花と音楽の革命*2
所長の登場に、看守達は姿勢を正して敬礼し、囚人達はぽかん、とする。
そんな様子を眺めた所長は、未だピアノの椅子に座ったままのレナードを見つけると、笑顔で近づいていく。
「君は実に素晴らしい演奏家のようだ。漏れ聞こえていたが、先程の演奏は実に上品で良かった」
「ああ……ええと、光栄です。ありがとう」
レナードは演奏後の高揚感に満足されながら、所長の言葉に微笑み返す。
すこし冷静になってみると、これはまずいかもしれないな、と、思う。何せ、今まで散々取り締まられていた音楽をこれでもかという程演奏していた直後なのだから。
だが、これで罰されることになったとしてもかまわない。自分は何も恥じるべきことなどしていない。自分の演奏に、悔いなど無い。……そんな思いで真っ直ぐに所長を見つめると、所長は、ちら、と、そんなレナードを見て……顔を顰めた。
「ところで……あー、その、何故、君は、ズボンを履いていないのかね?」
……レナード本人もすっかり忘れていたことだが、レナードは未だ、『脱糞するぞ!』の勢いでズボンを脱いだまま、下半身丸出しであった。所長はレナードに歩み寄ってきた過程で、それにようやく気付いたようであったし、レナードも言われてようやく気付いた。
「まあ、色々ありまして」
とりあえず愛想笑いを浮かべてみる。実際に色々あったんだからしょうがない、と開き直りつつ。
すると、所長は周りの看守に『これは一体何が?』というような視線を送り、看守達が皆それぞれに『分かりません』『お手上げです』といった身振りをして見せるのを見て……言った。
「……服を着なさい」
「あ、はい」
言われたレナードは、いそいそとパンツを履き、ズボンを履き、『案外、下半身が丸出しだと寒かったんだなあ』と気づく。パンツもズボンも、履いてみると暖かいものだ。失って初めて気づくものもあるんだね、とレナードはしみじみ思った。
「さて……その、君の先程の演奏は、実に素晴らしかった!」
そうしてレナードが服を着たところで、所長はまた、話し始めた。
先程までの美しい演奏が下半身丸出しの変態によって行われていたという事実にはそっと蓋をすることに決めたらしい。まあそれならそれでいいよ、と合意したレナードは『光栄です』と二度目の微笑みを浮かべた。
ここの所長がどういった人物かは、もう知っている。だが、それはそれだ。自分の演奏を称賛してくれるのならば、それは素直に受け止めようと思う。悪人でも善人でも、音楽を愛する権利はある。レナードはそう、考えている。
「そこで……そうだな。君が、この刑務所の中で演奏しているだけというのも惜しい話だと思ってね」
だが、そう話が続くと、流石のレナードも、困惑するしかない。
「どうだ?君、演奏会を開かないか?」
「演奏会?」
「ああ、そうだ。ブラックストーン刑務所の近隣の施設に君達が出向いて、演奏する。近隣住民には、ブラックストーン刑務所へ親しみを持っていてもらいたいからね、その理解促進のために。奉仕作業の一環だと思ってくれればいい」
所長の言葉を、レナードはぽかんとして聞いていた。一体何の話だ?一体これは何語だ?とでもいうかのような、そんなレナードの表情を見て、所長は『物分かりの悪い囚人だ』とでも言いたげな顔をしたが、すぐ取り繕った笑みを浮かべた。
「君のピアノの腕があれば、十分に『ピアノのある会場を貸してくれ』と申し出る理由になる。観客だって納得するだろう。どうだ、君のその能力をブラックストーンのために役立ててほしい」
「ええと……身に余る光栄です。それで、その、ちょっとばかり身に余り過ぎ、というか……」
レナードは少々、及び腰になる。突然のことで受け止めきれていないということもあり、所長の意図が分からないということでもあり、レナードは是非の判断が付かない。
そんなレナードの煮え切らない態度を見ていた所長は、少々苛立ったように続けた。
「君が演奏会に出るということなら、音楽の練習用に、このピアノを置いておくことができ」
「やります!」
が、ピアノの話を出した途端に返事をしたレナードを見て、所長は『何なんだこの生き物は』とでも言いたげな顔になってしまった。レナードは『ピアノが守られた!』と喜んでいるのでその顔をまるで気にしていないのであった。
それからレナードは、ふと、思い至る。
これは他の仲間達にも恩恵があるべきだね、と。
「所長。できれば合奏をしたいので、他の囚人達にも演奏の許可を頂きたいのですが」
「合奏?しかし、他の囚人の腕前ではちょっとね……」
所長は少々渋るような様子を見せていたが、レナードはここで引き下がるわけにはいかない!とばかり、奮起する。
「お言葉ですが、所長。エルヴィス・フローレイの笛の腕前は人間では成し得ないものですし、十分に聞きごたえがあるかと。それに、ブラックストーンの印象改善のためには、やはり囚人が1人で演奏しているより、複数名で演奏していた方が良いのでは?それに、彼らの指導なら私がある程度こなせます。必ずや、一定水準を超えた演奏をお聞かせしましょう」
レナードの言葉に、所長は、ふむ、と考える素振りを見せる。それを見たレナードは『よし、もう一息!』とばかり、言葉を続けた。
「それに何より、タンバリンが……タンバリンがとてつもなく上手い奴が1人、おりまして……彼の演奏は聞くものが聞けば間違いなくプロ演奏集団からのオファーが来るような、そういった、僕のピアノより遥か高みにあるもので……いや、本当に彼は知名度さえあればどこででもタンバリンで食っていけるような、そういう奴なのです!奴のタンバリンを公にしないことは世界的損失であり、ひいてはブラックストーンの大きすぎる損失になります!所長、奴のタンバリンをお聞きになったことは?もしまだご存じないということなら、是非、今すぐにでも、お聞きください!奴のタンバリンは世界一!奴のタンバリンは世界一ですよ所長!奴のタンバリンは!」
「ああ、ああ、分かった、分かった!」
少々続きすぎた言葉に所長は辟易した様子でそう言うと、ため息を吐き出して、そして、折れた。
「仕方がない。そういうことなら、他の囚人も参加してよいことにする」
レナード、そして傍に居たエルヴィスや他の囚人達はたちまち表情を明るくした。これで言質は取った。皆で音楽を奏でていても、看守に取り締まられることは無いだろう。
「だが、くれぐれも客をがっかりさせるような演奏はしないでくれたまえ。いいな?」
「はい!」
元気よく答えつつ、レナードは……『さて、大きな問題がいくつか生じてしまった』とも、思っていたのだった。
……ということで、『演奏会を開こう』という所長の提案もとい命令によって、刑務所の中は再び音楽に満ちていった。
これは実に喜ばしいことである。『一足先に春が来た!』とばかり、庭を駆けまわりながらタンバリンを叩く者が現れ、笛の音が響き、そして喜びを歌う声が空気を明るくしている。
だが……それはそれとして、レナードは只々、頭を抱えていた。
「実に大変なことになってしまった……」
そう。レナードはなんと、緊張しているのである!
「人前でピアノ弾いてたんだろ?なら慣れっこでもないのか?」
「だって、演奏会だよ?確かに僕はレストランや酒場で弾いていたけれど、それってお客さんは皆、料理を食べに来たり、酒を飲んだり話したり笑ったりするために来ていた訳で、僕のピアノを聞きに来てたわけじゃないんだよ」
レナードはぶつぶつと呟きつつ、庭の木に積もってしまっている雪を退かしていく。あまりに重く雪が積もってしまうと、枝が折れてしまうこともあるらしい。そうならないように、早目に雪を下ろしてやるのだ。
「その点、演奏会っていうのは音楽を聞きに観客がやってくるわけだろう?そんなの、どう考えたって身に余るよ」
「でも嬉しいだろ?」
「そう!その通り!その!通り!なんだよ!エルヴィス!」
雪を握りしめ、我が意を得たり!とばかりに叫ぶレナードに、エルヴィスはてきぱき雪を下ろしつつ『うるせえ』とけらけら笑う。
「ま、いいじゃねえか。お前が楽しいことやるのが一番だって」
「うーん、我ながら贅沢な悩みではあるんだよ。演奏会が嬉しくて、でも緊張して、どうしようかって、わくわくもどきどきもしてる。こんな感覚、本当に贅沢だよね」
レナードは苦笑すると、雪を払い終わった木の幹を軽くポンと叩いて『君もそう思うだろ?』と木に話しかける。勿論、木からの返事は無いが。
「ま、それに……所長がわざわざ演奏会を開くなんて言ってる時点で、絶対に金儲けが絡んでるんだろうなあ」
次の木へ移動しつつ、ふと、エルヴィスは言う。
「だから、俺としては乗ってやるのも癪なんだよな。でも、お前の音楽を聴く人が増えたら嬉しいな、とも思ってる」
「ああ、うん、僕もだよ。あの所長の思い通りになってやるのは癪なんだけれど、それはそれとして、ピアノを弾きたい気持ちはある……」
そう。所長がわざわざ、自ら、煩い囚人達の音楽を認めるようなことを言いだしたのだ。勿論、レナードのピアノの腕が当初の所長の想定を遥かに上回るものだったということもあるだろうが……それでも、賄賂に塗れたあの所長が、単なる善意からレナードの演奏会を提案するわけがない。
だからといって、囚人であるレナードには演奏会を拒否する権利が無いようであったので仕方ない。勿論、当日にレナードがピアノの前に座りながらピアノを弾かないことはできるが、それはピアノや音楽、つまりレナード自身の魂への裏切りである。そんなこと、レナードは絶対にしない。
「あの所長が考えそうなことっつったら、演奏会で寄付を募って、それで私腹を肥やす、とかか?」
「ああ、あり得そうだ!」
大方、演奏のできる囚人を見世物にして稼ぐつもりなのだろうと思われるので、レナードもエルヴィスも、この演奏会の提案には複雑な気持ちである。
「でも、演奏会はやらないとなあ。所長の命令だし、音楽はお前の命なわけだし」
「それに、ほら。彼のタンバリンの腕前を世間に知らせないと。あれは埋もれていい才能じゃない。絶対に世間に発掘させなきゃ」
「だよなあ。あの情熱はちょっと類を見ないぜ……」
今も、しゃらぱらしゃらぱら、とタンバリンを鳴らしては恍惚としている例の囚人のこともある。演奏会自体は、やらねばなるまい。彼の出所後に音楽家の道を拓くためにも。
「……だが、逆に考えればこれはいい機会になるかもしれないぜ」
だからこそ、2人はここで腐っている訳にはいかないのだ。
「上手くやれば、僕らが活動するための名分を手に入れられるよね?」
「ああ。演奏会の名目がある以上、もう、看守も囚人達の音楽を止められないさ。それに……演奏会は、俺達が外部と接触する機会にもなるからな」
強かな囚人2人は、にやりと笑い合う。
「利用し返してやろうじゃないか、エルヴィス。それで、僕らにとってよりよい環境を、掴み取るんだ!」
「ああ、やってやろう!」
2人の密談は、タンバリンの音を背景に楽しく続いた。そしてどんどん膨らんでいき、やがて、楽しい計画が生まれたのである。
さて、そうして演奏会は春の盛りに設定された。それまでの間に、レナードも囚人達も楽しい作戦を講じることは勿論必要だったが、それ以上に、音楽の練習が必要であった。
レナードはエルヴィスと他数名の囚人達を募って、小さな音楽隊を結成した。
ピアノが設置された部屋に集まって皆で練習し、数曲、披露するに相応しい完成度の曲を用意することができた。
そしてそれとは別に、レナードはピアノを1人で練習した。……囚人達が限られた資材で作った楽器を演奏する、というのも目新しいだろうが、音楽自体の巧拙としては、レナードが1人でピアノを演奏するものに勝らない。
刑務所の外で受けがいいのも、レナードのピアノだろう。そういうわけで、レナードは看守及び所長とも相談した上で、ピアノ独奏も数曲、披露する予定としている。
……そして、レナードが1人でピアノを練習している間、他の囚人達は庭仕事をしていた。
これは『作戦』に必要なものである。演奏会が春の盛りに行われる、ということに大いに感謝しつつ、皆は懸命に庭を世話した。
もう、春は近い。