帯を選んだので当然である。そしてそこで、囚人達が食べているものと同じ食事を見学客に振舞った。
勿論、囚人達の普段の食事そのままなど出すはずが無い。他の刑務所に倣ったメニューを用意するように、と指示してあったので、その通りのものが供された。
所長が懇意にしているメーカーのチーズに、やはり懇意にしているメーカーのパン。チキンのソテーに、野菜をよく煮込んだスープ。豆の煮物、それにリンゴを混ぜ込んだ素朴なケーキ。
刑務所の食事から比べて少々豪華なそれを振舞って、『ブラックストーン刑務所では、囚人達が健康を保てるよう、食事の管理も手抜かりなく行っております』と説明する。幸い、それらの味は良かったらしく、見学客からは称賛の声ばかりが聞こえ、無事に食堂の見学が終わった。
それからシャワールームを見て回り、空っぽの独房を見て回り……そして、トイレのパイプがまた破損したらしく、廊下が水浸しになっているところに出くわした。
「所長さん。これは……」
「おや、昨日修理したばかりだったのですが……」
看守か囚人が手を抜いた結果だろう。所長は最早どうすることもできず、ただ、進路を変更して回り道することにした。……だが、これが良くなかった。
「ほら、とっとと動け!」
丁度、作業室から別の作業室へ移動していた囚人達を、看守が手荒に突き飛ばす場面に、丁度出くわしてしまったのである。
「な、何をしている!」
所長は慌てた。当然ながら、看守から囚人への暴力はやむを得ない場合を除いて禁止されている。少なくとも、今ここで、見学客の前でやることではない。
「お前はクビだ!このように、このように囚人に暴力を振るうなど……」
だが、所長がそう、言った途端。
「……これは、あなたの指示ですが?」
看守が、ぎろり、と睨みつけてきたのである。
「口の減らない囚人は懲罰房に入れろ。そして二度と懲罰房に入りたがらないように痛めつけてやれ。……そのように、伺っておりましたが?」
そこで所長はようやく気付く。看守からの人望を、まるきり失っていたことに、ようやく、気づいたのである。
それからは散々なものだった。
見学客は所長への不信感を隠そうともしなかったし、『これは由々しき事態では?』と大いに騒ぎ始めた。これは厄介なことになった。どうにか彼らの口を閉じさせられないか、と所長は考えたが、どうにもその方法が思いつかない。
ならばせめて何か場繋ぎを、と考えるが、最早、見学客は皆、すぐさま帰ってその帰り道に『然るべき機関』へ駆け込みそうな様子である。このまま彼らを帰してはいけないが、引き留める方法も無い。
ならば、彼らが訴えに出た後で何とかできるように、諸々の機関へ賄賂を贈っておくしかないか、と所長が考え始めた、その時だった。
「あのーう、見学客の皆さんに、音楽の披露を、と思ったのですが……」
ひょっこり現れたレナードの姿に、所長は言い知れぬ安堵を覚えた。救いの手だと思ったのかもしれない。レナードは他の囚人達と同様、やはり疲れた顔をしてはいたが、陽気に振舞う姿は、今、実に好ましく感じられた。
「是非頼もう。君達も今日のために練習を重ねてきたのだろうしな」
「ええ!演奏の機会を頂けることを、大変嬉しく思います!」
レナードは笑って、どよめく見学客へ笑いかけた。
「皆さん!本日はブラックストーン刑務所へお越しくださり、誠にありがとうございます!また、先の音楽祭にもお越しいただいて……おや!そちらのご婦人は花を買って行かれましたよね?ありがとう!……ああ、そちらの方も!庭はもうご覧になりましたか?お気に召したならよかったのですが」
そしてレナードが話し始めると、見学客は皆、ひとまず所長への不信を忘れたらしい。更にエルヴィスがやってきて、『さあ、是非こちらへ』と案内を始めると、見学客は流石に今すぐ帰ろう、という風でもなくなり、エルヴィスとレナードの誘導に付いていくようになった。
「さあ、皆さん!どうぞ、お好きな席へ……」
そしてピアノの部屋へ到着した一行を、軽快なタンバリンの音が出迎える。しゃらしゃらぱんぱら、と楽しく鳴り響くタンバリンと、見学客を出迎える笑顔。その囚人達全員が妙に顔色の悪い様子である以外は、至って完璧な出迎えであった。
これには所長も安堵の表情を浮かべる。ひとまず、最悪の印象のまま、彼らをここから帰さずに済みそうだ、と。
ならば、多少は裏取引の余地があるだろう。関係機関への根回しの時間も、得られる。所長は早速、諸々の算段をつけ、思考を巡らせはじめる。
「それでは僭越ながら、我ら囚人楽団が音楽を演奏させていただきます!是非お聞きください!」
所長の視線の先、見学客の視線の集まる先でレナードが笑顔でそう言って、拍手を浴び……そして。
……そこでレナードは、血を吐いて倒れた。
所長が固まる中、エルヴィスが真っ先に動いた。『レナード!レナード!しっかりしろ!』と慌てた声が響き、そして、一拍遅れて、見学客達の悲鳴が響く。
部屋の中は混乱の渦に飲み込まれた。騒ぎを聞きつけた看守達がやってきては、『これは何事ですか!?』と所長に尋ねるのだが、所長も只々、困惑しているばかりである。
……そんな中。
「……ああ、くそ!ここの飯が貧相なばっかりに!栄養があれば治る病気だってのに……!」
レナードの口元に耳を寄せて何かを聞いていたらしいエルヴィスが、そう、言っていたのである。
これには所長も、驚いた。
そして……向けられた数々の視線に、所長はいよいよ、逃げ場がないことを悟った。