花と音楽の革命*1
レナードは混乱した。それこそ、呼吸すら忘れる程に、混乱した。
「えっ!?えっ!?ピアノ!?なんで!?ピアノ!?ピアノ!?ピアノ!ピアノ!」
「人間の言葉を思い出せって」
「ぴっあーの!」
「おーい」
たまらず、レナードは走り出す。後から走り出したエルヴィスにあっさりと追い付かれたが、気持ちだけは誰よりも速く走っていた。
……そうして、エルヴィスに『そっちじゃねえ!こっち!』と数度案内されつつ、レナード達はその一室へ辿り着いて……。
「……ピアノ」
そこにピアノが設置されているのを見て、レナードは目を疑った。
ピアノである。確かに、ピアノがそこにあった。少々小ぶりで、そして古びてはいたが。それでも確かに、ピアノであった。
蓋を開けてみれば、白と黒の鍵盤が並ぶ。安く作った代物らしいが、鍵盤を一つ押せば、ぽん、と軽やかに澄んだ音が部屋の中に響いた。
……そしてその蓋の裏側に、『ブラッドリー魔導製薬寄贈』と書いてあるのを見つけて、レナードは目を見開く。
「これ……アイザックさんが?」
「ああ。あいつと、エリカだな。近くの酒場がピアノを売りたいっていうんで、それを安く譲ってもらって、それをそのまま寄付してくれたらしい。お前の演奏を聞いて、そうしてやるべきだって思ったんだとさ。手紙にエルフ語で書いてあったよ」
レナードは言葉を失って、只々、ピアノを見つめていた。
人の善意と献身によってここにあるピアノだ。音も美しければ、ここにある経緯まで美しいピアノだ。この美しさを前に、レナードの魂は、心は、今、存分に震えている。
「これ……いいのかな、弾いても」
「ピアノを弾かなかったら、何のためのピアノだ?物置きの棚にするには惜しいだろ」
エルヴィスに笑いかけられて、レナードはそっと、ピアノの前に座る。古い椅子はぎしり、と軋んだが、それすらもレナードの張り詰めた緊張を優しく揺らすだけだ。
レナードは、鍵盤に指を置いた。
一度、奉仕作業先で思い出してしまったあの情熱が、まだ自分の中にあることを知った。
そして、その情熱を伴って、指が動き始める。
……その直後。
「おい!何をしている!」
ぞろぞろとやってきた看守達によって、レナードの演奏は止められた。
レナードは取り押さえられ、ピアノの前の椅子から立たされる。看守達はぞろぞろとやってきては、『何でピアノなんかあるんだ?』『寄付らしい』『厄介だな、所長室にでも置くか』『薪にしてもいいが』と囁き合う。
彼らの囁きを聞いたレナードは……自分の体のどこにこんな力があったのか、と自分でも驚く程の力を振り絞って、看守の拘束を振り払う。
まさかレナードに振り払われるとは思っていなかったらしい看守達は驚き、そしてその一瞬の間に、レナードはピアノの傍へと戻る。
「このピアノは囚人達の為に寄付されたピアノです!どうか、奪わないでいただきたい!」
「なんだと?」
最早、看守達は囚人への暴力など躊躇わない。レナードに向けて拳が振るわれ、荒事に慣れている訳でもないレナードは、殴り飛ばされることとなった。
だがそれでも、レナードは立ち上がる。真っ直ぐに、看守達を見つめて、何とかこのピアノだけは守らねば、と訴える。
「邪魔だぞ!退け!」
「嫌だ!退かない!僕の命は音楽のためにあるんだ!そんなにピアノを取り上げたいなら、僕を殺していけばいい!」
レナードが声を張り上げれば、いよいよ看守達は気色ばみ、『ならば』とばかり、レナードへ向けて、拳や警棒を振り上げる。
だが。
「この楽器は見逃してくださいよ」
エルヴィスが、看守達の前に立つ。希少なエルフを前にして、看守達は若干、怯む。だが、『エルフだから何だ』とばかり、警棒を構え直す者もいる。
そんな緊張状態の中、エルヴィスはただ、看守達を睨むでもなく、至って平静に見つめ返した。
「じゃなきゃこいつキチガイなんで、うんこ投げますよ」
……そして、レナードを指差しながらそう言った。
「うん!よし!そうだ!僕はキチガイだ!このピアノを守るためならうんこだって投げよう!」
そしてレナードは躊躇うことなくズボンとパンツを下ろした。
「命は惜しくない!ならプライドだって全く惜しくない!僕には死ぬ覚悟だって、うんこを投げる覚悟だってある!」
「だよなあー。お前、こういうことしそうだって思ってたよ」
けらけらと笑うエルヴィスと、一周回って振り切れてしまったレナードに、看守は慄くしかない。
レナードが『この場で脱糞するぞ!』と脅せば、看守達は慄くしかない。
そうして看守達の士気は、下がった。それはそうである。命を惜しまない囚人には慣れていても、脱糞を惜しまない囚人には慣れていない。
下半身丸出しの男が『脱糞するぞ!』と喚いていたら、真正面から戦ってやる気にはなれない。ただ嫌悪の視線を未知の生物へ向けつつ、戸惑うしかないのである。
「まあ、ここで争ってもそっちにだって得が無いはずですよ。ちょっと俺の話を聞いてください」
その間に、エルヴィスが早速、言葉で割って入った。
これに、看守達は少々、戸惑いつつも従う。何せ彼らは士気が落ちているし……エルフが自ら何かを申し出てくるのだ。警戒を露わにしながらも、看守達はじっと、エルヴィスを睨み、そして、レナードを狙っていた拳や警棒を、下ろす。
それを見たエルヴィスは安堵したように笑みを漏らすと、朗々と話し始めた。
「このピアノは、ブラッドリー魔導製薬から寄付されたもんです。で、あそこの奥方は、トレヴァー弁護士事務所の所長さんだ。ここの囚人達に寄付したものがここの囚人達に行き渡っていない、ってことが知れたら、寄付したものの使用状況くらいは照会要請がくるんじゃないですか?そうなった時、ピアノはともかく、不味いもの、ありますよね?」
これには看守達も黙るしかない。……看守達とて詳しいことを知っている訳ではないが、ここの所長が何かしているということくらいは知っているのだ。
「勿論、ここの所長さんを告発しちまうってのも手だとは思いますけど」
「な、何を言っている貴様」
「まあそれは置いておきましょう。この話を続けると隣のやつがうんこ投げそうだし……」
『所長』の話を聞いていたレナードがいよいよ険しい顔になってきたので、そっと、エルヴィスは話を逸らした。尚、この間もまだ、レナードは下半身丸出しである。なので、異質な緊張感がある。
「えーと、それに……ピアノを置いておくとそちらの手間が省けますよ。ピアノはそうそう場所を移すことはできませんから」
「どういう意味だ」
異質な緊張感の元からはエルヴィスも看守達もそっと意識を逸らして、対話を続ける。理性的に対話を続けていないと脱糞しそうな奴が居る状況なので気が抜けない。
「簡単なことです。ピアノは動かせないから、囚人は皆、ここに集まってくるようになる。だから囚人を監視するにも、この部屋だけ見ていればよくなる。部分的に音楽を許可することで、暴動も起きなくなる」
エルヴィスの言葉は、看守達に検討の余地を生じさせた。『確かに、その通りだ』と考える看守は、案外多かったのである。
そして畳みかけるように、それでいて静かに、エルヴィスは再度問いかける。
「だから、この楽器は見逃してもらえませんか」
エルヴィスはそう言って、看守の前に立った。そしてその後ろには下半身丸出しのレナードが立っている。
……看守達はそれを見て、『一度検討する』と、監視役の2名ほどを残して、去っていったのだった。
「よーし、お手柄だ、レナード!」
「ああ……ありがとう、エルヴィス!よかった、ピアノが薪にされるなんてこと、絶対にあってはならないことだよ」
エルヴィスとレナードは笑い合い、改めて、ピアノを見る。ひとまず撤去も廃棄も免れたこのピアノは、より一層美しく可愛らしく見えた。
「……弾いていいかな」
「いいんじゃねえの?看守達は今、どうせ会議だろうし、見張りの2人も会議中の他の連中を引っ張ってくるのは面倒だろうし」
エルヴィスの囁きを聞いて、レナードはまた、ピアノの椅子へ座る。
……やはり、ここが自分の場所だ。
そう改めて思いながら、レナードは鍵盤の上で指を動かし始めた。
レナードの演奏は、刑務所の中に染み渡るように響いていった。見張りの看守2人も驚くような腕前で、見事な演奏を披露したのである。
冬の古城の物悲しくも美しい様子が、音となって表現されていく。静かに降り積もる雪のように、音が降り注いではそっと空気へ溶けていく。それを聞きつけた囚人達は、そっと、レナードの演奏を聞きに集まってきた。
……静かだった。囚人達は皆大人しく、静かに……つい先日、暴れて看守と揉めたような者達でさえもが、静かに、レナードの演奏を聞いていた。
看守もまた、静かに音楽を聞いていた。彼らとて、音楽をゆっくりと味わうのは久しぶりのことだった。久しぶりの音楽は、看守達の心の隙間を埋めるように優しく広がっていく。
やがて、会議中だったはずの看守達も何人か、レナードのピアノを聞きにやってきた。彼らもまた、静かに、音楽の邪魔をしないように、黙ってそれを聞いていた。
……そうしてピアノの部屋ではしばらく、囚人も看守も関係なく、皆が音楽を味わうことになったのだった。
そうして一曲終わった時、部屋の中は割れるような拍手で満たされた。
皆がレナードを讃えた。その気持ちに偽りはなく、皆が、ただ美しい音楽の余韻に満たされ、その感動を伝えようと手を叩いていた。
看守達もまた、『これは見逃してやってもいいか』とばかり、ゆっくりと控えめながら拍手していた。
囚人達は看守と違って遠慮が無い。遠慮なく割れんばかりの拍手を送り、口々に『いいぞ!』『お前、やるじゃないか!』と賛美の言葉を送った。『ところでどうして下半身丸出しなんだ?』『ああいう奏法なのか……?』とも囁き合っていたが。
皆が感動に満ちている間、レナードはピアノの椅子に座ったまま振り返って、自分が思っていたより随分と多くの観客が居たことを初めて知り、ぽかん、としていた。
こんなにも多くの人が自分の演奏を聞いていたとは思わなかった。そして、自分の演奏が、こんなにも、彼らの心を動かしたのだということも、今初めて知った。
……そんな騒がしい部屋へ、一つ、上等な革靴の音がコツコツと近づいてくる。それに気づいた看守は姿勢を正し、その異質な雰囲気に何人かの囚人達も気づいたが……そこで、警護の者を引き連れた男が1人、入ってくる。
「今の演奏は、一体?」
白髪混じりの男は、紛れもなく、このブラックストーン刑務所の所長である。